9
雪降る夜の中、行者たちは手分けして珀麻を探した。
〈念〉をいくら伸ばしても、珀麻は気配はつかめなかった。
卓我のように生まれついて〈念〉を持っているのか、何かの力に守られているのか。
尽とともに、子供の入り込めそうな獣道を辿りながら草は考えた。都を追われた卓我と珀麻、鬼は、彼らの鬱積した心に乗じたのだろうか。鬼は時空を繋ぎ、自分はそれに巻き込まれた?
(草)
突然、茂利の念が入り込んできた。
(来てくれ、すぐに)
有無を言わせぬ、さしせまった念だった。
草は立ち止まった。
(どうした?)
返事はない。 行ってみるしかなさそうだ。
「大聖が呼んでいる」
草はかたわらの尽に言った。
「帰らなくては」
「お供しましょう」
茂利の庵には四五人の下人たちがいて、黒い大きなものを運びだそうとしていた。
草は目をみはった。歯をむき出した狼の死体だ。
なぜこんなものが?
茂利は炉の前に、ぐったりと座り込んでいた。老いさらばえた身体はさらに小さく見え、触れれば枯れ枝のようにぽきぽきと音をたてて崩れ落ちそうだ。
「尽」
茂利は、ようやく声を出した。
「それを葬ってやってくれ。ていねいにな」
「わかりました」
尽が下人たちと行ってしまうと、茂利は深いため息をついた。
「何があった、茂利。あの狼はなんだ」
茂利は、虚ろな眼差しを草に向けた。
「珀麻がここに来た。また逃げてしまったが」
あっけにとられて草は言った。
「なんのために」
「狼が連れてきた」
「狼」
「あの狼は草だ」
「わたし?」
「狼がそう言った」
「狼が?」
突拍子もない話に、草は思わず笑い声を上げた。
「人の言葉でか」
「心語を使った。わたしは、否定できなかった」
草は、杜の悲痛な表情を見つめた。杜は嘘をつけない人間だ。
草は真顔になり、混乱して茂利の前にかがみこんだ。
「本当なのか」
茂利の腕に手をかけ、
「なぜ、わたしが狼なんだ」
「輪廻を繰り返した後に」
「輪廻」
草は呆けたようにつぶやいた。
「どういうことだ」
「草は過去に戻って間もなく死に、何度目かの転生の後にここに現れた」
「あんたは、わたしが戻らなかったと…」
「少なくともわたしのもとには」
茂利は、悲しげに言った。
「そう思っていた」
「ちがうのか」
「ああ」
「過去に戻ったわたしは、狼となってここに来る」
眉をひそめて茂利を見つめ、
「あの狼は、なぜ死んだんだ」
「わたしが〈念〉を使った」
茂利は、両手に顔をうずめた。
「さもなければ殺されていた。わたしは、まだ死ぬわけにはいかん」
「なぜ」
草は息を呑んだ。
「なぜ、わたしがあんたを殺そうとした」
「草は、〈谷〉に戻って間もなく死んだ。手を下したのは、わたしだ」
「まさか!」
「記憶がある。確かに」
茂利は顔を上げ、自分の両手を見つめた。
「可名さまに命じられた。わたしは拒めなかった。草が鬼になれば、それはすさまじい力を持つことだろう。可名さまの恐れは、もっともだ」
茂利は口をつぐみ、首を振った。
「いや、わたしはずっとどこかで、草がいなければいいと思っていたのかもしれない。わたしより、すべてのことが勝っている草がな」
「信じられない──」
「わたしも、信じたくはない」
茂利はきつく目を閉じた。
「いまの私には、幾通りもの記憶がある。思い出そうとすればするほど、別の記憶がよみがえってくる。卓我の死後からのものだ」
「わたしは、戻らなかったはずだ」
「そうだ。それから、戻ってきた草が死ぬことなく、ともに老いた記憶もある。それとも、これは願望なのか? わからない、なにもかも」
「あんたが」
草は、必死で首を振った。
「わたしを殺すはずがない」
「しかし、あの狼をどう説明する」
「ちがう時間軸だ。ここにいるわたしたちにとっては、起こりえるはずもない世界が紛れ込んだんだ」 「起こりえるはずのない──」
茂利は祈るように繰り返した。
「そうだ」
草はうなずいた。
「時の流れがいくつもの可能性で成り立っていて、その一つ一つが違う時間軸を作っているならば、ちょっとした食い違いが続いてあんたがわたしに殺意を持つ世界もあるかもしれない。だが、わたしの知っているあんたは、そんなことはしない。それだけは確かだ」
草は茂利の枯れた手を握った。
「わたしの記憶が幾通りもあると言ったな。ともに老いたわたしは、まだ生きているのか?」
茂利は眉根の皺をいっそう深くし、遠くでも見るように顔を上げた。
「生きている。聖になる前に草は還俗した。もう修行は飽きたと言ってな。〈谷〉に残っていれば大聖にもなれたはずなのに、わたしに譲ったかたちになった」
「違うな。誰だってあんたの方がふさわしいと思う」
茂利はかぶりをふり、考え込んだ。
「だが、草。これはすべてわたしの混乱した記憶でのことかもしれん。事実は一つだけで、草はもとの時間に戻り、わたしに殺され、輪廻を繰り返して狼となり、またわたしに殺された」
「そう考えたほうが複雑じゃないが」
草は声を押し殺した。
「確かめてくれ」
「確かめる?」
「今の時代の私に念を送るんだ。答えるだろう。ここから戻り、あんたとともに歳を重ねている私なら」 「だとすればどんなにいいか」
茂利は目を伏せた。
「しかし、狼は紛れもなくここにいた。狼と年老いた草。あってはならないことだ。草にとって違う未来が、同じ時空に存在しているなど」
「狼は違う時間軸から紛れこんだ。同時にいてもおかしくはない」
「わたしには、草が戻ってこなかった元々の記憶もある。それも違う時間軸なのか? どれが真実なのか…」
茂利は両手で顔をこすり、大きくため息をついた。
「これ以上、時空を混乱させるわけにはいかない。からまりあった時間軸をどう解く? もつれて切れてしまえば、この世界の存続すらあやういものになるだろう」
草は茂利を見つめ、顔をゆがめた。
「なぜだ。鬼が関係しているのか」
「わからん。いままで鳴りをひそめてきただけ、鬼の力は大きくなったのか。〈谷〉だけではあきたらず、この世界そのものを滅ぼすつもりなのか」
「卓我は何者だったのだろう」
「珀麻もだ」
鬼に殺された卓我、鬼を秘めている珀麻。
草は、時空をへだてて出会った時の珀麻を思い出した。さらに、さっき再び会った時の。
ただのおどおどした子供だった。彼自身、自分が何であるのかわかっていないのではないか。助けを必要としているのに、やみくもに逃げ回っているのかもしれない。
逃げたいのは自分も同じだ。
草は思った。
ここにいる自分の存在そのものが、時間軸を乱している元凶だとしたら。




