43:つまりは延長
「本当に、予想外のことが色々とあったなぁ」
「そうですねぇ。あのサロンもしばらく使えなくなりそうですし」
「ドアが綺麗に吹き飛んだからな。あのお嬢さん、魔法の腕がいいわ。あれをやって、よく他に被害が出ていないよ」
王城の三階のバルコニー。そこでフロルとアイルは、手すりに背中を預け、ティー・スカッシュを飲んでいた。
レモンの爽やかな酸味と甘さが、しゅわしゅわした炭酸水と共に、口の中に広がる。
これはフロルの母であるネルケが作ったものだ。昔から夏になると母はこれを、フロルによく作ってくれていた。
今はまだ夏ではないものの、しばらく会えなくなるからと、ネルケが用意してくれたのだ。後でレシピも書いて渡してくれるとのことで、フロルは楽しみにしている。
両手でグラスを持って、ひと口こくんと飲む。美味しい。フロルがはにかんでいると、同じ様にティー・スカッシュを飲んでいたアイルが「そう言えば」口を開いた。
「ルーナはどうしてあんなにも、フロルのことが好きだったんだろうな。あまり接点はなかったんだろう?」
「はい。私も、実のところそんなに詳しくはないのですが、生まれたばかりの私が、ルーナの指を握って笑ったのが嬉しかった……らしいです」
白色の宝石鱗を与えられたルーナは、生まれた時から特別な子として周囲から扱われていたそうだ。
白色を持つ者は同時に一人しか存在せず、人間種にとってはもっとも扱いやすく貴重なもの。その特殊性から宝石竜からも愛された証と言われているが、実際に宝石竜は、加護を与えた子を等しく愛しているため、白色を与えたことに理由はあっても、特別大事にしているというわけでもない。
しかしそれを知らず、ルーナを味方に引き込めば自分の立場は安泰だと考える者もそれなりにいた。とても整った容姿をしていて、幼い頃からとても頭が良かったのも、それに拍車を掛けていたようだ。
ルーナは自分に近付いて来る者たちのそういう我欲を、幼い頃から察していたらしい。周囲がルーナへ向ける思惑や、身勝手な欲望に両親も気が付いて注意をしたが、表面上を取り繕うだけで一向になくなる気配もない。
ルーナは次第に周囲の者たちへ嫌悪感を抱くようになったそうだ。
「人間種なんて嫌いよ。気持ちが悪い」
幼いルーナは時々、そんなことを呟いていたそうだ。
そんな中、フロルが生まれた。自分と同じように同時に一つしか存在しない黒色の宝石鱗を持つ子に、ルーナは初めて自分から興味を持って、父親に頼んで会いに行った。
ふにゃふにゃしていて、何も知らない純粋な、小さな命。
ルーナがそっと指を近付けると、小さな手が動いて、彼女の指をきゅっと握ったそうだ。
その時ルーナは「かわいい……」と呟きながら、ぽろぽろと涙を零して微笑んでいたらしい。
「それが理由だと言っていました」
「そっか。なるほどな……何となく気持ちは分かるかも」
「そうなんです?」
「ああ。醜い思惑の中でしんどい時に、善悪を持たない無垢な温かさってのは結構効くんだ」
そう言ってアイルはティー・スカッシュをひと口飲む。
それを見ながらフロルは、アイルもそうだったのだろうかと思った。
フロルは悪意を向けられて生きて来たが、そこには重荷になるような期待や責任はなかった。けれどアイルとルーナは違う。
ルーナは将来を期待されて、それ故に利用されそうになっていた。
アイルは魔王として魔王国の国民全員への責任があり、守るために悪意の防波堤になっている。
きっと二人はフロルとは比べ物にならないほど、質の悪い悪意の中にいるのだろう。
「アイルもそうですか?」
「ん? ま、たまにな」
「なるほど……」
フロルは呟くように言うと、彼に一歩近づいた。
「フロル?」
「アイル、人差し指を立ててくれますか?」
「こう?」
フロルが頼むと、アイルは不思議そうではあったが、言った通りにしてくれた。満月に向かってすらりと伸びたその指を、フロルは自分の手でそっと握る。とたんにアイルの体が、驚いたように少しばかり強張った。
「えーっと……?」
「……やはり成長した今では難しいですね! 欲望もずるい部分もしっかり育ちましたので!」
「もしかして、元気付けようとしてくれた?」
「物は試しと言いますし。効いたらラッキーです!」
「フロルは本当にこう……」
ふは、とアイルは噴き出すように笑う。
「元気が出たよ、ありがとう。またやって」
「んふふ、もちろんですとも!」
逆に気を遣われた気がするが、笑ってくれたなら何よりである。
次の時はもっと元気が出るような何かを考えておこうと思いながら、フロルはアイルの指から手を離す。
「……あの子がああなったのも分かるな」
するとフロルの手を見つめながら、アイルがそんなことを言った。
「と言いますと?」
「ルーナは魔人種の血を引いているって言っていただろう?」
「あ、はい。薄っすらとって言っていましたよね」
「うん。これさ、魔人種の性質なんだけど、一度気に入ったものに対して執着心が強くなるんだよ」
だけど、とアイルは言葉を継ぐ。
「それなのに、べったりにならなかったのが疑問だったんだが、フロルの話を聞いて納得した。あの子、フロルとは違う意味で、周囲の環境が良くなかったんだな。だから自分に向けられた嫌な思惑に、フロルを巻き込まないように離れたんじゃないかって、俺は思ったよ」
「――――」
アイルの言葉にフロルは目を大きく見開いた。ポカンとした表情が、彼のアメジスト色の美しい瞳に映って見える。
ああ、そっか。フロルは心の中でそう呟いた。
ルーナがどうして自分から距離を取っていたのか、アイルの言った通りだったなら、彼女の気持ちがフロルにもよく分かる気がした。フロルがダンスをやめた理由と同じだからだ。
(……次に会えた時は、ゆっくりルーナとお茶会をしましょう。楽しい話題をいっぱい用意して)
じんわりとした温かいものが胸に広がるのを感じながら、フロルはそんなことを思った。
「……そう言えば」
そうしていると、少ししてアイルが何かを思い出したように口を開いた。
「どうしました?」
「嫁役のことをちゃんと説明していなかったなって」
「あ、そう言えばそうでしたね。ルーナが飛び込んで来て、騒動になったから忘れていました。たぶんお父様たちも忘れていると思いますよ」
「思い出したら飛んできそうだ」
「ありそうですねぇ、ふふ。夜中に叩き起こすとかもしそうなので、私、今から説明しに行ってきます」
そう言ってフロルが身体の向きを変えた時、しゅるり、とアイルの尻尾がフロルの腰に巻き付いた。
「ま、起こされたら起こされた時でいいよ。ジェス殿も今回の件の事情聴取で忙しそうだし」
「確かに……途中で思い出させない方が良いかもですねぇ」
フロルの父は、どんな状況でも仕事と私情は切り離せる人だが、内容が内容だけに『万が一』が無い方が良いのも確かである。
フロルが「分かりました!」と頷くと、アイルは笑って尻尾を解いた。ゆらりと揺れる尻尾を自然と目で追いながら、
「それにしても、思ったよりも早く、嫁役が終わりましたねぇ」
「スピード解決だったな」
「んっふっふ。問題は早めに解決した方が良いですけどね」
「それはそう」
アイルはくつくつ笑ってグラスに口をつける。そしてひと口飲んだ後で、
「フロルさ、このままもう少し魔王城にいない?」
と訊いてきた。フロルは軽く首を傾げる。
「嫁役の延長です?」
「そうそう。フロルは魔法の訓練始めたばかりだし、俺も嫁さんがいてくれると、仕事の関係で助かるんだ。ちゃんと給料出すからさ」
「それはありがたいですけれど、いいんです? 私ばかり得をしていませんか?」
「本音を言うと、面倒な縁談を断る口実も欲しい」
「んふふ、それは大事かもですねぇ」
魔王という立場ならば、伴侶の座を狙う者も多いだろうし、色々な場面で言い寄られることだってあるだろう。
(そうでなくても、アイルはモテそうですもんねぇ)
だってアイルは、フロルにいつも優しくて紳士的なのだ。これでモテなかったらおかしい。
きっとこれまでも大変だったのだろうなと想像しながら、フロルは手で胸を叩いた。
「おまかせください。フロルはしっかりお仕事しますよ! そう、お仕事を……お仕事は何をすれば良いです?」
「今まで通りでいいよ。公の場で一緒に行動してもらうくらいかな。ダンスとか」
「なるほど、ダンス! ダンスなら何とかなります!」
ダンスなら得意分野である。もちろん社交の場で踊るものは、一度ちゃんと習い直さないといけないが、それでも出来そうだとフロルは思う。
満面の笑顔でフロルが頷くと、アイルも嬉しそうな笑顔を浮かべた。
すると、彼からグラスを差し出された。
あ、と思ってフロルは彼のグラスに、自分のそれをカチン、と当てる。グラスに残るティー・スカッシュが揺れてキラキラと煌めく。
「これからもよろしく」
「よろしくお願いします」
そう言ってにこっと笑い合うと、二人は揃ってグラスに口をつけたのだった。




