33:アイルの怒り
落下していたフロルの体は、ややあって、空中でガクンと停止した。
「……っ!」
それと同時にフロルの脚に痛みが走る。見上げれば、脚に絡んでいた魔法の蔦がピンと張っていた。どうやら長さの限界まできたらしい。
(予想通り止まってくれて良かったぁ……)
逆さまになってぶらぶらと揺れながら、フロルはほっと息を吐く。
しかし、すぐに自分がどうなっているかを思い出して、大慌てでスカートを両手で押えた。
(乙女の嗜み……!)
さすがのフロルもそこは気にするところである。完全に捲れる前に防ぐことが出来たので、フロルは先ほどと違う意味で胸を撫で下ろした。
(さて、この後はどうしましょうね)
その状態で周りをきょろきょろと見回す。
ひとまず落下死は免れたので良かったが、窓ガラスを割って大きな音を立てる以外のプランは、今のところ何も思い付いていない。
音を聞きつけて誰かが駆けつけて来てくれれば良いのだが……。
(そうだ、アイルとトーの声が)
聞こえた気がする――そう思った時、フロルが飛び出した窓とは違う方向から、鋭利な氷の刃が飛んできて、光の蔦を断ち切った。
あっ、と思う間もなく、フロルの体が再び落下し始める。
(わあ……!)
けれど、それは長続きしなかった。
次の瞬間には、フロルの体は誰かに受け止められたのだ。
「フロル、大丈夫か⁉」
すると頭上からそんな声が降ってきた。フロルが顔を上げると、そこには焦った表情を浮かべたアイルがいる。彼のアメジスト色をした美しい瞳の瞳孔も、いつもより大きくなっていた。
――アイルだ!
自分を助けてくれた人物を認識して、フロルは自然と笑顔になる。
(大丈夫です、アイル! これこの通り! 来てくれて嬉しいです! ありがとうございます!)
声は出せないものの、口を大きく動かして、フロルは身振り手振りで彼に感謝と無事を伝える。
行動はいつも通りなのに何も言わないフロルを見て、アイルは不思議に思ったのだろう。僅かに首を傾げた後、くん、と鼻が動いた。
「……魔法の匂い?」
アイルの目に一瞬剣呑な色が浮かぶ。
「なるほど《沈黙》か。落ち着いたら解いてやるから、ちょっと待っていてくれるか?」
(もちろんですとも!)
フロルがこくこく頷くと、アイルは優しい笑みを浮かべ、そしてレイたちの方を見上げた。
――そのとたんにアイルの目と表情が、スッと冷たいものへ変化する。
今まで見たことのないアイルの様子に、フロルは心臓がきゅっとなった。アイルの体の周りには、紫色の魔力のオーラまで薄っすらと浮かんでいる。
彼が本気で怒っていることが分かり、フロルはぴっと体を強張らせる。
「フロルさん、ご無事ですか⁉」
ハラハラしていると、今度はトーの声が聞こえた。先ほど氷の刃が飛んで来た方向からだ。顔を向けると、その辺りの窓からトーが顔を出していた。
(あ、氷の道……!)
トーのいる窓から、フロルのところまで分厚い氷の道が出来ていることに気が付く。どうやらアイルはこれを使って助けに来てくれたらしい。
魔法とは本当に、色々な使い道があるのだなとフロルは感心しつつ、トーに無事をアピールするため、手をぶんぶんと振った。
(ご心配をお掛けしました、トー! ありがとうございます! フロル、元気です!)
アイルの時と同じく、口を大きく動かしながら心の中で感謝を伝える。するとトーは安堵の笑みを浮かべて「フロルさん、良かった……」と呟いた。
しかし、その直後に彼の顔は引き攣った。おや、と思っていると、トーの視線はアイルへ向けられている。
どうやら側近の彼から見ても、今のアイルはまずい状態らしい。
「人竜国はずいぶんと乱暴な真似をするじゃないか。これは一体どういうことだ?」
そうしていると、レイたちを睨んでいたアイルが口を開いた。
「……どうこうもない。生贄として差し出されたフロル様をお助けするためにここへ来ただけだ」
「それだけ大義名分があるのなら、堂々と来たら良かっただろう。うちと人竜国は友好関係を結んでいる。それなのに王城へ真夜中に忍び込むとは、ずいぶんと自分勝手な振る舞いじゃないか? 我が国も軽んじられたものだな」
アイルの言葉は普段よりも言葉尻が強い。フロルのこと以外にも、自分のテリトリーでこんなことをされたら怒るのは普通だ。
しかもやった相手は友好国の者。生贄の件で利用されただけでも頭が痛いだろうに、暗殺や諜報まで仕掛けられていた可能性も浮上すれば、怒りたくもなる。
フロルも人竜国の王族として申し訳ない気持ちになった。
「一体誰の指示だ? ああ、人竜国の王ではないのは分かっている。あちらからはフロルを頼むと言伝をもらっているからな」
「――何?」
レイがぴくりと反応する。
「陛下が言伝を? 馬鹿な、そんなものはありえない。我々よりも早く、陛下からの言伝が届くなど……」
「へぇ。その口振りだと、フロルがうちの船に乗せられですぐに、人竜国を発ったと聞こえるな。フロルが生贄にさせられたことを、ずいぶん早く察知していたらしい」
「……何が言いたい」
挑発するように言葉を選んで話すアイルに、レイは苛立った様子で目を吊り上げる。
そんな彼に向かって、アイルは、ハ、と低く笑った。
「お前たち、わざと見過ごしたな?」
「……っ」
そのとたんにレイの体がギクリと固まり、視線が僅かに彷徨う。
「それは……」
「お前たちにどういう意図があってそうしたかは知らない。だけどな、助けに来たなんて言葉を使う前に、フロルの気持ちをよく考えろ。箱に閉じ込められて、生贄になれなんて言われて怖かっただろうに、この子はそれをおくびにも出さずにいたんだぞ」
(アイル……)
アイルの言葉にフロルは胸がジーンと温かくなった。
魔王国の船に生贄として積み込まれた時は、ただ生き延びたいと必死だった。だから恐怖心を感じている余裕がフロルにはなかった。
けれど時間が経った今ならこう思うのだ。もしもその船にいたのがアイルたちのように気さくな相手ではなかったら、フロルは死んでいたか、死ぬのと同じくらいの目に合っていたかもしれない、と。
それは想像すればぶるりと震えがくるくらい恐ろしいことだ。
アイルはフロルが頭の片隅に追いやっていたその気持ちを言語化してくれたのだ。それがフロルは嬉しいと思った。
「…………くっ」
じっとアイルを見上げていると、レイが苦しげな声を漏らす。
「……フロル様、必ず助けに参ります」
そしてそれだけ言うと、彼の姿は仲間と共に、夜の闇の中に溶け込むように消えてしまった。きっと何かの魔法を使ったのだろう。
レイたちの姿が見えなくなると、フロルの脚に巻き付いていた光の蔦も、砂のようにサラサラと崩れて消えた。
「《解除》」
喉に掛けられていた魔法の方もアイルが解除してくれた。おかげで喉から閉塞感が消えてフロルはすっきりした気分になる。
「あーあー……やったあ、声が出ました! ありがとうございます!」
「いや……」
フロルがにこにこしながらお礼を言うと、アイルは首を横に振り、落ち込んだ表情になった。耳までぺたんと垂れている。
「アイル?」
「怖い目に合わせてごめん。あの魔法を掻い潜られるのは想定外だった」
「いえいえ、そんな。そもそもうちの問題ですし……ハッ! そうだ!」
「どうした?」
「私、窓を全力で破壊してしまいまして……修理費は宝石鱗で何とかなりますか?」
フロルが袖を捲って宝石鱗を見せてそう言うと、アイルは目を丸くした。それから、ふは、と困り顔で噴き出して笑う。
「何とかなるけど請求しないよ。それにしても、あー……心臓に悪い。おかしな魔力を感じて駆け付けた時に、フロルが窓から飛び出すのが見えたんだよ。おかげですぐにどこにいるか分かったけれど」
「あっ、窓を割る前に察知していただけていたんですね。でも、場所が伝わったなら良かったです!」
「良くありません。トーなんて悲鳴を上げていたぞ」
「んっふふふ。良い音したでしょう?」
えっへん、とフロルは胸を張る。アイルはやや呆れた顔で肩をすくめた。
「自信満々に答えるんじゃないの。怪我しちゃったでしょ」
「怪我は戦士の勲章とも言いますね!」
「フロルは狂戦士よりだよ。あと、脚は平気?」
「ちょっと痛いです」
「オーケー。それじゃ、このまま行こう」
アイルは頷くとフロルを抱きかかえたまま、トーのいる窓の方へ向かって歩き出した。




