3:トーさんと呼ばれると勘違いが起こる
魔王アイルと言えば、名前だけならばフロルも知っているくらい有名人だ。
しかしどんな容姿をしているのかは知らなかった。
その理由は単純に、フロルがあまり外との接触を持つことなかったからだ。
黒色の鱗のせいで疎まれていたフロルが、呑気な顔で外を歩き回ることを、両親以外の人間は好意的に受け取らない。
視界に入ると不快だから自分の部屋に引っ込んでいろ、なんて何度も言われたものだ。
外を歩いても捕まって延々と説教やら文句やら嫌味やらを言われれば、フロルだって嫌になる。だから部屋に閉じこもって、両親が買い与えてくれた本を読むのがフロルの日常だった。
今になって、あの時に新聞もお願いしておいたら良かったかもしれないとも思ったが。
さて、そんな事情でフロルは、魔王の容姿を知らなかった。
けれどもイメージだけならば持っている。
背丈が高くて、がっしりとして、強そうな人なんだろうな~と想像していた。
だって人竜国の宝石鱗持ちを喰らうなんて噂があったのだ。頭からボリボリと行くならば、それはもう大きなお口と、それに見合う体格でなければ難しいだろう。
そんなことを、船室に案内してくれたリザードマン種のトーに話したら、
「いや、食べませんよ人間なんて。まずそうだし」
と呆れたように言われてしまった。
「やっぱり食べないです?」
「私たちの食事は、あなたたちとほぼ一緒でよ。まぁ、宝石鱗は嗜好品として食べますけどね。何だってそんな噂が出ているんです?」
「さあ。ずっと自分の部屋にいたのでその辺りは存じませんねぇ」
「あっ」
フロルが何の気無しに答えたら、トーは口を手で覆った。
何だか申し訳なさそうな顔をしているなぁと思っていたら、
「すみません、辛いことを……」
そして、そう謝られてしまった。
どうやら彼はフロルの境遇を思い浮かべて、気遣ってくれたらしい。
(私のためにトーさんが涙目に……⁉)
あまり経験のないことにフロルは軽く衝撃を受けた。
この船に積み込まれてから珍しい出来事ばかり起きるものである。
じわじわ嬉しくなって来て、フロルは締まりのない笑顔を浮かべ、腕からぺりっと宝石鱗を剥がしてお礼の気持ちを込めてトーに差し出す。
「大丈夫です、お気になさらず! お口直しにこれをどうぞ!」
「な、何故そうなって……? え、えっと、いただきます……」
ぐすっと鼻をすすりながら、困惑顔のトーは鱗を受け取ってくれた。直ぐには食べずに大事そうに懐にしまっている。
「それにても鱗が食料品になるとは思いませんでしたねぇ」
「まぁ、人間は食べませんものね。ですが魔法を使う時に利用しているんでしょう?」
「らしいですね」
「らしい? あなたは使えないんですか?」
トーは目をぱちぱちと瞬いた。
実は宝石鱗持ちは人間にしては体内に保有できる魔力が多く、魔法を得意とする者が多い。大抵の人間は、大きな魔法を使う際には魔導具や宝石鱗などで補助しなければ苦労するし、魔力を消費し過ぎて昏倒することもあるけれど、宝石鱗持ちはそうじゃないのだ。
もちろん本人の努力や才能で変化こそするが、魔力を大量に消費するような大きな魔法を使っても、宝石鱗持ちはけろりとした顔をしていることが多い。
その理由については先ほどアイルが教えてくれた『宝石鱗は魔力の塊』というものだ。宝石鱗が足りない魔力を肩代わりしてくれていたのである。
だからきっと、フロルも学んでいれば魔法を使うことができたはずだ。
――そう、学んでいれば、だが。
「私、魔法の勉強はしてきていないんですよねぇ」
「そうなんですか?」
「ええ。使えたらいいなぁとは思うんですけれど、使っていたり、勉強をしているところを見られたら、その時点で止めろって言われるのがオチなので」
右手を軽く持ち上げて、窓から射し込む光にかざす。すると黒色の宝石鱗がキラキラと煌めいた。軽く揺らせば宝石鱗の光が軌跡を描く。
(例えばマジックダンスとか……興味はあったんですけどねぇ)
マジックダンスは魔法を使いながら踊る競技の一種だ。
魔法で足元を凍らせ氷の舞台を作ったり、火を放って炎の舞台を作ったり。風で身体を持ち上げて空高く飛び上がったり、光の粒を生み出して手や足の動きに合わせて煌めかせたり。そうやって美しさと演技の完成度を競うのだ。
フロルは幼い頃に一度だけ、マジックダンスを見たことがある。あれは競い合う場ではなく、王城に招かれた旅芸人の一座の踊り子が見せてくれたものだった。
彼女は黒色の装飾品を身に着けて踊っていた。素敵だった。見ていてドキドキした。
あんな風に踊れたら――宝石竜様からもらった自分の宝石鱗も、綺麗だって言ってもらえるかもしれないと思ったものだ。
もっとも、現実はそう明るいものではなかったけれど。
「なので魔法の勉強については諦めました。色々と面倒なことになりそうなら、初めから何もしない方が良いです」
「…………」
フロルがそう言うと、トーは痛ましそうな表情になる。
「どうしました?」
「……諦めなくていい毎日が、魔王国にはありますよ。それだけは私がお約束します」
そして彼は、そんな優しい言葉をフロルにくれた。
(良い人だなぁ、トーさん)
フロルはしみじみとそう思いながら、再び右腕の宝石鱗をぺりっと一枚剥がしトーに差し出した。
「あの……何故また鱗を剥がしたのですか?」
「嬉しかったのでトーさんにあげます。さっきも同じ理由です」
「嬉しく思うたびに鱗を剥がすのやめましょう」
フロルがそう答えると、トーは困った様子でそう言った。
喜んでもらえていないことに気付いて、フロルは少し不安になる。
「……それは実に難しいご相談」
「何故でしょう?」
「私の財産と言えば、この宝石鱗しかないので」
剥がした宝石鱗を軽く持ち上げてフロルは答える。
もっと他に喜んでもらえそうなものがあったら、フロルはそれを渡していただろう。しかし今のフロルにはお金も技術も何もない。あるのは宝石鱗だけだ。
宝石鱗は人間以外にはご馳走になるらしいし、剥がす時も痛みはなく、一日経てばまた生えて来る。
だからちょうど良いものだと考えたのだが、トーの反応は微妙なものだった。
「……ダメです?」
おずおずと訊いてみると、彼は軽く首を横に振って、
「フロルさん。そういう時はね、ありがとうって言ってください。その言葉で十分、あなたの気持ちは伝わります」
そう言った。フロルは少しだけ首を傾げる。
「そう……なんです?」
「そうなんです。もちろん宝石鱗は嬉しいですよ。魔王様も褒めていましたし、きっととっても美味しいだろうなって思います。ですが過分です」
「過分……」
「そうです」
トーは頷いて優しげに目を細める。そんな彼を見ていたら何だか不思議な気持ちになって、フロルは少しだけ視線を彷徨わせた後、
「あり、がとう、ございます……トーさん」
と言ってみた。これで大丈夫かと反応を伺っていると、トーは満足したように「はい」と微笑んだ。
(……いい、のかな?)
まだ少し疑問はあるし、戸惑ってもいる。けれども今のこの時点で、トーに対してはこれで良いみたいだ。
そっか……とフロルが軽く頷いていると、
「そうそう、私の名前は呼び捨てで構いませんよ。私の名前でさん付けだと、父親ですかって聞き返されてしまいますので」
トーは空気を変えるようにそう言った。
「もしかして今までにも結構、間違えられたんです?」
「ええ、とても。私、まだ結婚もしていないのに……。ですので呼び捨てにしていただけると助かります」
「分かりました! ではトーと! あっ、ならばぜひ、私のこともフロルと呼び捨て……」
「そこは遠慮いたします。他国の王族を呼び捨てというのは、ちょっと……」
「ずるい気がします」
「ずるくないです」
ほんのちょっと抗議をしてみたが、トーにサッと目を逸らされてしまった。
解せぬ……とフロルが半眼になっていたら、トーは少しして、くすくすと小さく笑い出す。何だかとても楽しそうだ。
フロルは目を瞬いてトーを見ていたら、不思議と自分も楽しい気持ちになって、つられて笑顔になる。
(……不思議だなぁ)
こんなに穏やかな気持ちで他人と会話をしたのは、一体いつぶりだろう。
トーと笑い合いながら、フロルはそんなことを思ったのだった。