15:陰険眼鏡の初恋
その日、ドラゴニュート種のゼッテルは訳の分からない感情に襲われていた。
「ゼッテル様~そろそろ仕事してくださいよ~」
「…………」
「聞こえています~? お~い、お~い」
「…………」
補佐官のルルが何度も声を掛けているが、ゼッテルは微動だにしない。
自分の執務机に座り、両手を顔の前で組んで、複雑な表情のまま口を真一文字に結んでいる。
「陰険眼鏡」
あまりにも反応がないことに痺れを切らしたルルが、ぼそっとそう呟いた。
そう言われたとたんにゼッテルは立ち上がり、ルルの頭を右手でがしっと掴んで持ち上げる。鼠の獣人で小柄なルルの身体は、ぶらんぶらんと揺れた。
「もう一度言ってみろ」
「あ、聞こえてた。なら最初から返事してくださよ~」
しかしルルは何も気にせず、その状態のままゼッテルに文句を言う。
ゼッテルはため息を吐いてからパッと手を離した。ルルはすとんと柔らかく着地する。
「ゼッテル様、どうしたんですか~? 魔王様へ文句を言いに行ってから様子が変ですよ~? 何かありました~?」
「別に何かあったわけではない」
「そうですか? だって行く前はもうちょっと、馬鹿みたいにハツラツとしていましたよ~」
「おい、今、私のことを馬鹿と言ったか?」
「気のせいです~」
しれっと悪口を混ぜた上にすっとぼけた図々しさに、ゼッテルは再び深くため息を吐いた後、椅子にどさっと腰を下ろした。
そして足を組んで、
「アイルの嫁を見ただけだ」
と言った。
「ああ、魔王様のお嫁さん~。いいですね、僕も見たかったですよ~。どんな感じでした~?」
「どんなって……」
ルルに質問されて、ゼッテルは頭の中にフロルと名乗った魔王の嫁を思い浮かべる。
ベールで顔は良く見えなかったが、身長はアイルと同じくらいだ。年齢もはっきりと判別できないが、人間であれば恐らく十代半ばから後半くらいだろう。
声は意外とかわいらしかった。そしてそのかわいらしい声で、ゼッテルのことを素敵に褒めて――……。
『初めまして、こんにちは。雪原のように輝く美しい鱗のドラゴニュートの方』
――その時のことを思い出したとたん、ゼッテルの顔がボンッ、と音が聞こえそうなくらいの勢いで赤くなる。
たまらずゼッテルは右手で心臓を抑えると、ドッドッ、と早鐘を打っているのが良く分かった。
(何だ、この胸の苦しさは……!)
この世に生を受けて百年。
これまでに一度も感じたことのない衝撃が、ゼッテルの身体を襲っている。
顔が、身体が熱い。今にも叫び出したくなるくらい、訳の分からない感情が自分の中で渦巻いている。
「ゼッテル様お顔が真っ赤ですよ~。トマトみたい。ゼッテル様がトマトだったら美味しくなさそうですね~」
「やかましい! 誰が美味しくなさそうだ! 私はどんなものになっても美味しいに決まっているだろうっ!」
「厚かましいです~」
「この鼠」
ゼッテルは半眼になって自分の補佐官を睨みつける。
しかし、どういうわけかいつものように、怒鳴る気にはなれない。
そんな上司に、ルルも意外そうに目を丸くした。
「本当に大丈夫ですか~? 具合が悪いなら、お医者様に診てもらってくださいよ~。倒れたら僕の仕事が増えるの嫌です~」
「お前は嘘でも私のことが心配ですと言えんのか」
「言えないです~」
ふふふ~と笑うルルを見てゼッテルは肩をすくめた。
このルルという獣人はとにかく明け透けに物を言う。
悪気があろうと無かろうと自分に正直に生きている。下手に裏を読まなくて楽だ。だからこそゼッテルは自分の補佐官に抜擢したのである。
間延びする口調だけはたまにいらいらするが、仕事は卒なくこなすのでゼッテルも一目置いている。
「それで魔王のお嫁さんと何かあったんですか~?」
「いや、特に何も」
「何も?」
「鱗が美しいと褒めていただいただけだ」
――そうだ、たったそれだけだ。
ゼッテルの尻尾が美しいのは公然の事実である。それなのに何を動揺することがあるのだ。
そう考えたら自分が何とも滑稽に思えて、ゼッテルの眉間のシワが深くなる。
「…………」
しかし、そんなゼッテルの発言を聞いたルルは、彼女にしては珍しくポカンと口を開けて驚いていた。
「ゼッテル様、魔王様のお嫁さんを見た時に、動悸とかしました〜?」
「それは、まぁ……。どうした、間抜け面を浮かべて」
「いえ、何というか~……う〜ん? これ言っていいのかなぁ……」
ルルは腕を組んで唸り始める。ゼッテルは怪訝に思い首を傾げた。
「何だ」
「ゼッテル様、初恋っていつでしたっけ~?」
「初恋? 私にそんな経験はない。まぁ、私クラスとなれば、数多の女性に言い寄られたりはするが……」
「ゼッテル様、嘘が下手です~。ああ、それにしても、なるほど~」
ふんふん、とルルは納得したように頷いている。
「何なのだ、はっきりと言え」
「あのですね、ゼッテル様。それは恋です~」
「あん?」
「ですからゼッテル様、魔王様のお嫁さんに恋しちゃったんですよ~」
「…………」
ルルの言葉を聞いてゼッテルはぴしりと固まった。
恋?
この私が?
脆弱な人間種に?
ゼッテルの頭の上に幾つも疑問符が浮かぶ。
「ゼッテル様にも人並みに恋をするんですね~」
口の端をにんまりと上げて面白そうに言うルル。
しかしそんな彼女の言葉は、ゼッテルの耳を右から左へと通り抜けていく。
ルルに告げられた内容のせいで、ゼッテルはそれどころじゃなかったからだ。
(恋……この私が、アイルの嫁……しかも人間種なんぞに恋……?)
ありえないと否定しようとした時、ゼッテルの心臓が再びドッドッと早鐘を打ち始めた。体も先ほどよりもっと熱くなる。
ゼッテルはわなわなと震えた後で、
「何だとぉ――――っ⁉」
魔王城中に響き渡りそうなくらいの大声で、思いっきり叫んだのだった。




