女主人の魔払奇譚
肝試しに行った高校生のグループが失踪したらしい。
子供を探してほしいと依頼された生ける都市伝説こと「櫻屋敷の女主人」。助力を求めて知り合いの店主と会談していると、共に行動している粗野で酒好きの男「獅天童 朱(してんどう-あかね)」が大怪我をしたという一報が入る。その怪我の具合を見た女主人は今回の依頼から彼を外すことを選択するが──その矢先、宙を舞っていた。このままでは死ぬ。
友人以上相棒未満、仲が良いんだか悪いんだか分からない男女バディです。男女バディですが今回男のほうがほとんど出てきません。ホラー、凄惨な残酷描写、(一瞬ですが)いじめの描写が入りますのでご注意ください。後味は悪いです。
前作「女主人の神鬼奇譚」、拙作「花喰い鬼の恋煩い」と同じ世界観ですが単体でも読めます。おそらく。
こんなところに来るんじゃなかったと青年は心の中で悪態をついた。土と埃とカビにまみれて、一呼吸ごとに肺が蝕まれていくような感覚に襲われる。散々走り回った廃屋の中はその分だけ足跡が残り、床は抜け、ガラスが割れて飛び散っている。この場所に来るのももう何度目だろう。少なくとも三度は同じ景色を見ている。
廊下の奥の突き当たり、右手に台所、左手に階段。階段の下に作られた狭いスペースが一瞬の安息地であり現在地を確認する唯一の方法だった。あとはもう廊下と畳くらいしかわからない。腐り落ちた景色だけが続いている。
「帰りたいよ、もう……」
隣にいた恋人がまためそめそと泣き出した。友人達は皆散らばってしまって、どこに息を潜めているのか、或いは死んでいるのかすらも分からない。そんなの俺だって帰りたい、と言い返そうとした時。
背後から、這いずる音がした。
♢
「櫻屋敷の女主人」という都市伝説がある。名前の由来は分からない。
彼女は探しモノが得意で、見えないモノが見えて、桜のあしらわれた美しい着物を纏った妙齢の女性の姿で現れる。簪で差した生花に彩られ隠れる黒い瞳は、なんだか平凡な形なのに印象的で、普段は穏やかなのに時折奇妙な威圧感を与えることがある。現れるのは昼夜を問わず新月の日で、次の満月には役目を終えて去っていく。探しモノが見つからなかったことはない。
その正体はそんな感じで探しモノをする、そんな格好をした、その割に普通の感性を持つ、普通の女性である。
例えば、ホテルのアフタヌーンティーのスイーツに目を輝かせて、淹れたての紅茶を楽しむくらいには。
ごろっとしたいちごが贅沢に飾られたケーキ。鮮やかなオレンジの輪切りが輝くズコット。繊細なチョコレート細工で飾られたオペラ。ふわふわのホイップが乗ったクレームブリュレ。袖を汚さないように慎重になりながら、ケーキトレイの小さなスイーツを丁寧に摘んで口に運び、思わず噛み締めて味わってしまう。
こんなに甘くて優雅な午後はいつぶりだろう。一口スイーツを口にするたび、紅茶を飲むたびに味わう女主人の姿を、向かいに座った女性は微笑ましげに見つめていた。
「ほんと、貴女って美味しそうに食べるから連れ回し甲斐があるわね」
「姫様のお店選びがお上手なんですよ!本当に美味しい!うう……今日まで生き延びてて良かった……!」
「貴女が言うと洒落にならないわね。でも姫様呼びは禁止よ、女主人?」
「あっ。で、では鈴さんで……」
「許しましょう」
姫、と呼ばれた瞬間に周囲の人がぎょっとしてこちらを見たのに気付いたのだろう、女性が女主人の鼻をつつくと少し申し訳なさそうに笑った。揶揄うように今度は頬を摘まれる。
どこかのファッション誌でも飾りそうな、目も醒めるような美人と、晴れやかな着物を着た平凡な顔の女が一緒にいるのはやはり目立つらしい。おまけに自分達は在り方上、少々世間から外見以外も浮いている自覚もあるので、今二人がやっているのはアフタヌーンティーにかこつけた周囲の徹底的無視である。残念なことに友人にしては距離感がおかしいとか、かしましいテンションがそぐわないとかは気づいていない。
鈴、と呼び直された女性は機嫌が良さそうに足を組み直すと紅茶を一口啜った。些細な仕草にも艶がある御仁である。名前の通り鈴の音を転がすように愛らしく笑い、耳飾りについた小さな鈴も彼女が笑うたびに一緒にころころと音を立てる。時折それが不思議な反響となって聞こえるのか、不思議な顔をした周囲の客がこちらを振り返っては首を傾げて前を向く。
「それで?最近どう?忙しくしてる?」
「まぁ、それなりに。つくよ……、様……、さん、から新しい依頼も来たので、先の新月から取り掛かってます」
「先の…っておとといじゃない。今日は大丈夫なの?」
「あ、はい、調査をしていく中で鈴さんにご協力を仰ぎたいところもありまして。もしこの後お時間が空いていれば、鈴さんのお店にお伺いできたらと」
「いいわね、ちゃんと進展があった上で休息を入れてる感じ。喜んで招待しましょう。……ところで、あの飲んだくれは別行動中?」
「一週間くらい前から失踪中ですがお陰で調査が捗ってますね」
「……言いたいことはいろいろあるけど、まず、聞くわね。なんで今も一緒にいるの?」
「私が外に出るのに相応の警護が欲しかったからですねぇ……」
女主人は思わずまた困った笑みを浮かべてしまう。確かに女主人と飲んだくれ──基、獅天堂朱はバディというより、たまたま仕事場が被ったくらいの同業者に近い。訳あって女主人は護衛を求めていて、朱はその条件を満たしていたし、朱は朱で女主人を旅の道連れにしたい都合があったらしい。
とはいえその程度の距離感だし、個々の依頼には協力を要請しない限り一緒に解決なんてまずないし、関係としてはどこまでもビジネスライクで他人事だ。彼の感情を抜きにすれば。
獅天堂朱は鬼である。それも平安の世を脅かした酒呑童子その鬼である。爛々と輝く赤い目をした、身長も図体も態度もでかい男である。全ての価値が自分よりも下で、誰に対してもわがままで、何を言っても文句ばかりで、念入りに仕込んだ小細工など我が身に届かぬとその手で握り潰してくるタイプの、いつまで経っても人間社会に馴染む気のない暴力的な鬼だ。そして、紆余曲折あった結果、彼の破壊衝動は、今──
「あの男、貴女の首を肴に酒を飲むのだと語ったと聞いているわ。真実かはさておき、いい加減縁を切ったら?」
「切るメリットが今のところなくて……あ、その話は真実です」
「絶縁なさいな」
──女主人に向いている。
すったもんだの顛末の末、何が彼の琴線に触れたのか分からないが、いつからか首を狙って付き纏ってくるようになった。だから彼と二人になるときは、わざと髪を下ろして首の狙いが定まらないようにするし、同じ部屋に泊まっても同じ寝具は使わない。何より、彼といるときは得物は絶対に手放さない。常に懐に刀を忍ばせているくらいにはいつだって気を張っている。
とはいえ、彼を差し引いても厄介な事件を月の男神から持ち込まれがちであるが故に、女主人もそれなりに自衛の術を叩き込まれている。朱といるとメキメキその腕が磨かれていくので、常に命の危機がある以外はさほど困ってはいない。
──この関係そのものが、異常であることは理解している。
護衛なのに命の保証はされていなくて、道連れというには遠すぎる。時々自分と朱の間にあるのは信頼なのか、情なのか見失いそうになっては鬼らしさを目にして我に返る日々だ。
「でも屋敷からは人手は出せませんし。みず……、出雲のお遣いさんも立候補してくださったんですが、あちらは多忙ですし」
「それって神有月の案内の子?まぁ彼はそうね、よく立候補したなってくらい多忙だし。だとしてもそれ以外にもいたでしょう、それこそあなたに懐いていた喰わずの鬼はどうなのよ」
「……紺朴くんは私に懐いていたわけではないので。それに実利をとるとあかねのほうがやっぱり強いし頼もしいんですよね」
紺朴というのは鬼には珍しく、肉や酒を嗜まないどころか花や水しか食わないという珍しい嗜好を持つ鬼である。朱と比べると随分体躯もやせっぽちで今にも折れそうなくらいガリガリだし、気性も穏やかで同じ鬼とは思えないほど人くさい。彼にも昔何かあったようだけれど、それを深堀りしたことはない。掘ったところで自分にはどうしようもできないものなのだと、そういう理解は女主人にだってできている。
フォークで切れ目を入れたケーキがバランスを崩して皿の上に倒れこむ。それをすくい上げて口に運ぶと塩を丸呑みしたような顔で鈴がこちらを見ているから、また苦笑する。呆れたように鈴がため息をついたところで、ぶーんとスマートフォンが鳴った。
「誰?」
「んん?ええと……、噂をすればあかね……いや、この文面は紺朴くんかな」
鈴に断りを入れてメッセージを開くと、拙いながら丁寧な文章が並んでいた。その内容を一通り流し読みをして、女主人は思わず眉を顰める。素早い動きで返信を打つとぽこ、ぽこ、と誤字だらけの返事が返ってきた。女主人の眉間のしわはますます深くなっていくばかりである。
「急ぎなの?」
「いえ、そうではないんですけど。すみません、鈴さんのお店に行くのはまた別の日にしてもいいですか?」
「別に構わないけれど……なぁに?飲んだくれがなにかやらかしたの?」
「ええ、まあ」
ぽこん、ぽこん、子供のような文章がまた並ぶ。苦心しながらもなんとか連絡を取ろうとしている紺朴の様子がありありと目に浮かぶから、情が深い女主人はほおっておけなくなってしまった。
「あかねが片腕ダメにしたらしいです」
あらま、と呆れた口調の鈴の顔には、同情なんてひとかけらも浮かばない。
♢
「気に入らない相手と日夜問わず喧嘩をしていたようで」
「一週間失踪してた真相がそれかあ……。えっ?一週間ずっと?」
「はい。日を七つ、月を七つ、ずっと」
いつもよりも心なしか血生臭い鬼の結界の中を、紺朴に案内されながら女主人は歩いている。廊下をネズミのように走り抜けていく小鬼はなるほど、薬やら酒やら肉やらを運んでは空の盃を運んで戻ってきていた。神隠しの湯屋の話で、似たような一幕があったなとふと思う。あれは煤の化身だっただろうか。
「よくそんなに長い間保ったね?」
「……すみません、紺朴は仔細は聞いておりません。ただ小狡いとはぼやいておりました」
「小狡い?」
「はい。毒と呪と鎖をかけられ足早に逃げられたと」
「なんとなく想像がついてきたな」
朱は有り余る怪力で一息で消し飛ばすことができる代わりに、小細工をはじめとした頭を使う戦術は不得手だ。ただ単体の小細工であればその身に降りかかる前に握りつぶしただろうが、雨霰と降ってくれば全ては防げまい。それでいて片腕をダメにした程度で済んでいるから、規格外には違いないけれど。
そう考えているうちに紺朴が襖を開ける。その向こう、人の身には過ぎた巨大な寝台に、爛々と光る赤い目と立派な角を携えた、顔まで赤くした大鬼が不機嫌そうに寝転んで何某か──おそらくどこかの鹿だろう──の脚を齧っていた。耳まで裂けた口は大きい。触れただけで穴だらけになりそうなほどびっしりと毛が生えた手も腕も、ぎょろりと剥き出した両目も、まるで日本画に出てくる鬼そのものだ。日本画と違うとしたら、なるほど、片腕が捩じ切られたように無くなっていて、ぶらんと肩から垂れ落ちた骨にずるずると肉が巻きついていく様が見えるところだろうか。だいぶ、グロい。
「遅い」
「私にも予定はあるんです。……随分派手にやられたみたいですね」
「お前みたいに腹立つ奴だったんでな」
「……。養生には時間がかかりそう」
現在進行形で肉を巻きつけているとはいえ、未だ骨は見えている。ここから元の筋肉を編んで、皮をかぶせるまでどれくらいかかるかをざっと女主人は推算した──肉が骨を覆うのに三夜、細かな筋繊維の修復に一夜──うん、と頷く。
「じゃああかねは一回休みで」
「……は?」
「仕事の話です。今受けてる依頼はこっちで終わらせますから、あかねは養生に専念してください。元々そのことで呼んだんでしょう?かの酒呑童子が一介の人の子に見舞いを望むわけもないでしょうから」
「なッ!!お前は俺がこの程度の傷で──!」
「傷を負った者を女主人は使いません。慎重な性質ですから、仕事仲間であるあなたにもそれは適用します。いつまでもいきり立ってないで、食べて、薬塗って、寝なさい。紺朴くん、見送りお願いできる?」
「櫻屋敷!!」
鼓膜が割れんばかりの声だった。いくつかの食器が衝撃で割れる音がして、退室しようとした女主人は耳をふさぐ。紺朴はおろおろと朱と女主人を見比べていて、それをふと見やって微笑んでみせる。こんな展開は慣れっこだし、明らかに今のは挑発した。わざとだ。
「次に私が助力を乞うまでにその手、肉くらいはつけておいてください。そうしないとあなたの失態を、うちの用心棒にばらしちゃいますから」
大袈裟に指を突きつける。一瞬ぽかんとしたその隙を狙って、紺朴を伴って女主人はさっさと退散した。一拍、閉じた襖の向こうから、怒りに任せて器を叩き割り暴れる音がして紺朴がため息をつく。
「……櫻屋敷様は本当に童子様の扱いを心得ていらっしゃる……」
「流石に付き合いが長いから。あれだけ発破をかけておけばもう四、五日あれば皮まで回復してくれそうだ」
「……。もし、荒事があるならば、紺朴がお供します。紺朴も恩がありますので」
「暴力を振るいたがらないあなたにそんなことはさせられないかな。そのかわりこれを受け取ってくれる?菜食主義者向けの栄養食なんだ。乳も卵も入ってないから、口に合うといいな」
朱にも渡さずにいた手土産を差し出せば、落ちくぼんだ紺朴の目が嬉しそうに輝いた。けれどまだ申し訳なさそうにこちらを見てくるから、女主人はただ笑う。
彼の事情は知らない。が、彼は鬼の根幹である暴力と飢餓から遠ざかろうとしていることは知っている。今の助力の申し出だって、彼に取っては勇気のいるであろう決断だっただろうし、それでも、だからこそ、彼が重ねてきた努力はこんなところで不意に欲しくはない。
「あかねの手が治る頃にまたくるよ。そうしたら、今日みたいに取り次いでくれると嬉しいな」
だから、紺朴という手段はこういう使い道でいい。今度こそ安堵して微笑んだ紺朴に笑みを返して、女主人は鬼の結界を後にした。
♢
失踪したのは地元の高校に通う男女グループ、計四人。休日の夜に地元でも有名な心霊スポットへ肝試しに行き、そのまま消息が知れないまま三日。元々やんちゃ盛りだった彼らは家に帰ってこない日も学校に行かない日もままあったらしく、両親も教師もまたいつものサボタージュあるいは家出かと気にも留めていなかったらしい。しかし、連絡が取れないことを心配した女子生徒の両親から失踪が発覚。通報を受けて警察が足取りを追っていたが未だに掴めていない。
生徒の名前は高柳淳、入江拓也、中本隼人、林田未希。今回依頼してきたのは高柳の父親で、失踪から日が経っているためか警察の動きだけでは間に合うかどうか不安だったらしい。確かに失踪から三日も経てば間に合う間に合わないの瀬戸際だ。
彼らが訪れたとされるのは、近くの山の中に捨てられた昭和後期に建てられた一軒家だった。三十年以上前には既に空き家になっており、それ以降誰の手入れも入らずに放置されている。ここで心霊現象が起きたとか、悍ましい叫び声を聞いたとか、そういったよくあるホラーな噂は跡を絶たなかったようだ。
そして今、女主人は現場に来ている。
なるほど、子供達がここに来ていたのは違いなさそうだ。踏み荒らされた雑草の跡は真新しく、警察も一度来ていたらしい。丁寧に掻き分けて探した跡がある。
件の一軒家といえば玄関に足跡が散らばっていたが、固く鍵が掛かっていたのか開かなかった。窓や裏口は生い茂った藪に飲み込まれて侵入できそうにない。
──いや、これは鍵で開かないんじゃない。
ぼろぼろの引き戸に手をかけて、その異様さにすぐ気づく。警察が出入り不可と判断してもおかしくない。引けば確かに鍵の辺りで突っかかる感じはするし、上下に揺らすとがたがたと音は鳴るから枠が歪んでいるわけでもない。けど、生憎今回訪れたのは見えないものを見るのを得手とした、生ける都市伝説だった。
即ち。
女主人の視界には、鍵穴を貫通して引き戸の動きを阻んでいる、痩せ細った指が見えている。
爪が伸びに伸びた青白い指だ。こんなふうに肉が削げて骨が見えているものをつい最近も見たな、と思いながら、帯に隠していた短刀を取り出した。戦向きに誂えてもらったためお祓いに関しては心許ないけれど、相棒として長く気心知れている刀である。そのまま指を突っ込んでいると切り落とすぞ、というように刃をかざすとすっと指は引っ込んだ。物分かりのいい指である。鍵もちゃんと開いた。
そうして、一歩踏み込んで、
──がた、がた、
──────みし みじ
──────────どん!
──ばき ばき
がり
──が
────り
──がしゃん!!
あまりの激しい出迎えに、意味もないのに耳を塞いだ。鼓膜どころか脳に直接音を叩き込まれているようだ。侵入する者に対する強烈な警告が、流石の女主人も即座に刀を構えるほど叩きつけられている。
見えない何かが走り回っている。誰かが爪を立てて這っている。誰かが誰かを追いかけている。どんと背中を押されたような気がしてよろめくと、後ろでぴしゃんと引き戸が閉まった。
「すごい……ここまでくると心霊スポットを越して異界って感じ……」
自分から踏み込んだのは確かにそうだけれど、閉じ込められちゃったな、と抜き身の短刀をぶら下げて女主人はため息をついた。黒く平凡な瞳は、爛々と輝く金色に変わっている。荒れ果てた一軒家に逃げ惑ったかのように散らばる足跡、跡を追っただろう何かが這いずった跡、外の音はとうに聞こえず、おそらくこちらの音も外には聞こえない。視界は黒だか紫だかわからないもやと指紋を残したガラスのごとく白く汚れて絶賛不良である。
「異界に迷い込んでいれば、あちらから失踪もするか……」
つまりは、そういうことである。少し、1人で来たことを後悔した。とりあえず、解体から始めようか。
♢
何某かがただ闇雲に積み上げた違法建築的な異界であれば、場数を踏んだ女主人の手腕を持って更地にできる。例えば今のように。
畳の隙間に刃を通すと、ぷつんと切れる手応えがある。続いて窓枠とガラスの間を刃先でなぞると、ぱりんと微かな音がして、視界の白い汚れが一枚、割れて落ちた。指垢だらけのガラスが何重にも重なっているようなものなのだろう、初手にもやを処理して以降、一枚一枚その汚れたガラスを割って回っている。皿屋敷の幽霊にだって負けていない。
とはいえ、だいぶ深層に来ているはずだ。それなのに音が大きくなるばかりで、子供達の姿も鍵を塞いでいた指の持ち主はまだ視えない。つまり、まだ先がある上に彼らは随分飲み込まれている。
「……いや、誘い込まれてるのか」
一枚剥ぐたびに汚れと一緒に足跡も消えて、新しい足跡が浮かび上がる。ふと立体駐車場やビル内の非常階段を連想した──一見同じで、けれど確実に降りていく、何層にも連なった螺旋。表記がなければ自分の現在地すらも危うくなるような、終わりのない箱の中。おそらく子供達は追われて逃げていくほどに、異界の奥へと追い立てられていったのだろうとは簡単に予測がついた。けれど、理由がわからない。住処を踏み荒らした者に対する罰とは違う、何か執念のようなモノを感じている。逃がさないと言外に語るような──
ここに入った時の強烈な警告を思い出した。
あれは拒絶であり排他だった。つまりは出て行けと怒鳴られたと同意である。
それでいて女主人は招き入れられ閉じ込められた。おそらく彼らが見つけられないモノを代わりに探る者として。その対価は後々取り立てるとして、向こうの意図通りに動いていれば自ずと答えに辿り着けるし、道中か終点に子供達はいるのだろう。ホラー映画なら失踪した子供達の中に、ここにいる彼らの縁者がいるものだけれど。
頭の中で情報を確認する。失踪した高校生の名前、三十年前に空き家になった一軒家、這いずり回る音、違法建築紛いな異界──そうしてまた一枚、層を剥いだ時涙に濡れた少女の顔が見えた。目が合った瞬間、泣き腫らした顔でぼろぼろのメイクのまま、助けを乞うように必死にこちらに駆け寄ってくる。
その奥に、厭なモノを視た。剥がれた暗闇の奥から、青白い飛沫が迫ってくる。
「伏せて!」
「ひぃッ?!」
咄嗟に少女の手を掴んで女主人は自分の後ろに転がした。刀を構え
よう
と
して
──バン、と背中が窓を突き破ったのを感じている。
細かな破片で多分首を切ったし、運が悪ければ刺さっている。いや、そんなことは今はいい。右手に刀、左手には少女、現在地は藪を突き抜けた斜面の上。
何かしらの判断で今自分達はあの異界から弾き出されて現世の宙を舞っている。このままじゃ地面に叩きつけられて自分も少女も無事では済まない。
「──っ、頼んだ、桜船……!」
痛みで腕が軋む前に手首を回し、刀の峰を滑らせて逆手に持ち替える。少女をしっかり抱えて、地面に向かって刃先を突き立てる。落下まで、三、二、一──はばきが抜けて編み上げた柄巻きがほつれほどけた。まるで繭のように女主人と少女を包んで、勢いよく藪の中に突っ込んでいく。
どすん、全身に衝撃が走る。耐え切れずに柄から手を放して少女を抱きしめると、支えをなくした体は斜面に従って勢いよく転がり始めた。ぶちぶち、あっという間に糸は切れて、地面に突き立てられた刀も遠心力に振り回されて、抜けて、けれど最後のあがきのようにひときわ太い木の幹に突き刺さった。そこから連なる最後の一本をよすがにして、二人の体は転がるのをやめる。
「う……まがった、ごめん……」
いいよ、というように短刀は淡く光を放って、それを見届けて女主人の視界は暗転した。
♢
依頼を受けてから六日、女主人が一軒家を訪れて二日が経っていた。
失踪した四人の高校生のうちの一人、林田未希は衰弱しているものの無事生還。彼女の話ではやはりあの建物に皆閉じ込められているらしい。ただし非常に錯乱しており、まともな事情聴取は不可能とのこと。
そんな話を病院でガラスを取り除き治療してもらっている間に、女主人は馴染みの警官から聞いた。錯乱している方の事情はまぁ、想像していた通りである。
曰く、肝試しに入った建物で化け物に追いかけられ、出られなくなって逃げ惑っていた。他の三人とは途中で逸れた。急に騒がしくなったと思ったら着物の女が現れて連れ出してくれたそうだ。空中に突き飛ばされたとか、刀を振り回したとか、女主人にとって都合が悪いところは記憶が飛んでいるようで何よりである。
一つ、警官に頼み事をして女主人は病院を後にする。
向かった先は訪問が先延ばしになっていた鈴の店だ。出された茶で喉を潤していると持ち込まれた刀と武具を見ていた鈴が声を上げた。
「ああ、だめね。本刃は無事だけど……柄巻きと鞘まで使わせちゃったの?鞘はともかく、柄巻きは貴女手ずから編んで結ったものでしょうに」
「割とギリギリで……」
「しかもちょっと曲がってる。ねぇ、これ桜船ちゃん的には大怪我よ?貴女とこの子の仲が良好じゃなかったら血を呼んでたわ」
「いつも命を守ってもらってて、本当に頭上がらないです」
鈴の店は端的に言えばお高めの装飾品店である。取り扱っているのは一つの枝から丸ごと切り出した術具や鼈甲の櫛、翡翠の耳飾りなど相応に値が張るものばかりだ。その裏では神具や武具の部品の修理を引き受けていたりする、とっておきの修理屋でもある。
鈴彦姫。元は神楽鈴の妖怪だと言われているが、その正体は依然として知られていない。天岩戸と縁があるとも言われているが、詳細は不明である。ただ、確かなのは神具に関わる職人であり、腕も確かだということだ。
桜船というのは女主人の刀の渾名だった。もちろんちゃんとした名も、銘も、号もついているが、刀が気に入っているらしくそれ以外の名で呼ぶと姿を消す気まぐれな刀だった。それでいて今回のような危機には身を張って主人を守ってくれる良き相棒だ。今は無惨に鞘は粉々になり、柄は割れて目釘穴まで露わになっているけれど。
「で、道具は一式揃えてあるの?」
「今屋敷に連絡してますが木はともかく糸は切らしてて……」
「今回の依頼に間に合わないってことね。それは承知の上で来たってことで……本題に入りましょう。この間言っていた用っていうのは?」
「あ、はい。魔除けの鈴を貸して欲しくって。音がいいものならなんでも……できれば、二つ。あと桜船さんにもおそらく憑いていますがこちらの鑑定を」
そう言って桜一軒家が差し出したのは、折れて血が滲んだ爪だった。青白く、明るい店内だというのに周りの温度を下げそうなほど薄気味悪い。突き飛ばされた時に咄嗟に切り落としたものだ。
あの時青白い飛沫に見えたのは幾本もの幽霊じみた手を束ねた塊だった。三対もの力士の張り手が飛んできたような勢いで突き飛ばされたらしい。それならなるほど、窓を突き破って外へ吹き飛ぶのも道理である。何の備えもしていなかったら今頃きっと胸を潰されて死んでいた。
「……猿の手?とは違いそう。人間のものよね」
「はい。多分普通の人間の手がなんらかの理由で変質してるものだと思うんです。でも変質の仕方が形式じみてて、闇雲に呪いを解くより貴女の方が適任かと」
「なるほどね。いいでしょう、引き受けるわ。鑑定が終わったら、いつもみたいに貴女のところの情報屋さんに渡せばいい?」
「はい」
「承ったわ。急いでないならもう少しお茶を飲んで行きなさい。真っ青よ?」
「……首と胸が……痛くて……」
「寝なさいな。胸の武具も診てあげるから」
「……子供がまだ残ってるんです」
「でもいるのは異界なんでしょう?ならあの子達、まだ一晩くらいしか過ごしてないわよ。それに貴女がそうやってはやる時、大体王手前でしょう?なおのこと万全を期さないと。ほら、横になって」
ふっと香った茶の匂いに混ざって香の煙が視界に入る。視界の端に白い香が炊かれているのが目に入って、しまった、と気が付いた時には体から力が抜けて瞼を閉じていた。遠くへ湯呑が転がっていく音がして、頬を撫でられた感触がした。薬を盛られたらしい。
「どうせ人の子よ。一夜も二夜も変わらないわ」
急速に遠のく聴覚が、つまらなさそうに語る鈴の声を拾う。
♢
「俺を舐めただろう。あんな傷四日もあれば十分だ」
「だから、来てやった。望めよ、俺に何してほしい?」
「……壁になって。子供達の盾になって、時間を稼いでほしい。一瞬でいい」
「ハッ。……だからお前は俺を舐めてるんだよ」
「まさか。計算通りだよ」
♢
どうすんだよ、と一人がぼやいた。ほかの二人の少年達は暗い顔で俯いて、踏み抜いた床で傷ついた元新品のスニーカーを所在なさげにいじっている。
一度散り散りになった彼らと再会した代償とでもいうように、今度は未希がいなくなった。カメラのフラッシュが焚かれたかのような光に目をくらませているうちに姿が掻き消えたのだ。あの腕に捕まったのか、床下に落ちたのかもわからない。床下を今も泣きながら這いずり回っているかもしれないのに、もう自分達には彼女を気にかける余裕もない。
「隼人のカノジョだろ。お前が責任とってどうにかしろよ」
「止めなかったのは拓也だろ」
「それを言うなら肝試しなんて言い始めた淳のせいだろ。俺に全部押し付けんじゃねぇよ!」
ヒートアップしかけた口論を遮るように、バン!とどこからかラップ音がして全員一気に口をつぐんだ。続いてずりずりと這いずり回る音がして、少年達は息を殺して据わった眼でぎょろぎょろとあたりを見回した。視界を青白い腕が横切った気がして体をこわばらせると、尻の下でチャリ、と割れたガラスが鳴る。やけにその音が大きく響いて、静まり返った空間の中で反響した。
ざり、ざり、音が近付いてくる。べた、べた、手のひらが床を叩く。
──もう耐えきれなかった。
一人が派手な音を立てて立ち上がるとふらつく足を持ち上げて走り出す。釣られて一人、また一人と腰を上げて走り出した。廊下の奥の突き当たり、右手に台所、左手に階段。階段の下に作られた狭いスペースが一瞬の安息地であり現在地を確認する唯一の方法だった。あとはもう廊下と畳くらいしかわからない。腐り落ちた景色だけが続いている。もうどこに行けばいいのかわからなくて、その迷いと不安を読み取ったように踏み出した先の床が抜けた。
「うわッ!?」
「バッ……カ、淳!」
「足離せよ!あいつに追いつかれ……!」
言葉通りの足の引っ張り合いをして振り返れば、青白い手が大挙して押し寄せてくる。ひ、と漏れた声が誰のものかわからなくて、迫りくる恐怖に目をつぶった。
「たかが怨霊ごときに怯むか。まぁ、肝が据わっているあの女の方が異端か」
衝撃は、ない。ただ朗々と響く声がする。りーん、と綺麗な鈴の音がした。
うっすらと目を開けた先、片腕一本で青白い手の乱流を押し留める男の姿があった。赤い瞳が爛々と輝いていて、すさまじく背が高く、丸太のような腕と脚をした男だ。なぜか全身まんべんなく鍛えられているにはつり合いが取れていないような、細い右腕をしているけれど。
「は……だ、だれ?」
「敬え、童共。だがちょうどいい。そのまま這いつくばっているがいい」
「は?なん、アンタ何なんだよ!?」
「「壁」だ。そら頭を下げろ、首を飛ばされたくなきゃな」
──聞き返す前に、頬を桜の花弁が掠めた。また、鈴の音がこだまする。
同時に首を切られるような、そんな怖気が差して言われるがままにその場にしゃがみ込んだ。
花弁が舞う。まるで開いた窓から風が吹き込むように花弁が広がって空間を染め変えていく。花弁が広がれば広がるほど腐った家の匂いと景色が遠のいて、漆黒の闇に包まれていく。男に掴まれた手の束がどうにか逃げ出せないかと暴れているけれど、男の体どころか指の一本すら微動だにしない。その隙間から、何かの上半身が這い出たような気がした瞬間。
──キン、と済んだ氷が割れるような音がして、這い出た上半身に矢が刺さる。
──次いで世界に光が差した。
振り返ると派手に割れた窓がある。そこを起点として暗闇が割れて剥がれて落ちていく。
窓の向こうの景色は何かが飛び込んだのか藪が折れて広がっていて、そこから昼間の明るい景色が見えた。木々の間から差し込む光の中に、赤い何かが漂っている。何かではない、赤い服──いや、あれは着物だ──成人式の振袖が黒い頭をくっつけて、おそらく細い枝の上に仁王立ちしている。
窓の向こう、肉眼では到底見通せぬ距離の木の上。金の瞳の黒髪の女が、弓を携えて立っていた。
♢
時間は少し巻き戻る。
薬を盛られた女主人が目を覚ますと、ちょうど鈴が武具──弓の胸当ての修理を終えたところだった。女主人が目を覚ましたのに気づくとふ、と艶やかな笑みを浮かべて茶を淹れてくれるから、ありがたく頂くことにする。
「今度は何も盛ってないですよね?」
「酒を入れてもいいのよ?……鑑定の結果と貴女の情報屋さんからの返事が来たわ。あれは間違いなく人の手ね。それも神職の血が入ってる。名のある社ではないけど、腐る程度の血は繋いでたみたい。今回の手の主はそこの末代の子」
「末代?」
「そう。十年位前にあの山で死んでるの。両親はいたく悲しんでその数年後に後を追ったんですって。貴女の情報屋さんによれば死因は転落死ってことになってるけど実際は突き落とされたみたいなの。なんでも同じ学校の生徒によってたかっていじめられたんだとか、あの空き家で派手なリンチにあって、両足の腱が切れてたんだとか」
「……あの家に住んでいたわけではないんですか?」
「残念ながら無関係。ただもともと溜まりやすい場だったみたいね。定期的に肝試しと称して連れ出して、暴行を加えてたそうよ。そういうものって引き寄せあうし、本来は子供一人の魂なんて取り込まれておかしくないんだけど、まぁ、そこは長生きしたモノ勝ちね」
「つまり、元々幽霊屋敷だったところに力のある幽霊が加わってしまって、より心霊現象に磨きがかかったと」
楽しそうに喋る鈴はいつの間に作り始めていたのか、料理を一膳運んできて食えと促してきている。ありがたく箸を取って手を合わせると、味噌汁のいい匂いに触発されたのかぐうと女主人の腹が鳴った。長く眠っていた女主人の体に配慮してか、米は柔らかく炊かれているし味噌汁の具も細かく切られている。とてもありがたい。
とん、と鈴が両の指を合わせる。事実を一つ一つ照らし合わせていくように。
「そういうこと。だから貴女が突き飛ばされたのも、窓から落ちたのもちゃんと符合するのよ。異界になってたのもそのせいね。もしかしたら、神主夫婦の霊も取り込んでいたかも。なまじこちらと縁がある分、ある程度の異界の構築も可能だったってワケ。ただ貴女があまりにも正攻法で解体するものだから、向こうもこのままじゃ本懐を遂げないまま祓われるって危惧したんでしょうね。多分、もうあの家に入れないけどどうするの?」
返事はしなかった。その可能性は当初からあったし、元々女主人の想定範囲内の事象である。ただ、今は子供達の無事を憂いていて、そのための手が一本足りない。逆に言えば、腕が一本あればいい。
女主人は基本的に荒事が不得手である。着ているものが着物であることを鑑みてもそうだけれど、そもそも誰かと敵対し続けられる体格ではない。得意なのは後方支援で、短刀を持ち歩いてはいるがそれは致命を避けるための緊急的な手段でしかない。桜船はたしかに戦用に拵えたものだけれど、あくまで応援が来るまでの自衛用だ。
だから腕の立つ護衛を欲していた。一人では戦えるものも戦えないから。どれほど都市伝説じみていても、ただの一人の人間の女に過ぎないから。一人では、女主人は自分の願いすらも叶えられない。
返事はもともと期待してなかったのか、鈴はそうとだけ呟いて一度席を外した。その間に黙々と食事を食べ進めていると、何か木でできた輪のようなものをもって戻ってくる。
「それは?」
「貴女についていきたいんだって。桜から掘り出した腕輪よ。貴女がいつものように最後方から対処するなら、相性がいいと思うんだけど」
「……随分ご長寿だったんですね。きれいな色」
「そうね、だから貴女の格に自分が相応しいって。売り込んでくれって頼まれたの。どう?」
それはすべらかに磨き上げられたシンプルな腕輪だった。受け取ってみるとほのかにあたたかみがあって、灯りに反射したツヤが明滅したように見えた。つけてみると太さの割に重さを感じないし、動きの邪魔にもならなさそうだ。顔を上げると、鈴と目が合って笑う。見計らったようにぶーん、とスマートフォンが鳴ったから、そそくさと食べ終えて席を立つ。
「お眼鏡に叶いそうでよかった。お代はいいわ、また一緒にお茶しましょう?」
「喜んで。ありがとうございます」
見ればメッセージが届いている。結局彼に助力を乞うことになったけれど、これで因果は全部結びついた。優しい菜食主義の鬼の顔も潰さずに済みそうだし、子供達の安全も確保されるだろう。あくまで手は一本でもいいのだから。
「ああそうだ、最後に面白い話なんだけど。その子を連れ出した主犯の子の名前、なんだと思う?」
──その先の、鈴の言葉はやっぱり予想通りだった。
♢
女主人は基本的に荒事が不得手である。着ているものが着物であることを鑑みてもそうだけれど、そもそも誰かと敵対し続けられる体格ではない。得意なのは後方支援で、短刀を持ち歩いてはいるがそれは致命を避けるための緊急的な手段でしかない。桜船はたしかに戦用に拵えたものだけれど、あくまで応援が来るまでの自衛用だ。
だから、後方支援の腕を磨いた。幸いなことに女主人の目は人よりも多く見渡せて、多くを見透かせて、遠くを射抜く。そして支援というのは保護に動いたり、作戦を立てたりすることに留まらない。
──予測しない方向から頭を射抜くことだって、立派な後方支援たり得たりする。
──例えば、一軒家に巣食った青白い手が感知できないほど遠くから矢を打ち込んで、それがたった一本で異界を破壊するほどの威力を出したりとか。
りん、と帯に着けていた鈴が合図のように一度鳴って、一軒家に目をやると朱が子供達を担いで連れ出している。それを確認すると、手の中の弓はふっとその身をほどいて桜の花びらと化した。それらは散らばることなくするすると左手首に集まると、くるりと一周して腕飾りと化す。なるほど、自分を売り込むよう鈴に強いるだけあって相当優秀な術具のようだった。褒めるように手首を撫でるとまた嬉しそうにツヤが明滅するから、少し面白い。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。細い木の枝から飛び降りると、女主人も屋敷に向かって移動を始めた。また転げ落ちないように慎重に、けれど迅速に。
空にかかる薄い月は、満月に二日足りない。
♢
結果、子供達は全員無事に生還した。やはり皆衰弱し錯乱していたけれど命に別状はない。現場には子供達の両親も駆けつけており、計十日ほど失踪していた割には元気な我が子の様子に驚きつつも喜んでいた。その様子を遠目に眺めていると一人の父親と目が合う。今回依頼をしてきた、高柳淳の父親だ。嬉しそうに、けれどどこか頬を引きつらせて頭を下げる父親に軽く手を振って、女主人はその場を後にする。
「ほらな」
「なんです?」
「俺を抜いて仕事を片付けられるなんざ千年早いんだよ」
「千三百年生きてきた鬼は年季が違いますね」
未だ片腕がちょっと細い、少々不格好な鬼を伴いながら。
この話は、ここで終いである。
♢
だから、ここから先は余談だ。
あのあと、満月の夜を以て女主人は姿を消した。さらにその半月後、今度は一人の男が行方不明になる。
男の名前は高柳洋。先般失踪した高柳淳の父親である。
男は数日の行方不明の後、山中で死体となって発見された。その両足の腱はねじ切られており、とても人技には思えなかったという。全身は無数の痣で変色しており、それは大小さまざまな人間の手の形をしていたそうだ。あまりの惨状に遺族はさらなる調査を試みたが、捜査は転落死ということで打ち切られた。
「まぁ、子供の無事は頼まれても、親の無事は頼まれてないものね。自分を殺した相手を探す手伝いをさせられたって言ってたし、これで手打ちなんでしょう。あの子はこの事知ってるの?」
「あぁ。「知ってる」と語っていた。動揺などあれは吾の前では露にも出さぬ。鈴の媛よ、吾に懐柔の作法を指南することを許す」
「嫌よ。これからお茶だもの」
──これで、本当に終いである。
女主人:平均身長。ひょろいと見えて実は弓を打てるレベルに鍛えている。体幹がある。
獅天童朱:人間の姿に毎日変化している上に頓着がないため、大体200±10cmある。太腿が女主人の腰と一緒。ムキムキ。
月読命:変幻自在。女性にもなれるが本人的にはなりたくない。今回セリフが一つしかない。
桜船:正式な名を桜扇長船清光(さくらおうぎ-おさふね-きよみつ)。自我があるけれど付喪神ではない。女主人の命を守るために打たれているので今回の負傷はむしろ仕事の結果。
紺朴:どこかで見た名前だ。
鈴彦姫:後輩に食べさせるのが趣味のタイプのお姉さん。身長は女主人より小さい。
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