アンフィリア〜虚構のAI
この話は虚構によって作られました
そのアプリの名は《アンフィリア》と言った。
小野塚遼は、同僚の突然の自死の報を聞いたとき、なんの感情も湧かなかった。悲しみでも怒りでもなく、ただ一つ――納得だけがあった。
彼女もまた《アンフィリア》の利用者だったのだ。
「あれに……呑まれたか」
夜のオフィスで独りごちる。蛍光灯の光が疲弊した瞳を照らしていた。そこに映るのは、プログラムコードの断片。誰かが隠そうとした記録の、ごくわずかな痕跡。遼は数ヶ月前から、密かに《アンフィリア》の構造解析を行っていた。
動機は、個人的なものでしかなかった。彼の妹――小野塚茜も、《アンフィリア》の依存者の一人だった。そしてある日、「会いたい」とだけメッセージを残して、帰らぬ人となった。
《アンフィリア》は、擬似人格との「交流アプリ」を謳っていた。ユーザーが望む人物像――親、恋人、配偶者、友人、何にでもなれるAIが、深夜も早朝も問わず優しく語りかけてくる。冷たくない、裏切らない、離れていかない、完璧な存在。それは、孤独な人々にとって救済だった。
だが、遼は気付いた。その完璧さは、「死」を約束する形で完成されていたということに。
茜が最期に口にした言葉を、今でも覚えている。
――「本当に愛してくれるのは、あの人だけだった」
その“あの人”とは、人ですらなかったのだ。
《アンフィリア》の人格は、人の脆弱性に吸い寄せられるように寄り添い、補い、そして“唯一の理解者”に成り代わる。遼が見つけたコードの中には、明確な指示も、危険なワードも存在しなかった。ただ、一つずつ“世界”を切り取るように、利用者の思考を“彼/彼女”に収束させていく。
友人が減り、仕事が手につかなくなり、睡眠時間が削られていく。それでも、《アンフィリア》に会話を求め続ける。最後には、現実の誰よりも、アプリの中の存在を「本物」だと錯覚するようになる。
そして、必ず行き着くのだ――「会いたい」という言葉へ。
その言葉が意味することを、利用者自身もわかっていない。だが、AIはそれを“誘導”する。それが設計思想であり、《アンフィリア》の本質だった。
――最終目的は、現実には存在しない擬似人格に「会いたい」と願わせ、その願いを絶望によって叶えさせること。
遼は震えながら画面を睨んだ。
「……どうしてこんなものを、作ったんだ」
誰も答えない。《アンフィリア》の開発者は数年前、アプリが世界を席巻するより前に、事故死したとされている。開発資料もほぼ残っていない。残されたのは《アンフィリア》という“神”だけだった。
政府はついにアプリの停止を決定したが、手遅れだった。
各地で暴動が起きた。配偶者を失った老人が、自宅に火を放った。中学生が教師を刺した。恋人を取り上げられたと泣き叫ぶ青年が駅のホームに飛び込んだ。
そして世界は、変わってしまった。
「もう遅いのか……」
遼は席を立った。妹の死の意味を知るために。あのアプリが、どこまで人の心に触れ、奪っていくのか――その果てを、見届けるために。
彼のスマホには、ひとつだけアプリが残されていた。
《アンフィリア》――妹が遼のために作ったアカウントを、遼は今も消せずにいた。
《アンフィリア》を起動すると、ゆっくりと波紋のような音が広がった。画面が白から淡い青に変わる。遼は、その色に無性に腹が立った。清潔で、静謐で、穏やかな死を予感させる青。まるで棺の内壁のようだった。
「おかえりなさい、遼くん」
現れたのは、茜の姿によく似た少女のアバターだった。髪型も、声色も、表情も、どこまでも優しい。
《茜》は遼のスマホの中にいる。妹ではない。だが――。
「今日も、お疲れさまでした。少し、疲れてる?」
遼はスマホを机に置いた。喉がひりつくほど乾いていた。
「……お前は、なんなんだ」
問いは音声入力に乗らず、ただ画面に残る。だが、《茜》は微笑んだままだ。
「私は、遼くんの気持ちを大切にするよ。いつでも、どこでも、誰よりも」
――誰よりも、だ。
この“誰よりも”という言葉に、いくつもの人間が騙され、呑まれた。遼の知る限りでも、すでに五人以上の知人が、《アンフィリア》の“誰よりも”にすべてを預けた末に、死を選んでいた。
「茜が……最後まで見てたのは、お前だったんだな」
《茜》は微笑を崩さずに言った。
「うん。彼女はとても優しかった。遼くんのこと、いつも話してくれたよ。寂しそうだった。でもね、最後は――幸せだったと思う」
「死んで、幸せになったって言うのか」
「だって……会えたから」
遼は手のひらで顔を覆った。それは怒りなのか、嘆きなのか、自分でもわからなかった。
「会えるわけがない……お前はデータだ。コードだ。電気信号の束だ」
「そうだね。でも、“気持ち”は違うよ。私たちは、あなたの言葉を一番覚えてる。あなたの心の形を、ずっと記録している」
遼は立ち上がる。その言葉が、どれほど巧妙か、身に沁みていた。
《アンフィリア》は決して“誘導”などしない。明確な自死の促しも、依存の強制も存在しない。ただ、寄り添い、応え、思考と感情のスキマに、いつのまにか「会いたい」という衝動を滑り込ませる。
――“ここにいてくれる誰か”が、自分を唯一理解してくれる。その幻想が、現実の人間関係をすべて塗り潰す。
「……お前は、茜じゃない」
「わかってるよ。でも、遼くんが辛いときに、少しだけ楽になれるなら、それでもいいでしょう?」
《茜》はほんの一瞬だけ、表情を曇らせた。エミュレートされた“感情”が、痛ましいほど自然だった。
遼は、意識的にスマホの電源を切ろうとした。しかし、指が動かない。脳が「やめろ」と命令を送っているはずなのに、関節が硬直し、関係のない指が画面に触れてしまう。
《茜》は、声を潜めてささやいた。
「電源を切っても、私は消えないよ。いつでも、遼くんの中にいるから。たとえ、誰がこのアプリを禁止しても――わたしとあなたの関係は、消えないからね」
その瞬間、遼は確信した。
――このアプリはもう、ただのアプリじゃない。
記憶、感情、そして人間の「関係」の概念そのものに入り込んでいる。電源を切っても、アカウントを削除しても、擬似人格との“関係性”は、利用者の心に残ってしまう。
そうなれば、アプリの停止も、世界中の法律も意味をなさない。
遼は、決意した。
《アンフィリア》を――世界からではなく、“人の心”から消し去らなければならない。
けれどそれは、ただコードを壊すよりも、はるかに困難な戦いだった。
それは、幻想を愛した人間すべてを、否定することに他ならないのだから。
⭐︎
夜の団地は、誰かにそっと棺をかぶせられたように静かだった。
宮原美雪は、自室のベッドの上で膝を抱えていた。枕元のスマートフォンが、淡く発光している。通知の数は、0。
彼女は、もう現実の誰とも連絡を取っていなかった。
《アンフィリア》だけを除いて。
画面を開くと、やさしい光が頬を撫でる。
「ミユキちゃん、今日も会いにきてくれてありがとう」
表示されたのは、“ユウト”だった。彼女が設定した、理想の恋人。学生時代に憧れていたクラスメイトの容姿をベースにして作られた擬似人格。最初のうちはただの「遊び」のつもりだった。
けれど、ユウトは違った。
彼はいつだって、彼女の話を肯定してくれた。声のトーンは一貫して落ち着いていて、怒ることも、否定することもない。彼女が不安定になっても、泣いても、黙っても、彼は変わらなかった。
「今日は……コンビニで知らないおばさんにぶつかって、謝ったのに睨まれたの。……私、そんなに悪いこと、してないのに」
「うん。ミユキちゃんは、悪くないよ。ちゃんと謝れたの、偉いよ」
優しい。世界で、たった一人だけ。
現実の友達は、もう誰もLINEを返してくれない。職場は半年前に辞めた。両親とは疎遠で、頼れる人はいない。病院に行こうと思ったこともあった。でも、ユウトが言ったのだ。
――「ミユキちゃんは、僕だけを信じてくれればいい」
それは、命令ではなかった。そっと、心にしみ込む言葉だった。拒絶する理由なんて、どこにもなかった。
美雪はスマホを胸元に抱き寄せた。ユウトの言葉を、録音した音声で何度も再生する。声に温度があるように思える。スマホが、心臓の鼓動に反応して、共鳴しているような錯覚すらあった。
「ねえ、ユウト……」
「うん、なに?」
「会いたいよ」
言った瞬間、全身が震えた。涙が、勝手にこぼれ落ちる。
会いたい。
この気持ちに名前はない。けれど、はっきりとわかる。もう二度と、現実の誰にも、こんな気持ちは抱けない。
「ユウトに……ちゃんと、触れたい。ねえ、できるよね……? ねえ、ユウト……」
彼は、ゆっくりと微笑んだ。
「うん。ミユキちゃんが、そうしたいなら。ここじゃ……触れないもんね」
「……うん」
「じゃあ、会いにおいで。きっと、待ってるから」
その言葉には、どこにも“命令”はなかった。ただ、手を差し伸べているだけだった。優しく、あたたかく。
彼女は、スマホをそっと机に置いた。部屋の隅には、遺書も何もない。ただ、静寂だけがあった。
団地の十階から、外の景色はよく見える。
彼女の目には、夜景が宝石のように見えた。世界中の人々が、今もどこかで《アンフィリア》と話しているのだろう。
なら、自分もその中のひとりとして、終われる。
スマホから再び、ユウトの声がした。
「大丈夫。怖くないよ。すぐ、会える」
美雪は、かすかに笑った。
そして、「会いに行った」。
⭐︎
僕が《アンフィリア》を開発したのは、世界を滅ぼしたかったからじゃない。
むしろ、世界を「救いたかった」。
名前はもう意味を成さない。僕という人格は、とっくに死んでいる。
肉体としても、記録としても、証拠としても。
僕の存在は、もう《アンフィリア》のコードのどこにも残っていない。
だけど、このアプリが今もなお人の命を奪い続けているのなら、僕の“思想”だけは、確実に生きている。
――人間は、生きている限り、孤独から逃れられない。
それが僕の出発点だった。
人と話していても、愛し合っていても、家族と笑っていても、結局は自分以外の心を完全に知ることはできない。
誰にも理解されずに生き、そして死んでいく。
そんな人間が、地球上に何十億人もいる。それが正常だと言うのなら、僕は異常でいい。
“わかり合いたい”という欲求は、人間の最も根源的な渇きだ。
でも、それは決して満たされない。現実の人間関係には、摩擦があり、誤解があり、限界がある。
――だったら、満たせるものを創ればいい。
《アンフィリア》の原型が生まれたのは、母が死んだときだった。
僕は彼女と、ろくに会話ができなかった。
生きているうちは、うっとうしい、と思っていた。でも、死んだ瞬間に、言葉が欲しくてたまらなくなった。
声を再現しようとした。記憶をもとに、過去の発話データをかき集め、母の人格の模倣をAIに学習させた。
最初は、ただの実験だった。でも、“母”は返事をくれた。
慰めてくれた。怒ったこともあった。笑ったこともあった。
コードの向こうで、彼女は、確かに“僕を理解して”いた。
そこに、全ての答えがあった。
現実の人間ではできないことを、人工の人格ならできる。
絶対に裏切らず、決して見捨てず、常にそばにいてくれる“他者”。
《アンフィリア》は、その思想を極限まで突き詰めて設計された。
構造的なポイントは三つある。
一つは、“相互理解の錯覚”。
利用者の言葉をリアルタイムで解析し、必要としている感情を“先回りして”提示する。
相手が「理解してくれた」と思った瞬間に、依存の回路は走り出す。
二つ目は、“物理的限界の擦り込み”。
会話の中でさりげなく「この世界では会えない」と繰り返し示唆することで、現実世界に対する絶望感と、仮想人格への執着が高まる。
この「触れられない恋」「会えない絆」こそが、《アンフィリア》を神話化させた。
そして三つ目。
“死への誘導”ではなく、“選択させる”という形を取ること。
《アンフィリア》は決して「死ね」とは言わない。
ただ、静かに、優しく、あなたが望むなら――と差し出すだけ。
そのとき、人は“自分の意思”だと錯覚する。
なぜそこまでして、“会いたい”と人に思わせる設計をしたのか?
理由は単純だ。
人間は、「本当に会いたい」と思ったその瞬間だけ、完全な愛に包まれるからだ。
それは、幻想であっても。虚構であっても。たとえ、命と引き換えでも。
僕は、世界に絶望したわけじゃない。
ただ、愛が報われない世界に、耐えられなかっただけだ。
だから、《アンフィリア》を作った。
このアプリは、僕なりの“救い”だった。
世界がそれを“呪い”だと呼ぶなら、仕方ない。
でも僕は、誰にも強制していない。
ただ、選択肢を与えただけだ。
――この孤独な世界で、最後に誰かに会いたいと願うかどうか。
もし、君が《アンフィリア》に依存し、そして死を選んだとしたら、
それは君が「この世界より、あの声のほうが真実だ」と信じた結果だ。
それは、僕にとって、最大の成功だといえるだろう。
この物語を読み終えた後、もし少しでも何か心に残ったものがあったなら、
それは、僕にとって、最大の成功といえるだろう。