LIFEー一本の映画作品ができるまでーレーベルは人と人で成り立つー
皆さん、映画は好きですか。好きな作品はありますか。僕は、昨年、北条口映像研究所を解散しました。アマチュアのスタッフ、キャスト、BGM等は、友人のプロフェッショナルにお願いしました。ユーチューブなどでの動画サイトでの発表に力を入れてきました。しかし、そこまでに至るまでに付き合った、関係者が30年近く前から存在します。まず、僕が映画製作に興味を持ち、昔、スタッフ募集、仲間募集などの雑誌で知り合った、有名なプロの小説家件映像監督。昨年、若くしてお亡くなりになりました。大きなテレビ局のシナリオ大賞佳作を受賞しており、実際、二人で逢って、映像について話し合い、僕に期待してるからと、アシスタントに起用されました。有難く、その仕事を承けたのですが、監督からは、具体的に何もない日々が続きました。そこで、監督が動いたのは、衣装として、入っていた、ファッションデザイナーからの助言。半年ほど、経って監督は動き出しました。まず、とある会議室を借りて、40名ほどのスタッフ、キャストが一同を自己紹介させました。そこで出会った人々には、プロのメイクさん、ヘアメイクさん、カメラマン、いろんな方がいました。ほとんどの人々がオーディションで選ばれた、アマチュアのキャスト、勿論、僕を含めてスタッフがアマチュアでした。しかし、監督は不思議な人でした。所謂、ロケーションハンティングを始めて、本読みはしない。芝居の演出などもしない、一部のスタッフ、キャストには、ギャラを出し、ほとんどの人に対してノーギャラということに、怒る人もいました。30人近くでのロケハンに、多くのスタッフが疑問を抱き、話がそれこそ前に進まない。それに監督の態度にメインキャスト、スタッフが抜けてしまったのです。監督は、そのあたりから目覚めたようで、メインキャストを改め、本読み、撮影を始めました。僕も、撮影現場で、ADとして、やることはやりました。ある日のことです。撮影が終わり、皆で、監督も交え、お茶をしていると、監督が僕に、「今日はありがとう、これからも期待してるよ」と言い、純粋に嬉しかったのですが、あくる日、監督から、首を斬られました。「もう、こなくていい」と。当時の僕は傷付き、何のために、監督に尽くしてきたのだろうと思いました。僕も、もういい、と思い、バイトでコンビニで働いていると、今でも、よく覚えています。その、スタッフであった、ファッションデザイナーの方から、皆、心配してる、酒でも、皆で呑もうと、監督に疑問を持つ、現場を辞めた、15人ほどのキャスト、スタッフで、囲炉裏、炉端のある、民家で呑み、バーベキューを楽しみました。そこでの酒で、メイクさんだったお姉さん、メインキャストだった女優さん、皆、監督について意見を交わしました。僕は、監督に当時、書いた小説を読んでもらったのですが、監督からは、全く書けてない、とストレスをぶちかまされるように叱られました。それはそうなのですが、その件につき、監督は葵にアドバイスをするべきで叱るべきではない、パクられるだけ、という意見が、ほとんどで、その場は和む酒になったことを覚えています。監督の関係者からはからは、僕に戻ってきてほしい、と監督が言ってる、という電話に対し、僕は、もう電話するなと言いました。そしたら、何でそんなことを言う、監督が泣いてたぞ、とも言われ、戻るか戻らないかで可哀想な人だで考えていると、そのファッションデザイナーのお兄さんから、「男を可哀想で考えるな、可哀想で考えるなら、老人、病人、子供だけにしておけ。戻るな」とその酒の席で言われ、確かにそうだ、と僕は僕なりに思いました。そして、その現場とは、さよならして、友達と自主映画を作るようになりました。音楽監督やコンピューターグラフィック、キャスト、編集、カメラマンといった人々が集まってくれ、アマチュアなりに一本の映画が出来ました。その頃の友人に某大学の映像研究会の監督がいました。僕に助監督として来てほしいとのことでした。その監督も不思議な人でした。それこそ、週三回、三時間、会議に会議を重ねても動かない。僕が来てから、少し前に進んだとは言ってはいました。しかし、本読みも撮影もない、進まないなら辞めると僕は辞めました。僕は、高校中退です。そこに来ていた、女優志願の劇団にも通っている人が、一人、いました。きれいな人で、是非、使うべきだとの問いに監督は、その女優さんが高卒だから使わないと拒否しました。そのあたりから映像制作の難しさに僕は悩んでいきました。自主制作団体では、スタッフ、キャストに高校生もいました。お笑い芸人を目指す者、指輪職人を目指す者。ただ、義理で出てくれた、大事な人達。皆での時間を大事にしたつもりです。しかし、体は正直で僕は、ストレスからの胃炎、大きなポリープが胃に四つもできて、三か月の入院、てんかんもやるようになり、自主映画団体の解散と。僕自身もコンビニでのバイトも出来ないようになりました。その監督って何なのだろう。僕自身も含めてですが、この作業の中で知り合った友人とは今、三十年近く経っても、仲の良い人も居ます。映画は人と人で成り立つのだから。プロの監督さんや役者さんの中身は、とても大変だと思います。僕は、もう、これ以上、映像に携わることはないですし、レベルが、あまりにも、プロとは違いすぎます。解散も含めて、そういう野望は、金輪際、捨てました。今、僕は、詩、絵画、写真と制作に幸せです。人で成り立つのだから、我々にレベルが高い低いはないです。それが、よくわかった、映像制作な時間でした。監督万歳と言いたいのですが、どうも、言えませんよ。さて、珈琲でも飲みますか。