辺境の魔女は、薔薇騎士人形と甘めのミルクティーがお好き。
「ねぇクラウディオ! 私、アレが飲みたいわ!」
「はいはい、お嬢様。いつものブルベミルクでオールミルクフォーム多め、シロップは少なめで蜂蜜をかけたミルクティーですね」
「そう、それ!」
ふわふわしたミルクフォームのたっぷり乗った紅茶を、ソフィアはいつもご満悦そうに受け取る。
それは甘く、とろけるような味だろう。
ソフィア・フォーレンベルク公爵令嬢は、生まれたときから何かが“違って”いた。
公爵家の令嬢にもかかわらず、その容姿はどこか人外じみている。
背中までさらりと流れる銀糸のような髪と、わずかに尖った耳。それが彼女の上品な顔立ちを引き立てるようでありながら、同時に「エルフ」の血を思わせる決定的な証拠でもあった。
フォーレンベルク公爵家の歴史を紐解けば、先祖の中にエルフが混じっているらしい。
だが正式な記録にはなく、代々「人間同士の家系」とされてきたのだ。
もちろん公爵夫妻はふたりとも人間である。
エルフとの混血など、よほど遠い血筋の話──それなのに、生まれた娘はどう見ても“ハーフエルフ”といってよいほど特徴が際立っていた。
夫妻は最初こそ驚いたものの、公爵家の面子のために「これは幼い頃だけの特徴だろう」ということにして、耳を隠し、育て方に気を遣っていく道を選んだ。
そして五歳を迎えたソフィアには、専属の世話役として優秀な少年をつけた。
その少年が、クラウディオ・ストレイシア──当時わずか十歳。
古くから公爵家に仕えているストレイシア家の次男であった。
年端もいかない少年が、令嬢の小さな頃からわがままをすべて「はいはい」と笑顔で受け止め、どんな小さな欲求にも柔らかな態度で接してくれていた。
ソフィアが窓の外を見ると、クラウディオが庭いじりをしている。
彼女は特段花が好きというわけでもないが、彼が花を懸命に育てている姿を見ていると、つい気になって覗いてしまう。
「ねぇクラウディオ! 私とお遊びしましょ! そんなお花の世話よりも、お人形さんたちと遊ぶのが先よ!」
「ふふ、いいですよ。ただ、この子たちもちゃんと世話をしなくては。長い時間をかけて育てたものには魂が宿ると言いますからね。お嬢様が作る人形にも、いつか魂が宿るかもしれませんよ?」
「そんなわけないじゃない。そういうのは御伽噺の中だけよ!」
ソフィアは幼いときから人形が大好きであり、彼女が自分の手で縫い上げる人形には驚くほどの精巧さがあった。
元々は人形屋に並ぶ既製品を買い集めるだけだったが、そのうち自分で木を彫り、布を縫い、ペイントし、髪の毛を一本一本植えて──そうやって作った人形が増えていった。
父親の公爵や母親の公爵夫人は、その“器用さ”を多少は評価していたものの、「子供の趣味だろう」とあまり深くは気にしていなかった。
さらに時は進み、ソフィアが七歳ごろになったころ。
第一王子アルト・バルナード──王家の血を引く少年が、公爵家を訪ねてくるようになった。
バルナード王家とフォーレンベルク公爵家とは遠い親戚関係にあり、幼いアルトとソフィアは年齢も近く、何かと顔を合わせる機会が増えたのである。
アルトは王族としての品格も幼少ながら兼ね備えていたが、まだまだあどけなく、ソフィアより二つほど年上の九歳。
公爵家を訪れると、決まってソフィアとクラウディオのいる庭園へ足を運んだ。
「やあ、ソフィア。お城の外を馬車で走ってきたんだけれど、今日は天気がいいね」
「アルト様、こんにちは! あのね、見て見て、新しい人形よ!」
ソフィアが得意げに見せるのは、まだ針目が不揃いで、ぬいぐるみとも布人形とも言えないような拙い作品だった。
しかしその配色や造形には、どことなく独特のセンスがあり、アルトは面白がって笑った。
「可愛いね。ソフィアは本当に人形が好きなんだね」
「はいっ! クラウディオがね、綺麗な布を探してくれたの。それに、へたっぴだけど私、縫い物もがんばったのよ!」
「お嬢様はまだ針に糸を通すのもままならないんですよ。私の指も何度か針で刺されましてね」
「もう、うるさいわね。余計なこと言わないで! クラウディオはあっち行ってて!」
そのやり取りを見て、アルトは声をあげて楽しそうに笑う。
王宮では叱られがちなやんちゃな振る舞いも、公爵家では比較的自由で、お互いに気兼ねなく過ごせたのだろう。
──そんな微笑ましい光景が、ソフィアにとってはかけがえのない幼少期の思い出だった。
アルトは優しかったし、王子でありながらソフィアの人形ごっこにいつも付き合ってくれた。
ときにはクラウディオも混ざって、三人でお菓子をつまみながらお茶会を開くこともあったのだ。
「アルト様、今日はどんなお話をして遊ぶ? 私、人形劇を考えてきたの!」
「いいよ、じゃあ僕が王子役で、ソフィアが姫役だろ? で、クラウディオの役は……?」
「え、まあ当然……雑用係?」
「お嬢様……ひどい扱いですね……はいはい、お任せください」
その日もクラウディオが苦笑しながら舞台装置を作り、ソフィアとアルトの人形劇が始まる。
お姫様と王子が繰り広げる愉快な冒険譚で、公爵夫妻や召使たちも暖かい目で見守っていた。
ソフィアはどんどんとアルトに想いを寄せ、アルトもまた、ソフィアに惹かれていたように見える。
だからあの頃は、こんなに幸せな時間が永遠に続くのだと、ソフィアは信じて疑わなかった。
* * *
しかし、楽しい日々は長くは続かなかった。
ソフィアは十歳を迎えても、その容姿がほとんど変わらない。
幼い愛らしさが残り、背丈の伸びも緩やかなままだ。
本人はあまり気にしていなかったが、周囲は密かにささやくようになった。
「公爵家の娘さん、まるで成長が止まっているみたいだ」
「肌の色も少し変わってるし、もしかして……」
誰もが“言ってはいけない真実”に勘づき始めるころ、王都で奇妙な噂が流れ始める。
隣国からの狂信的な一団が「魔女狩り」を喧伝し、人間以外の“異形”を排除せよと過激に叫びはじめたのだ。
王国の重臣の中には、それを利用して政敵を落とし入れようと画策する輩も出てきた。
アルト王子が青年へと成長していく一方で、ソフィアは十五歳になっても、その外見はまるで七、八歳程度にしか見えない。
そんな中、「フォーレンベルク家の令嬢は人間ではない」という陰湿な噂は、少しずつ王族の耳にも届くようになっていった。
まだアルト王子には相談できる──そう信じ、両親やクラウディオは密かな不安を抱えながらも、一筋の光を求めていた。
王子は優しかったし、一緒にお人形ごっこをしてくれたのだから、きっと彼女の味方になってくれる……と。
そして、悪夢のような日が訪れる。
国王の名の下に、ついに「魔女狩り」の勅令が下った。
人間ではない種族や、その血を引く者は排除の対象となる──そんなものは先進的な隣国では考えられない非道であったが、この国では盲目的にそれを信じる者たちも少なくない。
フォーレンベルク公爵夫妻は頭を抱えた。
ソフィアの耳を完全に隠し通すのはもはや不可能だ。
だが、どうにかして存続を図ろうと、王宮へ陳情に出向こうとする矢先、かつての幼馴染であるアルト王子が公爵家を訪ねてきた。
普段なら嬉しいはずの来訪に、屋敷の空気は重々しい。
青年へと成長したアルトはかつての柔和な面影とは違う、冷たい雰囲気を纏っていた。
その様子にいち早く気づいたクラウディオであったが──
「アルト様! 私……」
「っ……お嬢様!! 危険です!!」
クラウディオが引き留めるのも聞かず、自分がエルフの血を引く者であると気づきつつもあったソフィアは、咄嗟にアルトに助けを求めた。
ところが──アルトは一瞬で剣を抜き放ち、鋭い音を立てて空を裂く。
スパッ──
切り落とされたのは髪。
銀糸のようにきらめいていたソフィアの長髪の一部が宙を舞い、床に散る。
そしてその髪に隠された、人間とは似つかわしくない尖った耳。
「やはり、お前は人間ではなかったか。エルフの血を引きし魔女め……怪しいとは思っていたのだ。この何年も容姿が変わらないなど、不気味にもほどがある。おまけにあの気味の悪い人形の数々。いったい何を企んでいる?」
いつも穏やかだったアルトの面影は、そこにはもうない。
王子に特有の高貴さこそあれど、その目には冷たい憎悪が宿っていた。
右手に握られた剣を再び振り上げ、捕らえようとする。
「い、いや……アルト様……どうして……」
ソフィアは震えた声で後ずさる。
両親は王族を相手に何も言えず、オロオロとするばかり。
あるいは“フォーレンベルク公爵家としての立場”を失いたくない一心で、娘を犠牲にする決断をとれず、ただその場に立ち尽くしているようにも見えた。
「薄汚いハーフエルフが──」
「お嬢様ッ!!」
アルトが再度剣を振りかざそうとする瞬間、クラウディオが猛然とその間に割り込んだ。
すばやい動きでアルトの腕を取り、その身体を床に抑え込むと、アルトが勢いよく床を転がり、うめき声をあげる。
「ぐっ……貴様ぁッ……! 王族に手を……」
「どうして…。あなた様はあれほどまでにお嬢様を慕ってくれていたはずでは……!」
「知ったことか。どれほど容姿が美しかろうが、血は変えられん。……どけ。お前も同罪だ。死をもって償わせてやる」
「……っ……」
その瞬間、クラウディオの中で何かがプツりと切れた。
こんな血も涙もない男を、お嬢様に近づけさせたくない──と。
気づけば彼は、悪魔のような形相を浮かべながら、アルトに鉄拳を振り降ろしていた。
骨と骨がぶつかり合うような鈍い音が、公爵家に響く。
「……がッ……!?」
「……せめてあなただけは、お嬢様の味方でいてくれると少しでも信じていた私が馬鹿でした……」
アルトが息も絶え絶えに呻き、他の兵士も狼狽えている間に、クラウディオはソフィアの腕を取り、窓を叩き割る。
そしてソフィアを抱きかかえたまま屋敷を飛び出し、馬小屋へ急いだ。
そこにはクラウディオがいつでも出せるよう用意していた一頭の黒馬──いざという時のため、密かに準備していたのだ。
無能呼ばわりされても仕方ないソフィアの両親は何もできず、ただ呆然と見送るだけ。
自分の身が危ないのに気づいて、ソフィアを止めることすらできなかったのだろう。
「くっ……」
──ここにはもはやお嬢様の居場所はない。
そう感じたクラウディオは、荷物も最小限に、そしてソフィアを馬の上へすくい上げる。
ソフィアの耳はもう隠せる状態ではなかった。
揺れる銀髪の奥から覗くそれは、どう見ても“人間”のそれよりは少し長く、尖っている。
「クラウディオ……私……」
「大丈夫です、お嬢様。私があなたをお守りします」
「でも……」
「しっかり掴まっていてください──!」
あっという間に城下町を駆け抜け、数日の道のりを経て、ふたりは国境沿いの険しい山岳地帯へとたどり着いた。
馬を休める場所も限られ、道中の野営ではソフィアが泣いてばかりいたが、クラウディオはひたすら「大丈夫」と声をかけ続けた。
何とか国境警備の目をかいくぐり、隣国へ足を踏み入れると、さらに辺境の町のはずれへ向かい、そこで見つけたのは小さな屋敷。
少々古く、周囲には雑草の生い茂るガレキに近い場所だったが、クラウディオは貯めていた貯蓄を使ってそこを買い取り、住処とした。
この日から、クラウディオとソフィアの、二人だけの新生活が始まった。
* * *
落ち着いたころ、ソフィアはようやく真実を知る。
自分がほとんど“ハーフエルフ”に近い存在なのだと。
髪を切られ耳を露わにされたあの日、彼女はようやく現実を受け入れるに至った。
公爵家の血統がどうあれ、自分は“人間”とは違う──異形なのだと。
「私は……やっぱりハーフエルフなの……?」
「はい、お嬢様。公爵夫妻もご存じでした。遠い先祖にエルフがいたそうで……でもまさか、お嬢様ほど色濃く血が出るとは思っていなかったのでしょう」
「そんな……」
異国の地、屋敷内の硬い寝台に腰掛けて、ソフィアはボロボロと涙をこぼす。
両親が自分を救わなかったことへの失望もあるし、アルト王子が見せたあの冷酷な姿にも衝撃を受けていた。
何よりこれからの人生、いつまた“魔女狩り”のような災難が降りかかるかもわからない。
絶望が胸を締め付けた。
「大丈夫です。私が一緒にいます」
「でも……私は、クラウディオより何倍も生きるんでしょ? エルフってすごく長命だって……」
「そうですね。でもそれが何だというのです? お嬢様はお嬢様です。私が何年生きようと、一日でも長くお嬢様を見守りますよ。今日からはただの使用人ではなく、あなたを守る騎士にもなりましょう」
クラウディオはそう言いながら微笑み、ソフィアの頭をそっと撫でる。
幼いころからの仕草とはいえ、ソフィアが抱いていたクラウディオへの信頼は、その瞬間にいっそう深まったのかもしれない。
辺境の町といっても、そこには人の営みがちゃんとあった。
人々は貧しいながらも日銭を稼ごうと市場や田畑で働き、魔物の討伐を請け負うギルドのような施設も小さく存在していた。
クラウディオは体力があり、多少の魔法も扱える器用な男だったので、その手助けをすることで糧を得る。
降雨魔術で田畑を潤したり、あるいは危険な魔物退治の依頼も少しずつこなしていく。
だがあくまでも目立たないようにひっそりと活動し、稼いだお金で食料や生活用品を買った。
ソフィアは最初こそ塞ぎこんでいたものの、徐々に自分の特技を活かし始める。
人形作り──もとは趣味でしかなかったそれを、彼女は本格的に仕事にしようとしたのだ。
周囲にそんな工芸品を作れる者は少なく、かつて公爵家で与えられていた良質な木材や生地はもう手に入らなかったが、代わりに得意の魔法を駆使して土を柔らかくしたり、丈夫な植物の繊維を発見したりして、人形を完成させていく。
──彼女は“魔女”として恐れられることを避けたかったが、もともとその身に宿るエルフの魔力の濃さが、どうしても作品にも現れてしまう。
噂がひとり歩きしているだけで、実際にソフィアが人々を害するわけではないが、ある者は「これは凄まじい芸術品だ」と言い、また別の者は「魔女の呪いだ」と恐れた。
だが結果として、ソフィアとクラウディオの生計は、彼女の人形づくりが大きく支えてくれるようになった。
「……まるで魂でも宿ったみたいね」
「ええ。お嬢様のお人形は、まるで生きているようですよ。私は全然怖いと思いませんけどね」
「そう? ありが──」
「そんなことより、散らかした人形作りの破片くらい掃除してください! 私はもうただの使用人ではないのです! 自分のことは自分でやる! ハイ!」
「う、うるさいわね!! 私は掃除が苦手なの! 得意なことを分担しましょ!」
「いーえ! 料理も掃除も家事全般私ばかりなんですから、せめて何かはしてください!」
まるで夫婦喧嘩のような小言が飛び交う。
塞ぎ込んでいたはずのソフィアには、いつのまにか以前のような笑顔が表れていた。
月日が流れ、ソフィアが二十歳を迎えるころには、屋敷も改装し、工房兼住居として構え、比較的安定した暮らしになっていった。
しかし、公爵令嬢としての華やかさはもうない。
ソフィアはその“外見年齢”こそ十二、三くらいに見えるが、精神的にはもう大人だった。
クラウディオの前以外では、幼いころの天真爛漫な笑顔は少なくなり、どこかたおやかながら寂しさを湛えた微笑みをたまに浮かべることが多くなった。
彼女が作った“ソフィア人形”は、手足が球体関節のように滑らかに動き、微細な装飾がほどこされ、魔力を注げば、ほんの僅かだけ自分の意思で動くかのように操ることもできた。
その噂が広がり「魔女の作った人形」という名で面白がるコレクターや旅人も多くなっていった。
ただし、クラウディオの存在だけは、彼女を暗い穴から救いだす大きな支えであり続けた。
二十五歳となった彼は青年の域を過ぎ、筋肉質な背丈のある男性へと成長していた。
手狭になってきた庭を自力で拡張し始めるなど、実質的な“大黒柱”となっている。
「お嬢様、オールブルベフォームミルクハチミツティーです」
「……その名前……いい加減になんとかならないの?」
「では“クラウディオ・スペシャル”とでも呼びましょうか」
「ぷっ、何よそれ……」
ふたりきりの食卓で交わされる何気ないやり取り。
それがソフィアの心の安らぎとなった。
アルト王子への恋心? それは十代の淡い夢だったのかもしれない。
本人はもう思い出すのも嫌になるくらい──いや、忘れられないだけに苦しいのだ。
* * *
数年、そしてさらに数年。
ソフィアが実年齢で三十を超えるころ、クラウディオは三十五を過ぎていた。
彼は人間だ。白髪も増えるし、体力も落ちてきた。
ソフィアの外見はやっと“成人女性”と呼べるくらいに成熟してきたが、その変化の緩やかさから、まだ十代後半ほどにしか見えない。
ソフィアは時折、「自分は人間とはやはり違う」という事実を思い知らされるたびに、苦々しい想いを抱いていた。
だが、クラウディオは変わらず、ソフィアに対して偏見を持たず、優しかった。
その優しさが、まるで彼女の心を侵食するように埋め尽くしていることにソフィアが気づいたのは、いつ頃からだろうか。
「ねぇクラウディオ。花なんかより私をかまってよ。暇なの」
「ふふ、いけません。これでも大事な習慣なんですよ」
「クラウディオといる時間は、私にとっては限られてるの……」
「そうですね。でも、たとえ私が死んでも、この花はここに残り続ける……ずっと大切に魂込めて育ててきた薔薇ですから」
「死ぬだなんて言わないで……置いていかないで……」
ソフィアは彼の背後から抱きしめ、その細い身体を震わせる。
「好きなの、クラウディオが……」
その姿はかつての明るい少女ではない。
大人の女性の憂いを帯びていた。
「……ありがとうございます。お嬢様にそう言っていただけるのは、とても嬉しいです。でも、私は人間で、お嬢様よりはるかに短い寿命ですから……どうかお嬢様には、広い世界を見て、もっとたくさんの経験を積んでほしい。……いずれ、他の長命な男性とも出会えるかもしれません」
「嫌よ……あなただけがいい……!」
「では……私が死んだら、この庭の花たちを私だと思って大事にしてやってください」
「そ、そんなの嫌……一人ぼっちになりたくなんかない……」
「ふふ、ならば──お嬢様の人形にでも魂を乗り移らせましょうか……なんて」
冗談めかして言ったクラウディオに、ソフィアは何も言えず、ただ彼の背に額を押しあてた。背中越しに聞こえるクラウディオの心音。
いつまでもこの人と寄り添っていたい──でも、それは叶わない夢に等しい。
やがて、二十年の時が経ったある冬の日、クラウディオは病で床に就いた。
まだ五十代だったが、過酷な労働と若いころの無理がたたったのかもしれない。
その晩、ソフィアが指を絡ませながらも神に祈っていたが、その願いも空しく、クラウディオは静かに息を引き取った。
──ソフィアはその後、泣き叫ぶことさえできなかった。
ただ呆然とし、かつて彼がこよなく愛した薔薇の庭園を見つめるのみ。
人間の寿命は、こんなにも短いものなのか。
手を伸ばしても届かない場所へ、彼の魂は消えてしまった。
「ねぇ、クラウディオ……置いていかないでって言ったのに……」
ソフィアはもはや家を出ようとはしなくなった。
最期を看取ったクラウディオの亡骸を庭に埋葬し、十字架を立て、大事に手入れをしてきた。
この地に越してきてから何十年も一緒に暮らしてきた屋敷は──今やすっかり古びている。
だが、ソフィアの容姿はまだせいぜい二十代だった。
彼女は屋敷に引きこもるようになり、人形作りも以前ほど積極的にはしなくなった。
依頼があっても断りがちで、ときおり「魔女が住む」と噂される町外れの小さな屋敷の周りは、死んだように静まり返っている。
とはいえ何もしていないわけではない。
彼女はときおり思い立ったように、小さな人形をひとつ、またひとつと作り続け、まるで自分の心をそこに吐き出しているかのようだった。
ソフィアは十字架の前で一人、花の無い冬の薔薇庭園を見つめる。
彼の魂が本当にこの花に宿っているのなら……そんな妄想を抱くたび、涙がこぼれてくる。
ソフィアは寂しさに耐えかね、その低木である薔薇の枝をいくつか取り、愛した"彼"そっくりの人形を作った。
長年作り続けた人形技術は精巧で、クラウディオ人形もまた、彼女が魔力を送ると操ることができる。
「お嬢様〜、しっかり片付けなさいまったく〜」
低い声で"彼"の声を真似ながら、ソフィアはクスッと笑いながら、同時に虚しくなる。
こんなことをしても、彼はもう戻らないと何度も思いながらも、彼女は毎晩枕を濡らした。
そして、彼女の人生で一番長かった冬が過ぎ、春が訪れた。
庭にあるクラウディオの薔薇もまた、色を付け始める。
「──様……お嬢様!」
その日、ソフィアが居間の椅子でうとうとしていると、不意に聞き覚えのある声がした。
夢かと思い、はっと目を覚ませば、目の前に"いる"のは──クラウディオ人形。
まるで魔力で操った時のように、四肢をバタつかせ、ソフィアの膝の上で動いている。
ただ、一箇所だけ奇妙な点があるとすれば、人形の頭頂部に、小さなバラの花が一輪、咲いているのだ。
「え……えぇ……? 何、これ……キモっ……」
「キモいとは何ですか! せっかくこうして転生してきたというのに!」
「えぇ!? 本当にクラウディオなの?」
呆然とするソフィアに向かって、その人形はぷりぷり怒ったような声で叱責する。
まるで自分の意思で体を動いているかのように、彼女を揺さぶり起こしていた。
「どうやら私は、死んだあとに育てていたバラの木に意識が持っていかれたようでしてね。お嬢様がその木を使って人形を作ってくれたおかげで、自分の魂を移せたみたいなんです。私にも謎ですが、花が咲いた時だけ、こうして話すことも、体を動かすこともできるようになりました」
「そ、そんな……」
ソフィアは半信半疑で手を伸ばし、人形の頬に触れる。
確かに木製の感触だが、その奥からかすかに脈動するような温度すら感じる気がする。
送った魔力が起因しているのだろうか?
それとも本当に彼がかつて言ったように、魂込めて花を育てていたからこそ、クラウディオの魂が宿ったのだろうか……。
しかし、ソフィアにとって原因などどうでもよかった。
「あぁあああああ!! 私が居ない時にこんなにも散らかして……!! また人形の部品が転がってるじゃないですかぁあああ。まったく、お嬢様ったら……」
「う、うるさいわね! 口うるさいだけなら、その薔薇の花ごと全部刈っちゃうわよ!」
「うわっ、なんて酷いことを!! それだけは女神が許しても私だけは許しませんよ!!」
「何よその話し方! クラウ爺の時はもうほとんどお爺さん口調だったくせに!」
「いーじゃないですか別にィ! せっかく身体中から活力がみなぎってるんですから!!」
「「むむ……!」」
「「ふふ……」」
懐かしい痴話喧嘩のような会話をして、クスリと笑い合う。
クラウディオ人形が妙に懐かしい口調で“お嬢様”と呼ぶたびに、ソフィアの胸は締めつけられた。
寂しさと喜びが混ざり合い、自然と頬を涙が伝う。
「本当に……戻ってきてくれたの……?」
「私も最初は信じられませんでした。でも、お嬢様がこうして人形を作り、魔力を注ぎ、そして私が愛した薔薇の花が力を貸してくれた。その結果が、これなんです。正確には“生き返った”というより、一部の魂と意思が宿った状態ですかね……本当に奇跡のようですよ」
「そっか……奇跡、ね」
ソフィアは人形越しにクラウディオのぬくもりを思い出し、さっきまでの孤独が嘘のように薄らいでいく。
そう、たとえ“人形”の姿でも、こうして会話ができるのなら、どれほど救われただろう。
「お嬢様、今朝はもう飲み物は済みましたか?」
「あなた、その身体で作れるの?」
「手足は動かせますよ。何とか頑張ってみます」
「……ふふ、でも危ないんじゃない? 火傷でもしたら?」
「大丈夫です。私は人形ですから、お湯で火傷はしません!」
ソフィアは思わず吹き出しそうになった。
確かに木製の人形がやけどを気にすることもないだろう。
「私も手伝うわ。次に死ぬ時は、せめてミルクティーの作り方を教えてから死になさい」
「また物騒な……はいはい、わかりましたよ。お嬢様」
久々にソフィアの屋敷には、生き生きとした声が響き渡る。
中庭からは満開のバラが揺れ、まるで祝福するかのように爽やかな風が通り抜ける。
ひとしきりお茶を淹れ、クラウディオ人形が注いでくれたそれを啜ったとき、ソフィアは思わず涙がこぼれそうになった。
甘いミルクフォームの香り。
あのころとはまるで状況が違うはずなのに、ふたりで過ごす時間だけは、昔と同じくらい温かく感じられる。
「今度こそ、ずっと一緒にいてくれる?」
「そうですね。こうなってしまった以上、仕方ないですね。とは言っても、花がエネルギーのようですので、枯れるとどうなるかわかりませんが……」
「仕方ないって何よ。枯れて死んだらまた咲かせればいいでしょ!」
「うーん、ではしっかり花の手入れもしてくださいね。私がいないとお嬢様は孤独死してしまいますし」
「……うるさい」
ソフィアは思わず赤面しながら微笑む。
そしてクラウディオ人形もまた、目には見えないはずの感情を表情に宿しているようだった。
──こうして、ふたりの生活が再び始まる。
今度は“人形とハーフエルフ”という、どこか滑稽にさえ見える組み合わせ。
「愛しているわ。ずっと」
「ついに花を愛してくれますか!」
「…………もういい」
「今のは私が悪かったです!! あぁっ、どうか刈らないで!!」
しかし外から見れば、薔薇咲く人形が勝手に動き、屋敷の中からは言い争うような談笑が聞こえるという、まさしく“魔女の館”らしい光景である。
* * *
こうして歳月は流れ、辺境の町にはひとつの御伽噺が伝わっていく。
「町外れの“魔女の屋敷”には、生き人形がいる。毎年春になれば、庭から笑い声や小言、痴話喧嘩みたいな声が聞こえるんだって。まるで夫婦みたいに騒がしいんだ」
「本当に魔女なんだろうか。でも誰も害されたって話は聞かないし、むしろ貧しい旅人なんかにはこっそりマジックアイテムを渡して助けているって噂もあるぞ」
「え、でも見た奴が言うには、あの屋敷の庭には十字架がひとつ立ってて、魔女がしょっちゅうそこで涙を流しているらしい。気味が悪くて誰も近寄らないんだと」
何が真実で、何が誇張なのか。
もはやそれは誰にも分からない。
ただ、人々が“そういう噂”として面白がって語るのは確かだった。
もし、ある春の日──あなたが町外れの古い屋敷に迷いこんだら、きっと鮮やかなバラの庭が出迎えてくれるだろう。
そしてそっと近づけば、屋敷の奥から人形の声と若い女の声が飛び交っているのを聞くかもしれない。
「お嬢様、まったく! いつまで寝てるんです! 朝ですよ!」
「うるさいわねぇ……ミルクティーを淹れて頂戴。私、朝はアレがないとだめなの」
「まったく、やれやれ……。はいはい、お嬢様。いつもの紅茶ですね?」
「……そう、クラウディオ・スペシャル」
まるで仲のいい夫婦がじゃれあっているような、そんな愉快で不思議な光景が、そこでずっと続いている──という。
数百年が経っても、ハーフエルフの容姿はほとんど変わらない。
彼女が命尽きるときまで、“人形になった薔薇の騎士”との甘くも切ない同居生活は続くのだろう。
春にはいつも、小さな薔薇の花が咲き、ふたりの掛け合いが聞こえる。
そんな御伽噺が、この辺境の地で語り継がれるようになった。
──そして、ソフィア・フォーレンベルクとクラウディオ・ストレイシアが、どこかの季節にふたり揃って静かに消え去るその日まで。
それはまだ先の、未来の物語かもしれない。
彼女の尖った耳と、庭に咲くバラ、そして愛らしく動く人形。
その光景は、おとぎ話のように甘く、どこか切なく、永遠の時を刻み続けていくのだから。
──おしまい。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
ちなみに『クラウディオ・スペシャル』は、Sから始まる某超有名コーヒーチェーン店で注文可能ですので、よろしければどうぞ。
とってもクリーミーで寒い冬にはもってこいですよ。
頼み方は
・アールグレイティーラテ
・ブルベミルクに変更
・オールミルクに変更
・フォームミルク多め
・シロップ少なめ
・蜂蜜一周
これで再現可能です。
何!? 言うのがめんどくさい!?
ならばメモって注文時に見せるだけでOK!
そしてもしも面白い、もしくは美味しい、もしくは飲んでみたいと思って頂けましたら
下にある☆☆☆☆☆から、応援をお願い致します。