第一章
少女Aはただ、愛情が欲しかった。
2007年6月5日(火)
少女Aは登校中にも関わらず途方に暮れていた。先日の出来事の数々が、頭の中でへばりついて離れない。声に出せたのも、せいぜい「痛い」や「やめて」や「助けて」の三言であった。
帰宅後、手前に引く式の鉄だかなんだかよくわからない、灰色をした約20キログラムほど(ここでは少女Aの感覚に過ぎない)の扉を「ガチャリ」という擬音を立てて開け、虫が室内に入ってしまわぬよう早急に閉めた。靴を脱ぐ、と同時に自身の現状の姿を見るべくして目線を下した。そこには穴が開き、見るも無残な状態の衣服があり、よく目を凝らしてみると少女Aの胸辺りに引っ搔き傷が出来てしまっていた。そこには血が固まった痕跡があり、現在進行形でズキズキとした、熱い痛みを感じている。
実は中略していたが、下駄箱にも少女Aは少しばかり嫌気がさしている。それは画鋲である。
仕込んだ人物が不明であた為、中略とした。だがしかし、詳細はここで記しておくこととする。
少女Aは事件に遭った後、逃げるべくすぐさまその場を後にした。時々背後を振り向き、まだ追ってきているか、追ってきているか、まだ追ってきているか、と何度も唱え続け、居なくなってもなお警戒を怠ることなく振り向き続けた。少女Aが位置する場所は大阪であるため、街中に出てしまえば自分を探られにくいと信じ、人混みに紛れ、姿を一時的に隠した。
少女Aは裏門から校内に入り、登校時見かけた実行犯らしき人物4名がいないかを確認した。
姿が見当たらないことを確認する少女A、気を抜かず下駄箱へ小走りで向かう。鉄製の少しばかり重い、締まりの悪い小扉を引いた。
周囲女子D「ッフ、可哀想」
一人がそう囁く。
周囲男子V「おい誰か助けてやれよ」
笑いながら一人が、思ってもいないことを喚く。
他には「クスクス」や「 」が並び、下駄箱から3メートルほど離れた位置で他クラス所属の女子3名が「あれはちょっと、やりすぎじゃないかな」という同情(少女Aにとっては同情でもなんでもなく、ただの煽りに聞こえた)めいたものが空を舞っていた。
少女Aは見た、上履きの中に画鋲が入っている瞬間を、そして聞こえた、観衆の声を。
世の中というのは残酷であり、集団の犯行による事件が多く存在する。この手の事例は、少女Aが特別何かをしでかしてしまったという訳ではない、「学校」という一部の場所で、何かの拍子に、誰かが、ほんの少しの出来心と、悪ふざけが混ざり合って、仕掛け人を動かしてしまっているのだ。可哀そうな人種である。しかし、そういった行動もまた人として避けられないものである。
少女A自身が罪を犯した訳ではない。少女Aを囲う者たちが、少女Aの態度、行動、発言、動作、全てにおいて心の底に仕舞うことのできない謎の苛立ち。それこそが大罪を犯してしまった。何故巻き込まれたのかという意見はこの際もっぱら関係のないことであり、スルーせざるを得ない。少女Aは言い返すことなど、いや、言い返す気力すら湧いてこないのだ。正確には「反論の意味がない」という心境であった。状況的に考えて、圧倒的に不利な立場に立っているのは正真正銘少女A自身である。社会的にも一般的にも、本来の場合で不利なのは仕掛けた側の人間なのだが、本来あるべき常識が通用しないのが本当の社会である。
勿論、少女Aが訴えでもした場合、他生徒共が騒ぎ(一般的には【イジメ】を意味する)を起こしたことが世に広まり、少女Aへの謝罪を要求できる。
しかし、訴えを起こしたとて状況はさらに悪化するだけであると少女Aは解っていた。パターンを考えよう。この場合でも複数のパターンが存在するが、この場では一部をかいつまんで導き出すものとする。
パターンA
少女Aが訴えを起こしたことにより、上辺だけの謝罪を貰うことが出来る。また、両親からの謝罪も得られる可能性アリ。が、少女Aを囲った生徒共が、理不尽という名の怒りを再び少女Aに浴びせる場合が大多数。少女Aを囲った生徒以外の他生徒もその勢いに便乗し、少女Aの傷口は広がるばかりに。
パターンB
訴えを起こそうと教員に相談をする。教員という仕事は大層面倒や厄介ごとの連続であることから、こんなことに真面目に付き合ってられるかという謎理論を放ち、匙を投げる。そうなってしまっては少女Aの心淵はさらに悪化。結果、問題はなかったものとして揉み消されることだろう。誰一人、真相を知らずに、闇を抱えて、何事もなく生活する者共が溢れているとも知らずに。
***
上履きにはご丁寧にも粘着テープで画鋲が留められていた。
粘着テープを剥がし、画鋲を取り。
周りの雑音は無視していた。
***
古くたびれたシカク螺旋階段。隅には埃が溜まっており、色も落ちていた。階段表面(足を置く面)には所々水垢がこびり付いており、また水垢をよく目を凝らしてみると、それは何処か黒っぽかったりとした着色料が混じっていた。階段側面(目に入る日の当たらない面)には表面から零れ落ちたと思われる液体の残りがこれまた面倒くさそうに居座っていた。擦っても落ちなかったのか、そもそも清掃係の者がやろうとしなかったのか真相は不明だが、明らかに、いや、あえて言ってしまえば、「汚い」の一言で済んでしまう。実際問題このことは仕方のない事かもしれない。誰も視ないだろうという思い込みが堕落させている。そんな生産性のない一人プロローグを頭の中で繰り広げながら、一段一段、悔しさを胸に仕舞っていった。
少女Aは孤立していた。正確には相手にされていなかった。クラスメイト諸君は身近にいて、何も害のない少女Aを一人"居ない者"として扱った。勿論、話しかけようとする人物も現れていた。が、悉く交流を阻もうとする人物もいた。何故なのか、一体全体掴むことが出来ない。どうしてそう仕向ける必要があるだろうか。個人的な恨みでもあるのだとしても、全体を巻き込んでの犯行は悪事を凌駕している
少女Aは深く、深く、思った。今の今までに喜の感情を抱かせてくれた学校生活というものは、所詮上面だけであり、突如終わりを告げてくる、悪魔の様なものだ。
少女Aは被害者面をしたい訳ではない。又、少女Aは綺麗事が嫌いであった為、尚更であった。
もはや少女Aにとって、喜の存在を思わせる場所はここではない。
授業は恙なく行われる
はずもなかった。
教科書は登校時濡れ、制服はビリビリの破けた状態のまま。オマケに、律儀にも机上にはご丁寧に罵倒を目的とした言葉が、つらつらと書き連ねていた。
少女Aの瞳には涙が浮かんでいた。それと同時に、「呆れ」という二文字が脳裏に浮かんでいた。
それでも少女Aは涙を流さぬよう、必死に堪えた。この瞬間少女Aは心の底である言葉を思い出し、唱え続けた。それは、少女Aが尊敬する人物、ハートマン先任軍曹の罵倒であった。
貴様らは厳しい俺を嫌う
だが憎めば、それだけ学ぶ
俺は厳しいが公平だ
人種差別は許さん
黒豚、ユダ豚、イタ豚を、俺は見下さん
すべて平等に価値がない!
おれの使命は役立たずを刈り取ることだ 愛する海兵隊の害虫を!
分かったか ウジ虫!
この台詞は罵倒である。が、少女Aにとっては、心に響いた台詞であった。
ハートマン先任軍曹を思い出している間は、周りの人間をクズやウジ虫だと思い、気を強く保つことが出来た。