夏を待たずに
冬虫夏草。そう診断を受けたのは、ゴールデンウィーク最終日の五月五日、子供の日だった。
医師は至極平然と事務的にそう告げて、ライトスクリーンに貼られたレントゲン写真を一瞥してモニターにキーボードで一般人には分からない文言を打ち込んでいく。
医者は人と対峙していては身が持たない場合もある。ただ人間という動物を診察しているという認識の方がこの職業を長く続けられるのだろうなとどうでもいいことを考えながら、レントゲンに目を向ける。心臓の下あたりから方々に延びたカビの菌糸が蚕の繭のように伸びている。
人間ドックなど受けていなかった自分の責任かとも思ったが、まさか冬虫夏草とは思いもしなかった。
この病は遺伝ではないので、冬の間に胞子を吸い込むことで、体内で菌類、つまりキノコが芽を出して皮膚を突き破って生えたキノコは胞子を振りまく。
その為、死体は死後数時間以内に焼却しなければならない。
それ程徹底していても、根絶は基本難しいのだと、ゴールデンタイムの教養番組で流し見たのを思い出した。
もっと言えば、死の数週間前から隔離される。他者に感染が拡大するとかなり厄介なのだ。なぜなら初期症状が全くなく、調子の悪さを感じた時には菌糸が主要な臓器に届いており、それから24時間以内に死に至る。そして、レントゲンに映るようになっているということは、そういうことだ。
「防疫法に従って、国外への渡航は禁止です。あと、隔離施設への移送となりますので」
「あのー、その前に行ったん家に帰ってもいいですか?」
「防疫法で、24時間以内に死亡すると想定される冬虫夏草感染者は病院内から一般市民の生活圏への立ち入りは禁止されます。隔離施設以外への移送も法律で禁止されています」
目の前の医者はまるで弁護士のように法律の話しかしなかった。
「あのー、家族には会えませんか?」
「一般人との接触は禁止されています」
人型の機械はスピーカーを通したホワイトノイズ混じりの声で言う。医者本人は自宅からこの対人用人型機械を通して診察を行うので、罹患のリスクはない。この映画泥棒のような風体の機械の向こうの人間はどんな風貌でどんな髪型でどんな体型でどんな服装をしているだろうか、そんなことを考えながら僕は言われるがまま奥の部屋に通され、移送のための特別車両の到着まで長椅子があるだけの部屋で待たされていた。
これで高校受験も大学受験も就職活動のことも、今後の人生についても考えなくてよくなったのかと思うと、なにか解放されたような気分になった。人類に何も貢献していないのは、なんだか申し訳ない気もしないでもないが、それ程の罪悪感もなかった。死に対する恐怖はいつ湧いてくるのだろうか。両親は息子の今の状況を知ったらどう思うのだろうか。
まあ、生きたまま鞄に入れて路地裏に放置された身としては、なんとも思われないどころか、まだ生きていたのかと驚かれそうだ。
都市伝説と怪談のある意味主役になりそうだ。どうせならその親の所へ行ってそこで死んで冬虫夏草の胞子をばら撒いてやろうかとも思ったが、それで何がどうなるという訳でもないので考えるのはやめた。もっと楽しいことを考えよう。いや、こういう時こそくだらないことを考える方がいいとどこかのラジオパーソナリティーが言っていたような気がする。好きで聞いていたのに、一回もハガキを出さなかったことを少しだけ後悔した。
ふと小窓も何もないのっぺりした仄かに黄ばんだ白いドアが開いて、少女が入って来た。
彼女はペタペタとスリッパでリノリウムの床に波紋を広げるようにして歩いて来ると、僕の隣に座った。
「おねえさんも、キノコ生えるの?」
「おにいさんだよ?高校生で声変わりする予定だったんだけどね」
冗談のつもりだったのだが、自虐は行き過ぎると笑えないどころか相手に気を遣わせてしまうものだなと改めてその難しさを思い知った。少女はクスリともせず、泣き出すこともなく、つまりボーっとした表情をしていたので、なにを考えているのか分からなかった。
相手の心を読むのは難しいが、こちらから相手の心を揺さぶれば、考えさせたいことを考えさせるのは簡単だ。ボクが変なことを言えば変なやつだと思うだろう。気に障ることを言えば相手に自分へ嫌悪を向けさせることも出来る。何かをほめたり、後は同じ趣味だとでも言えば相手は大なり小なりこちらに好意を抱く。まあ、場合によっては遠ざけられるが。
「ごめんなさい、男の人だと思わなくって」
そう言いつつ、彼女は人一人分のすき間を開けて座り直した。
「まあ、以後気をつければ問題ない。失敗は取り返しはつかないから、今後に生かすしかない。同じ轍を踏まないように教訓にする以外に昇華する方法は無いんだ」
罪は消えない。償いは終わるべきではないのだ。
だからこそ、甘々な宗教に縋る。
罪を憎んで人を憎まず、である。
「今後って、もうすぐ死ぬんだよ?」
少女はそう呟いた。その頬に一筋の水滴が軌跡を描き、握った手の甲に落ちた。
「でも、今死ぬわけじゃない。このあと誰かが入ってくるかもしれない。その時にきみは今度は正しい対応が出来るわけだ」
まだ、人生は終わっていない。
少女は顔を上げて僕を見た。
「やっぱり、女の人だよね?」
「じゃあ見るかい?」
「い、いいです」
「胸の話なんだけどな……」
「セクハラですよ?」
少しだけ人間っぽい表情になった少女に、僕はスマホを取り出してレンズを向けた。シャッターを押す前にドアが開いて、天井から機械音性が部屋から出て外で待機している無人移送車に乗るようにと告げた。僕らは立ち上がって開いたドアの方へ歩き出した。
まだ、人生は終わっていない。