8. 混乱
イリーナ様から言われた言葉に驚いて動けずに固まっていると、伯爵様が心配そうに私を見ていた。
「アリーチェ嬢? どうかしたかい?」
「い……え、何でもありませ、ん……」
(今の発言はいったい……)
慌ててイリーナ様の出ていかれた扉の方を振り返るも、既にイリーナ様の姿はそこには無かった。
───エドワード様に愛されてなどいないくせに。
(どうして、イリーナ様はそんな事を……)
「……チェ」
「!」
エドワード様の声! もしかして、目が覚めた?
イリーナ様の発言も気になるけれど、私はエドワード様の事の方が心配なので急いで彼の元に駆け寄る。
「エドワード様!」
「アリーチェ……」
薄ら目を開けたエドワード様はうわ言のように私の名前を呼んでいた。
私はエドワード様の手を握り声をかける。
「大丈夫ですか?」
「ん……」
だけど、そう答えるエドワード様の顔は全く元気がない。
「どうされました?」
「……夢を……嫌な夢を見た……」
「嫌な夢ですか?」
私が訊ねると、エドワード様はどこか苦しそうで悲しい目をして言った。
「うん……アリーチェが俺から離れて行こうとする、夢……」
「え!?」
「──そんなに私の事が嫌いなら、婚約破棄して下さい! って言われた……それで俺は……」
「!!」
ガンッと頭を鈍器のようなもので殴られたような衝撃を受けた。
その言葉はまさに、あの日の──
「……アリーチェ」
握っている手にギュッと力が込められる。
「俺が、悪い……全部、悪いんだ……でも、お願いだ……もう二度とそんな言葉は口にしないでくれ。だが、俺はどうしても君を──……」
「え? エドワード様!?」
「……」
目が覚めたと思っていたけれど、まだどこか夢現だったのか。
エドワード様はそのまま再び眠りについてしまった。
(い……今のは……?)
「アリーチェ嬢、大丈夫か? エドワードも何やら叫ぶだけ叫んで再び眠ってしまったようだし、君も今日は帰って休んだ方がいい」
「いいえ。このまま、またエドワード様の目が覚めるまで手を握っていたいです」
伯爵様が心配して声をかけてくれたけれど私はそれをきっぱり断った。
(エドワード様が見たと言う“嫌な夢”は私のあの日の発言が原因)
あの時のエドワード様が何を考えていたのかは分からないけれど、もしかしたらあんな無表情をしながらも心の中では、ショックを受けていたのかもしれない……
それは都合のいい私の願望なのかもしれないけれど、そう思った。
「しかし……」
「エドワード様が再び目を覚ました時、寂しい思いをさせたくないのです」
「アリーチェ嬢」
「……」
私から折れる気配を感じられなかった伯爵様は、はぁ……とため息を吐く。
「……アリーチェ嬢は思っていたより頑固なんだな」
「私も自分自身に驚いています」
本当に。自分にこんなにも頑固な一面があるなんて知らなかった。
「エドワードの事をそんなにも想ってくれてありがとう。君が婚約者でエドワードはとても幸せ者だな」
「……」
(幸せ者……本当に?)
だけど、伯爵様のそのお礼には上手く答える事が出来ず、曖昧に微笑む事しか出来なかった。
「……んん」
「エドワード様?」
暫くしてエドワード様が再び目を覚ました。
今度は大丈夫かしら? と思いながら顔をそっと覗き込む。
「アリーチェがいる……」
「!」
エドワード様がふにゃっとした顔で力なく笑う。
本当にその笑顔はずるい。こっちの力が抜けそうよ……
「な、何ですか、それ。わ、私はここにいますよ?」
「うん……」
ぶっきらぼうな私の返しにも、頷きながら微笑みを浮かべるエドワード様。
さっきよりはだいぶ元気になったみたい。
「だって目が覚めて最初にアリーチェの顔が見られるって幸せなんだ」
「なっ!」
「あ、赤くなった! 可愛いな……」
エドワード様がとても嬉しそうに笑う。
元気になったのは良い事だけど……全くもう! と言いたくなる。
こんな笑顔を見せられると何でも許したくなってしまうのは、やっぱり惚れた弱みなのかもしれない。
だけど、これだけは聞かなくては……そう思っておそるおそる訊ねる。
「えーと、エドワード様……あの、それでですね先程、口にされていた夢、の話なのですが……」
「夢?」
エドワード様がきょとんとした顔をした。不思議そうな目で私を見ている。
(こ、これは……! ご自分の発言を覚えていないのかもしれない……)
それにあの発言はどこかおかしかった。そう。まるで一瞬、記憶が戻ったかのような……
──俺はどうしても君を……
あの続きは何だったのかしら? どうしても愛せなかった……とか?
(いえ、それだと婚約破棄なんて口にしないでくれという言葉とは合わない)
あの先の言葉がエドワード様が変わってしまった理由だったのかもしれないのに。
何か分かるかと思って訊ねたけれど、口にした本人も分かっていないのなら、これはもう聞いても駄目そうだ。それに、また異変が起きても大変だもの。
「アリーチェ? どうかした?」
私が落ち込んだ事が伝わってしまったのか、エドワード様が心配そうな表情を浮かべてそっと手を伸ばす。そして、そのまま私の頬に触れた。
「いいえ、何でもないです……」
「そう? ……ならさ、アリーチェ笑ってよ?」
「は?? えっと、な、何故です?」
謎の要求に動揺した私が変な顔をしたからか、エドワード様がふっと吹き出した。
「そんなの決まってる。俺はアリーチェの笑顔が好きなんだ」
「すっ!!」
「だから、ずっと俺の傍でその笑顔を見せてくれると……嬉しい」
「~~な、何を言っているんですか……もう!」
私が照れてしまい、ぷいっと顔を逸らすと、エドワード様はまた嬉しそうに笑って「そんな所も可愛くて好きだよ」とかなんとか言っていた。
記憶を失って、別人のようになってしまったエドワード様はこうして、これまでが嘘のように婚約者を大切にしてくれるようになった。
私は恥ずかしい気持ちもあったけれど、こんな風に過ごせる時間に幸せを感じていた。
───けれど、そのすぐ翌日の事だった。
「ふふ、こんにちは、アリーチェ様」
「イ……イリーナ、様!? ど……」
続けて、どうしてここに?
と!言ってしまいそうになり慌てて口を噤む。
「ふふふ、突然、連絡もせずに押しかけたりしてごめんなさいねぇ?」
突然やって来たイリーナ様は昨日と同じで、笑顔だけど目は全く笑っていない顔をしながらそう言った。
「……」
(これ絶対、悪いなんて欠片も思っていないわ!)
イリーナ様は本日、何の連絡も無いまま突然、私に会いたいと言って我が家を訪ねて来た。
けれど、この様子からは連絡しなかった事を全く悪いとも思っていない事が窺える。
そんなイリーナ様は私の顔を見ると、鼻で笑った。
「あなた、今日も伯爵家……エドワード様の元に向かうつもりなのでしょう?」
「……そうだとしたら、いったい何でしょうか?」
不躾に訪ねて来ていったいなんなの?
そんな気持ちでイリーナ様の顔をじっと見る。
「ふふ、さすがにこれ以上、アリーチェ様が叶わない夢を見るのも可哀想だと思いましたのよ……ですから、その事を早く教えて差し上げようと思いまして、この私がわざわざ参りましたわ。有難いでしょう? ふふふ」
「……?」
「アリーチェ様には感謝して欲しいくらいですわよ?」
イリーナ様は意味が分からない事を口にしながら、ゾッとする不敵な笑みを浮かべた。