3. 記憶喪失
「そ、それは記憶喪失、という事ですか?」
そう訊ねる自分の声が震えているのが分かる。
だって、そんなの信じられない。いや、信じたくない。
「そういう事になるんだと思う。君の事だけじゃない。家族の事も自分の事も分からない。何も思い出せないんだ」
「そんな……エドワード様……」
私が呆然としていると、横から伯爵様が頭を下げながら言った。
「エドワードは意識を取り戻して、目を覚ました時からこうだった……先に説明出来れば良かったんだが……すまない。アリーチェ嬢」
「伯爵様……」
「目を覚ましてまず、ここは何処だ、自分は誰だ、あなた達は家族ですか? そう言われた」
「お医者様は何とおっしゃっているのですか?」
伯爵様は悲しそうな顔をして首を横に振る。
「事故の際に強く頭を打った事による影響だろう、とだけ。そして記憶が戻るかは……分からないそうだ」
「……」
私がもう一度エドワード様の方を見ると彼は悲しそうに微笑んだ。
「ごめん……えぇと……?」
「アリーチェです」
エドワード様は私の名前も分からず聞かないと呼べない。
本当に記憶喪失なのだと実感させられた。
「ごめん、アリーチェ」
なんて言葉を返したらいいのか分からない。私はどうするべきなの?
(いえ。私が変な顔をしていてはダメよ。だって今、一番不安なのはエドワード様なのだから)
自分自身の事も分からず、家族の事も分からないなんて、ここに居ても今の彼には不安しかないはずよ。
「エドワード様」
「アリーチェ?」
私はそっと彼の手を握って安心して欲しくて微笑みを浮かべる。
「何か聞きたい事や、知りたい事があれば何でも聞いて下さい。私達は婚約者である前に幼馴染でもありますから」
「幼馴染……?」
「そうですよ、幼い頃からよく一緒に遊んでいましたから」
「そうなんだ……」
エドワード様が少しホッとしたように笑顔を見せた。
「っ!」
その笑顔に私の胸が高鳴る。
エドワード様が私に向かってそんな微笑みを向けてくれるなんていつ以来?
その笑顔はまだ昔……そう。
無口で無愛想で素っ気なくなる前のエドワード様を彷彿とさせた。
(そう言えば、会話も成立しているわ)
ここ最近は何を話しても「は?」とか「……」ばかりだったのに。
何だか本当に昔に戻ったみたい。
「なら、お言葉に甘えて少し昔の自分の事を聞いてみてもいいだろうか?」
「えぇ」
任せて! 最近のエドワード様の事はうまく語れないけれど、昔の事ならいくらでも語れるわ。
「その前にエドワード様は、ご自分の事はどのくらい話を聞いているのですか?」
「そこまで詳しくは。名前と家族構成と……」
「なるほど……それでは昔のヤンチャだった頃のあなたの話をしましょうか?」
「え? ヤンチャ!? 待って! いきなりそこなの?」
エドワード様がびっくりしている。
(なんてこと……感情表現までもが豊かになっているわ)
つられて私もふふっと笑ってしまう。
「黒歴史は早い内に知っておいた方がいいかと思いますよ?」
「……アリーチェ、酷い!」
「ふむ、ヤンチャな話か。アリーチェ嬢、それはぜひ私も聞いてみたい話だな」
「え、伯爵様もですか。いいですけど、後悔しませんか?」
「あぁ、しない」
何故か伯爵様まで加わろうとしている。
なぜ、そんなに興味津々なの。あなたの息子の事ですよ? と言いたい。
「えー……それでは、お話しますね? あれはまだ、私達が幼いー……」
とりあえず、エドワード様の身体に無理が無い範囲で話をしてみた。
「アリーチェ、待ってくれ」
「はい?」
これ以上長居するとエドワード様の身体に負担がかかる可能性がある為、私は話を切り上げてお暇する事になった。
そうして部屋を出て行こうとする私をエドワード様が引き止めるように声をかけた。
「どうされました?」
もしや、具合でも悪くなってしまったのかと思い慌ててエドワード様に近寄る。
先程の昔話で興奮させ過ぎた自覚もある。
なぜなら、エドワード様は昔の自分のヤンチャっぷりにショックを受けたのか「そんな事を……俺が?」と、頭を抱えていたから。
けれど、エドワード様はそんな私の心配をよそに頬を赤く染めると笑顔で言った。
「ありがとう、アリーチェ」
「?」
「君の事をすっかり忘れてしまった酷い婚約者なのにこんなに優しくしてくれて」
「え?」
思いがけない言葉をもらって思わず固まった。
「君が俺の婚約者で良かった」
「!」
エドワード様がとても嬉しそうにそんな事を言う。
それは、ずっとずっと婚約者になった時からエドワード様の口から聞きたかった言葉。
ようやく聞きたのに……! なのに私は素直に喜べない。
(違う……私、私は……そんな事言ってもらえる人間じゃない……!)
私は不満が爆発してエドワード様に婚約破棄して下さい! なんて口走っていて……
(そうだ、あの発言を否定する事も言い過ぎたと謝る事ももう出来ないんだ……)
今の記憶の無いエドワード様には何も言えない。その事を痛感する。
(それに……)
エドワード様はあの日私が帰った後、慌てて何処かに行こうとしていた。と、お父様は言っていた。
それは、私の婚約破棄発言のせいなのでは?
エドワード様が事故にあう原因を作ったのは私なのでは?
そんな私が、婚約者で良かった……なんて言ってもらえる資格はある?
そんな暗い気持ちがどんどん私の中に生まれていく。
「アリーチェ? どうかした?」
私の表情が翳った事を悟ったエドワード様が心配そうな顔で私を見つめていた。
(ダメ! 今のこの人に心配かけてはいけない!)
私は無理やり笑顔を作って答えた。
「い、いいえ! エドワード様が思っていたよりお元気で安心しただけです」
「そっか。記憶はどこかに行ってしまったけどね。でも身体は見た目程じゃないよ? この包帯も大袈裟なんだよ」
頭を打ってるのに何を言う……
「無理はなさらないで下さいね?」
「あぁ、分かってるよ。それでね、アリーチェ。もし、迷惑でなければ……なんだけど」
「はい」
エドワード様の私を見る瞳が真剣だったので、目が逸らせずに見つめ合ってしまう。
「君に時間がある時で構わないから、また話をしに来てくれると嬉しい」
「エドワード様……」
「駄目だろうか?」
「い、いえ! 駄目では無いです。私でお役に立てるなら」
私の返答にエドワード様はとても嬉しそうな笑顔を見せた。
「ありがとう! 待ってる」
そんな嬉しそうな顔をしてくれるなんて。
私の胸がキュッと痛む。
「で、では。私は本日はこれで失礼しますね。お、お大事になさってください」
「うん」
最近は、全く見る事の無かったエドワード様の笑顔に直面してしまい、動揺しながら私は帰路についた。