117 地を這う影、落ちない涙
輝かしい日々は色褪せない。褪せたとすれば、自分の目の輝きの方こそだとマーカス・ミリオは思う。
劇団長の不可解な死と二枚看板の片割れの死により、栄光を歩んだ劇団は解体となった。今では繁華街の高級バーで給仕に勤しみ、やんごとなきマダムのご機嫌取りに励んでる。口さがない者は堕ちたものと笑うが、マーカスは恥じなかった。
(俺も年食ったかな。こうして舞台を降りる時間が長くなると、つい昔を思い出す)
まだ世界へと羽ばたく以前、薄暗がりの路地裏で悪童を束ねた過去。生きる為に必死だったが、今思えば悪い思い出ではなかった。綺麗事で飢えは凌げない。だが擦り切れていく日々だからこそ、失ってはならない矜持が大事だと示した過去が、貴公子の振る舞いの血肉になったとマーカスは思う。
(さて、ショークのやつは今頃何してんのかねえ)
悪童の中にあって、マーカスの説く綺麗事に何かと唾を吐いていた男。ついぞ分かり合う事はなかったが、マーカスはショークを嫌ってはいなかった。
風の噂で騎士になったと聞いたが、果たして真偽はどうか。磨いたグラスにフッと息をかけながら、マーカスは微笑んだ。
「ミリオちゃぁん、七番テーブルご新規よん」
「了解だ、ママ」
髭面の店主からの声がけに、浸るのはここまでと最奥の席へと向かう。薄暗い店内はモダンな雰囲気に包まれており、大衆酒場と違って客の声は小さい。静謐な空気は秘匿の味を帯び、逢引場として利用される機会も多い。
だが、向かった先の七番テーブルは男女こそ揃っていても、艶めいた空気は微塵も感じられなかった。
「⋯⋯いらっしゃいませ、ご注文は?」
正確には、艶めいた空気どころか異常な気配すらあった。
男の方はグリーンのフードを深く被っており、周囲を気にしながら背を丸めている。明らかに訳ありな様子だが、この店に於いては珍しくはない。
「あー、そうだな。ブルーサワーで」
「お連れ様はどうします?」
だが問題は女性の方であった。
所々に茎葉が刺繍された真っ白な着物を身に纏い、頭をすっぽりと覆い隠せるほどの被衣を被っている格好はとてつもなく周囲から浮いている。
更に被衣から覗く漆黒の黒髪と、鼻が抜けるような美貌。唇にぽつりと添えた黒子もあって、凄まじい色気を放つ。女好きならば勿論、普通の男も立ち所にその色香に鼻下を伸ばしていただろう。
「⋯⋯お兄さんのおまかせでよろしやす」
「──は。畏まりました」
声すらも鈴が鳴るかの様に透き通る。
しかし、マーカスの食指はピタリと動かなかった。勤務中だからとかそんな生真面目な理由ではない。第六感が、この女は危険だと警鐘を鳴らしていたからだ。
こいつらに関わってはいけない。マーカスは注文を聞き終えると、直ぐ様にカウンターへと引っ込んだ。
「あらら。怖がられてしまいましたなぁ」
「お前は目立ち過ぎなんだよ。なんの為に欧都に来たのか本当に分かってんのか」
「さあ、なんでしたやろね?」
「ハァァ⋯⋯ついこの間にも面倒起こしといてこの態度。なんでこんな女と組まされなきゃならんのだ」
「大変やねぇ。でもあれは仕方あらへんやん? あの貴族の旦那さん、しつこく口説いてきはったけど⋯⋯ちっともタイプやなかったんやもん」
「お前好みの人間がそうそう居てたまるかよ。ったく、おかげで予定は狂うわ、警邏も増えるわで最悪だぜ」
「先行き不安でよろしやすなぁ」
「ちっとも良くないっ」
去ったマーカスを尻目に弾む男女の会話は、至る影に物騒さを潜ませていた。男の方は辟易しながら頭を抱えるが、女の方はからからと笑うだけ。
「⋯⋯まぁいい。一応目処は立った。明日動くぞ」
「あれま。妙案でも思い付いたんですえ?」
「今日たまたま図書館に行った時にな。使えそうなモンを見つけたんだよ」
「はて。図書館というと⋯⋯噂の天秤とかかなぁ」
「知ってたか。騎士団の連中の目を引くにはこれ以上ないだろ」
男女の逢引が齎す空気など微塵もないはずである。
異邦人たる彼らが駆け引く相手は互いにあらず。
薄暗の中で巡らせるのは、アスガルダムへの策謀だった。
「俺が騒ぎを起こす。そしたらお前の出番だ。
仕事はこなせよ⋯⋯【舐めずる影】」
「はいな。血花をたぁんと咲かせましょ」
◆ ◆ ◆
触れればきっとシンと冷たい。のっぺりとした堅い石肌に、四方を囲まれている。全てを阻むような壁は、書類や研究道具などの物で溢れていても酷く無機質に思えた。
おかげで此処に来るたび、いつも息が苦しくなる。
けれども逃げられない。研究室と名のついた其処は、リャム・ネシャーナにとっては牢獄と同義だった。
「死者の骨をダイヤモンドにする。それがNo.73の持つ効果で間違いないな、十三番よ」
「⋯⋯は、はい」
白衣の男の言葉に、リャムは青い顔で頷いた。
痩せこけた男は声色を渋めているでも、リャムを威圧してる訳でもない。しかしリャムが彼を恐れているのは明白であった。
「主任。いかにされますか?」
「ふむ。誰もが行き着く死を富とさせ、繁栄を与えるか。研究や探求にはとかく金を要する。これがあれば、我らが資金繰りに苦労することもなかろうよ」
「では、保管処置を?」
ジオーサの狂気の発端ともいえるメメント・モリの壺を抱えて、傍らに控えた同じ白衣の女が問う。死者の骨をダイヤモンドにする壺は、上手く使えば無限の富を得られる代物である。誰しもが喉から手を伸ばしてでも欲するだろう。
「いいや、不要だ」
だが白衣の男は、壺を一瞥すらせず吐き捨てた。
富を産む財宝。そんなものはあってはならぬと。
この上なき侮蔑と軽蔑でもって、この白魔獣の存在を否定する。
「『飢え』は闘争を生む。戦士を育てる。渇望し、羨望し、宿望する。飢えこそは戦士の栄養だ。探求者の必要悪だ。それを爛れた富で満たすなど持っての外、屈辱すら感じるな」
「⋯⋯」
「不愉快極まりない。よってNo.1102は破棄認定。即刻破壊を命じる⋯⋯分かったな、十三番よ」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯はい」
十三番と記号で呼ばれて、リャムは表情を曇らせながらも頷いた。
リャムは思う。メメント・モリが罪を生むとしても、この白魔獣自体に罪はないんじゃないかと。ただ亡き想いを形にするだけの願いは、不愉快なんて言葉に否定されていいはずがないと。
思えども、音には出来なかった。破壊命令に彼女は抗えない。心が悲鳴をあげようが、反する事など出来ない。
助手の女から壺を受け取り、無力な少女は背中を丸めて研究室の扉へと向かうしか無かった。
「優れた戦士は飢えなければならん。ならば、戦士を奉ずる我らもまた飢えておらねば務めは果たせん。暗く重い黎明の先にこそ、願いは灯るのだ」
追い打つ様に、陶酔の声が響く。
白衣を翻し、痩せこけた男は訥々と美学を語る。
飢えてこそ戦士。飢えてこそ探求。それが至高に繋がるのならば、それ以外に価値などないと。白衣の胸元に縫い付けた羽飾りを、壊れるほど握り締めながら語った。
「賢しくあれ、強くあれ。戦士を祈る者であれ。空へと譲った魂に、祈り絶やさぬ者であれ。さすれば黎明は明け、必ずや⋯⋯永久に朽ちず戦い続ける至高の戦士達を生み出せる。その時こそ我らが潤う時なのだ」
白衣の男の狂信は、リャムには理解が及ばない世界だ。
それでも彼女は逃げられない。
この狂った研究室は、彼女にとっての牢獄だから。
「⋯⋯ごめんね」
腕の中の白魔獣を撫でながら、リャムは涙の様な四文字を紡ぐしかなかった。
抗えない。だから壊すしかない。渇いた謝罪の言葉では、罪悪感から逃げられない。
牢獄の中の少女には、黎明もまだ遠かった。
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