116 夜の片隅で
「鋭利な刃で胸を一刺し、か」
執務室の窓から射し込む茜の光は強く、色鮮やかであっても目に優しいとは限らない。だが眩しさとは別の理由で、シドウは目を細めていた。
手に持つ書類に記載された情報は、つい数日前に起きた殺傷事件の内容についてである。シドウが一時警邏隊に戻された理由でもあるのだが、どうにも不可解であった。
「だが逃走経路が見えんな。繁華街の中でも人通りが少ない路地だったとはいえ、悲鳴を聞き直ぐに駆けつけた者も居る。しかし現場には遺体しかなく、犯人の目撃情報は無し⋯⋯か」
刺した直後、現場から霧散した殺人犯。目撃者が駆け付けるまでのタイムラグも、証言が正しければ五秒も無かった。
まるで姿形そのものを無くして見せたかのように、逃走に関する手掛かりはない。
「⋯⋯鍵は傷口か。恐らくは『刀』と呼ばれる武器が作った珍しい傷痕だが⋯⋯目撃者の所有物などの確認も済んでいるのだったな?」
「はい。念の為にその者の家宅も捜索しましたが、刀と呼ばれる物も見つからず。他にも聞き取りして調査したのですが、当日の同時刻帯にはほぼ手ぶらで酒屋に居たようですし、目撃者の男が犯行に及んだ可能性はないかと」
シドウの問いに淀みない口調で答えたのは、現警邏隊の職員である。シドウとの交友もあるのか、職員がシドウに向ける目は尊敬の輝きがあった。
「ロムト公の奥方から聞き出せた事は?」
「いえ、特にありません。最近の交友関係や恨みを買ったかどうかも尋ねてはみたのですが⋯⋯」
「知らぬ存ぜぬと」
「ええ。遺産の手続きや相続権利の確認など、こっちが聞かれる側に回りましたよ。長年連れ添った関係とありましたが、冷めたものですね」
「⋯⋯下らん感想は良い」
「失礼しました」
結局、手掛かりは遺体の殺傷痕のみ。
再犯防止を務めるものの、これでは犯人を捕まえるのは苦労しそうだと、シドウは溜め息を零した。
「それにしても、よもやシドウ殿に戻っていただけるとは」
「⋯⋯あくまで一時的な処置に過ぎない。今の私は小隊長であるからな」
「ええ。レギンレイヴですよね。例のジオーサの件も含めて、期待の新星だと街でも評判ですよ」
「期待か。手綱の効かぬお調子者が二人もいるのだ、あまり持て囃さないで欲しいものだ」
「はは。シドウ殿ですら手を焼くのですか。若さとは凄いですね」
職員の言葉に、向こう見ずなだけだとシドウは嘆息した。
手を焼くか。なるほど、確かに否定は出来ない。隊長に就いて以降、何度彼らの統率に手こずったことか。
特にヒイロ・メリファーだ。もっと利口なやりようもあろうに、こうと決めたら譲らない。妥協を知らず、自分の命すら対価に乗せて突っ走る。
知性に優れたクオリオも、妄念に囚われていたシュラも、気付けばあの男の愚直に影響されている節がある。
『追え!手が空いてるのは貴様だけだろう!』
『⋯⋯良いのか?』
『フン。貴様が"箔足らずの三行野郎"と振る舞おうが、私の部下に変わらぬ。命は下したぞ、さっさと行け』
『おう!』
その有り様は危うさの塊であった。
在りし日を思い出させるくらいに。
そして同時に、鮮烈だった。
在りし日を、思い出させてしまうくらいに。
「でも、今のシドウ殿はとても生き生きとしてる様に見えますね」
「⋯⋯フン。これは焼きが回ったというのだ」
焼かれたのは、果たして手だけだろうか。
隻眼は再び目を細め、窓の外を向く。
茜に染まった世界の奥で、太陽が眩しく光っていた。
◆ ◆ ◆
「チッ、しみったれたもんだぜ」
すっかり軽くなった財布を手に、ショーク・シャテイヤは繁華街の奥で石ころを蹴飛ばした。
酒を引っ掛けたのだろう。長っ鼻の先は赤く、足取りも少し覚束ない。酔いながらも、ショークは不機嫌の真っ只中にあった。
「⋯⋯あの賭場にゃ二度と行かねえぞ。ああ、ついてねえ。それもこれも全部あのヒイロのクソ野郎のせいだ」
負け分を慰めるには安酒では足りない。そうとばかりに持ち出したのは、忌々しい男の顔だった。
春の終わりの事件。騎士称を剥奪されたショークは今、街で小銭稼ぎをして食いつないでいた。
靴磨きに煉瓦積み、蝋練りに荷運び等の雑用をしては銭を稼ぎ、博打に望む。そして今日も負け、酒に管を巻いている。
「なにが新進気鋭だ。調子付きやがって。ヒイロのクソ野郎め、さっさと任務なり何なりでくたばっちまえ」
特に今日の酒場で聞いたヒイロの評判に、ただでさえ美味くもない安酒が一層不味くなった。冗談ではないとショークは悪態をつく。自分をこんな目に合わせてる男が、上手く運の波に乗っては評判を上げているという。
全くもって面白くない。今や顔を合わせる機会もないが、未だに名を聞くだけでむかっ腹が立って仕方なかった。
「⋯⋯おっ?」
心がマイナスに傾いてる時にこそ、人は過ちに身を乗り出す。悪しき波に幾度と身を任せて来た小男は、此度もその機会を敏感に感じ取った。
「⋯⋯へへ、良い女だぜ。何より品が良い。身なりは割と質素だが、ああいう奴ほど財布に金を蓄えてんだよなぁ」
ショークの目に飛び込んだのは、綺麗な瑠璃色の髪をした女だった。顔良し。身体良し。服に派手さは無いが清潔であり、何より歩き方を始めとした所作に品を嗅ぎ取れた。
まず一角の人物と思えない。となれば、それなりの身分を隠して繁華街に来たと見る。恐らくは貴族の夫人が、囲う燕を探したか。それとも金持ちの愛人辺りが妥当だろう。
「⋯⋯ついてるぜ」
しかも、その女は繁華街でも特に人通りの少ない路地に入ろうとしていた。夜の騒がしい繁華街では悲鳴も一環に紛らわせる事も出来る。
この機会を逃すべきではないと、ショークは後ろ手にナイフを隠して、女の後を追いかけて────酷く後悔する羽目になった。
「てっきり噂の通り魔かと思えば、とんだ小物だったわね」
「ぐ、お、お⋯⋯くそ、この俺が、こんな女相手にっ」
「こんな女とはご挨拶ね。お生憎様、貴方程度のドブ男の相手の仕方は心得てるのよ。ナイフ一本でどうにか出来ると思い上がれるほど、安くないの」
話しかけて三秒で、ショークは地に沈められていた。
それはまさに電光石火。振り向くと同時に隠しもっていた鞭をしならせ、鼻を強く打たれたのだ。
予想外の急襲に思わずたたらを踏んだ所を、脚を払われ地に転がり。更には顔一杯に撒かれた粉末を吸って、ショークは身体が麻痺してしまっていた。間違いなくビリビモスの鱗粉だろう。
「て、テメェ、どうして俺が襲うと分かった⋯⋯?」
「これでも修羅場は潜ってるの。ましてこれからもっと深くへ潜るつもりだから、備えを怠らないわ。それに貴方みたいなゴロツキの悪意、視線だけでも露骨だったし?」
要は声をかける前からこの女は備えていた。
獲物と見定めた相手はか弱き羊などではなかったのだ。あまりの早業に混乱していたショークも、ようやく自身の失態に気付いた。
「な、なにもんだよテメェ⋯⋯」
「私? そうね、今はラズリと名乗っているけど、覚えなくても結構よ。どうせ三日後には変わっているから」
「はぁ⋯⋯なんだそりゃ、訳わかんねえ」
思わず尋ねた身の上も、煙に巻かれる。
ショークの頭が困惑に支配されるが、これ以上深く聞く気も湧かない。こうもあっさり撃退されたのだ。ここ最近のうだつの上がらなさに嫌気が差していたのもあるだろう。
屈辱なのは間違いないが、それ以上に格の違いを叩き込まれた気がして、もはや抵抗する気も失せていた。
「さて、後は貴方を騎士なりに突き出すだけだけど⋯⋯」
「チッ、クソったれが。俺も焼きが回ったもんだ」
「あら。顔に似合わず潔いのね。てっきり見苦しく抵抗するかと思ったのに」
「うるせえよ。クソッ、ほんとにどこまでもついてねえ。これも全部あいつのせいだ。ヒイロの野郎、覚えとけよ畜生ッ」
「⋯⋯!」
もうどうでもいい。潔さとは異なる割り切りで、いつもの様に呟いた八つ当たり。だがどうしてか、一瞬息を呑むような音がして、ショークは思わず女を見上げる。
すると女は、何やら顎に手を当てて思考を巡らせていた。 一体なんだというのか。暴漢の沙汰などそう迷うものでもないだろうにと。
「⋯⋯ふふ。そうね。丁度手が欲しかった所だわ」
「⋯⋯⋯⋯ひっ」
怪訝そうに見上げていたショークだったが、やがて喉から引き攣ったような悲鳴が漏れた。
何故なら、女が浮かべた微笑みは、とてつもないくらいに美しく、妖しく。ひと目見た途端に、背筋が凍るくらいに嫌な予感がしたからだ。
「ラズリの名前、やっぱり覚えていただけるかしら、ゴロツキさん?」
「そ、そそ、それはどうして⋯⋯?」
「あら、決まっているじゃない」
そして悪寒めいた予感は、不運な事に現実となり。
「これから主となる相手の名前くらい、覚えてなくちゃ⋯⋯『下僕』は務まらないでしょう?」
先の見えない夜の片隅で、ショークは頭を抱える羽目となった。
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