110 昔のいつかの未来の仮初で
『大丈夫?』
ぽんと叩いた鍵盤のように、そんな音が形になった。
なんかどっかで聞いた声だなと思えば、ぼやけた光景が風景になって、声の正体がはっきりしていく。
『もう大丈夫だから』
朧気に見覚えの残った街角。
ビルの群れが作った死角。
アスファルトにナイフが転がって、傍で男がうつ伏せに伸びてて。青い顔して震える金髪少女に、そう言って手を差し伸べる。
そいつは、紛れもなく俺だった。
(ああ。これって多分、俺が死んだ時のか。あれ、いやでも⋯⋯)
でもおかしい。そんなはずない。俺は確かこうなる前に、あの気絶してる男にナイフで刺されて、それで死んだはず。
知りようないはず。じゃあ今見てるこれってなんだよ? ぼんやりした疑問が泡のようにぷつぷつ浮いて、けれど解かれず消えるだけ。
『あの⋯⋯』
そして、初めて聞いた少女の声は鈴のように軽くって。
薄ぼやけの中でも綺麗に輝く金色の髪。大粒の涙を滴らせた空色の目。綺麗過ぎて、透明な女の子だと漠然と思っていれば。
『たすけてくれて、ありがとう』
彼女が震えながらも紡いだ、聞いたはずのない言葉に。
はっ、と息が止まって。
その光景の中の俺も、同じようにピタリと固まって。
不意に。
言葉が流れ込んで来る。
──とても不思議な人でした。
感情が流れ込んで来る。
──助けてくれてありがとうって。
そう、当たり前のことを言っただけなのに──
心が流れ込んで来る。
──『どういたしまして』って。
泣きそうな顔で、彼はそう言ったんです──
想いが流れ込んで来て。
──だから、その時に思ってしまったんです。
ああ、この人ともっと一緒に居られたらって──
最後に流れ込んで来た、無垢な願いは。
『そこまでだ、御息女様から離れろ!』
(は? え?)
切り裂くような静止の声と、無機質なブレーキ音に遮られて。
気付けば周りを黒い車と黒服の群れと、黒い銃口に囲まれていた。
『ま、待って!その人は──』
『ご安心下さい。後は我々にお任せを』
『ちょ、なんだいきなりっ』
『黙れ、下衆め。王凛財閥に狼藉を働いた事、地獄で後悔するがいい』
後頭部を銃のマガジン底で殴り付けられ、視界が真っ暗になった瞬間、ホワイトノイズが鳴り響く。
(な、なんだ?)
理解が追い付かない俺の心情など、構ってくれそうになく景色は進む。
置いてけぼりさえ呑み込む暗転は、次第にモノクロの砂嵐に吹き荒らされて。まるで古いテレビのチャンネルを切り替えるかの様に、場面がパッと切り替わった。
(え⋯⋯さっきので終わり? ってか、今度はなんだよ。どこだよ此処は)
今度は全く見覚えのない町並み。
海の側にあるからきっと港町なんだろう。
辺りは夜で、場面は港に停まった船の上で二人の少女が争い合ってる。
一体どんなシーンだよと思ったりしたが、少女の片方には見覚えが。そしてもう片方には聞き覚えがあった。
『アメラ⋯⋯魔獣の癖に人間染みた名前を使うのね。虫酸が走るから、最低とか凶悪とかにでも変えてくれる?』
(あれ⋯⋯この娘、シュラじゃん)
『あはは、いいねそれ。だったらボクは今後はそう名乗ろうかな。名付け親の君も、この街もぜーんぶ滅ぼしてからさあ!』
(この声⋯⋯まさか、凶悪?)
どういう事だろ。今より少し幼い感じはするけど、あの灰銀髪と口の悪さはシュラで間違いない。でもってシュラと戦ってる金髪少女の喋り口調は、何度も聴いた凶悪の声とそっくりだった。
これも俺の記憶には無い光景だ。じゃあ今俺が見てるこれってなんなんだろう。頭を捻ってみても、答えはすんなり出てきそうになくて。
悶々としてる間に、勝負は決着がついていた。
『う、ぁ⋯⋯』
『滅ぼす? 笑わせないで。滅びるべきは魔獣の方。
必ず私が一匹残らず、お前達を滅ぼし尽くしてやる』
倒れ伏す金髪の少女と、憎しみを滲ませて見下ろすシュラ。夥しい紅が甲板に広がっていくにつれ、呻き声も静まっていく。
やがて波の音だけが辺りを包んだ頃に、剣を鞘に仕舞い、シュラが背を向けた時。
『⋯⋯死んじゃえ!』
凶悪の鋭い叫び声と共に、目一杯の紅が飛び散って。
塗りつぶされる様に広がる赤色が段々と白に変わっていき、そして。
決着を見届けられる事なく、俺の意識は薄れていった。
◆
「⋯⋯夢、か?」
気付けば、慣れ始めた天井。
呟きながら身体を起こせば、辺りは船の上なんかじゃなくいつもの騎士寮の部屋だった。
「⋯⋯夢、で良いのか?」
もう一度確かめるように呟いて、うーんと頭を捻ってみる。夢じゃないならなんだよって話かも知れないけど、普通夢って見ても俺にまつわる内容だよな。最初の奴はともかく、シュラと凶悪らしき子のガチバトルなんて俺出てきてないし。
ひょっとして予知夢? この先に起こり得る事象を主人公補正で見ちゃったとか。いやでも夢のシュラは明らかに今より若かったし、過去の出来事だって方がまだすんなり腑に落ちる。
だけど、それなら最初の夢ってなんだよ、ってなっちゃうんだよな。過去でも未来でもないし。
だってあんな場面、俺は知らない。まず状況的におかしい。俺があのナイフ男を倒したんだろうけど、俺はああなる前に男のナイフで突き刺されて死んだんだ。そしてそのままノルン様に土下座で謝られて、お詫びとしてこの世界に来た訳だし。
あの時の少女にお礼を言われて、そっから黒服と拳銃に囲まれるなんて修羅場、潜った覚えも当然なかった。
って、ちょっと待てよ。
(⋯⋯もしかして、ノルン様がミスらなかった世界線?)
俺はあの時死ぬ予定じゃなかった。つまり今この瞬間がイレギュラーの産物。そうだとしたら、あの夢は本来の『俺が生きてる世界線』って事じゃないのか。
(だとして、なんでそんな夢を今更見たんだろ)
結構、的を得てそうな仮定だけになんで今更って疑問も消えないよな。確かに本来あんな展開に陥ってたんだとしたら、その後だって気にはなる。
ましてこっちの世界に来たばかりだったら、死んだ事への未練も沸いていたかも知れない。でも今となってはって話だし、俺自身あの子を守って死んだ事に後悔はない。
だから結局、俺だけ考えたってよく分からないって結論になるしかない。なので思い切って、心当たりというか当事者に聞いてみよう。
(凶悪ー? 起きてるー?)
《なーに、マスター。ボク今寝起きで機嫌わるわるだよー》
(あ、そっちも寝てたのか。なんか変な夢見てさあ)
《うわ。ボクの過去を変な夢扱いするとかしっつれいしちゃうなあ》
(あ、ごめん⋯⋯って、あれやっぱお前の過去かよ)
《そだよ。可愛いかったでしょー?うふん》
あっさり認められたんですが。
これ結構な衝撃的事実なんですけど。
(え、でも凶悪って鉄の棒じゃん?夢の中だと人間の姿してたけど?)
《あー、あれね。あれはボクへの愛情ポイントが貯まると使えるフォームチェンジだよ》
(まじかよ愛してるぜ凶悪)
《安っぽいラブをありがとねマスター》
なにそのポイント制。なんで愛情。マジなら今日からヤスリじゃなくシルクで優しく磨きますけど。
(⋯⋯じゃあもう一個の夢の方は?)
《あの訳わかんない場所の夢? そんなのボクが知るわけないじゃん。ていうかあの特に言うとこない顔してた男、マスターの声と一緒だったけど、あれ誰?》
(だぁれが無個性面だコラァ!)
《事実じゃーん。え、あれマスターなの? あは、マスターにもフォームチェンジあるんだ。ねえねえ、何のポイント貯めたらあの素朴面になってくれるのー?》
(⋯⋯俺に優しくしてくれたら貯まんじゃね)
《ぶはっ、じゃあいーらないっ。今の顔の方が面白いしぃ、うひゃひゃひゃ⋯⋯⋯⋯ぁ、ちょっとマスター、そんなザッラザラのヤスリ持ってどうする気? いやいや待って冗談だってばそんな痛いの勘弁し────》
結果、新事実は判明したものの、結局分からない事は分からずじまい。気になる事は多々有れど分かりようもないならいっそ、木にせず日課の筋トレにでも勤しむとしよう。良し、そうと決まればと俺はベッドから飛び起きる。同室のクオリオも外出してるのか既にベッドは空みたいだし、まずはランニングからこなそうか。
服を着替えて、外へ目をやる。換気の為にクオリオが開けたんだろう。起きた時から開いていた窓の向こうでは、澄んだ青空が広がっていた。
鮮やかな群青が、誰かの目の色に重なって。
ふと脳裏に、あの夢のひとかけらが浮かぶ。
『たすけてくれて、ありがとう』
ずっとずっと、聴きたかった言葉。
それを本来の俺は貰えたって事なんだろう。
その後は色々大変な目に合ってそうだけど。
それでも正直、羨ましいって気持ちが強い。
そして、だからこそ思った。
死んでも、あの子を守れて良かったと。
「⋯⋯っし。行くかァ」
今日はいつもより調子が出そうだ。
漲る気合を一幕張って、俺は青空へと飛び出した。
『たすけてくれて、ありがとう』
(⋯⋯どういたしまして)
今はまだ想うだけの言葉。
こっちでも、いつか形にする為に。
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