108 八月の追伸
「うーん」
「⋯⋯」
「ううーん」
「⋯⋯」
「うううーん」
獅子が眠りにつき、起きたばかりの乙女の欠伸が溶けてしまいそうな晴れの日。実に不健康そうな唸り声に、ヒイロの眉がぴきりと跳ねた。
「うるせえぞクオリオ、さっきからなに唸ってんだ」
「ああいや。花屋に居るヒイロっていう絵面がね。似合わないを越えて気色悪いなと」
「喧嘩売ってんのか」
「君と花屋って組み合わせの方が世界に喧嘩売ってるよ」
「なんでただの買い物でンな事言われなきゃなんねえんだ!」
心外とばかりにヒイロは吠える。だがクオリオの感想ももっともだった。花に囲まれる悪人面という絵面は正直キツい。現に昼時を過ぎても一向に食欲が沸いてこないくらいだ。抗議したいのはクオリオの方であった。
「仕方ないだろ。ほんとに似合わないんだから」
「俺だって好きで来てんじゃねえよ。サラの奴が欲しいって言いやがるから仕方なくだなァ」
「シスコン要素も追加となれば喧嘩相手は宇宙かな」
「スケール広げんなコラ」
ヒイロとて場違いなのは承知の上である。現に妹からの頼みでなければ無縁の場所であったし、花屋など男一人で来る所ではない。だからこそクオリオを半強制的に道連れにしたのだ。
なんでそこで男を誘うんだとの言葉は無視した。このイジりもクオリオからすれば抗議の意味もあるのだろう。
「包み終わりましたよ、お客様」
「あァ、悪いな」
じゃれ合いの区切りをつける、店員からの声。
薄紙に包まれた注文通りの花の束を、ヒイロの溜め息混じりに受け取った。
やっと気が楽になる。そう肩の荷を下ろそうとした彼だったが、束とは別に手渡された一輪に「あん?」と首を傾げた。
「この薔薇は?」
「初来店のお客様へのサービスです。お似合いですよ」
「ふ、くく。ヒイロに、薔薇⋯⋯ぶはっ」
「チッ、笑ってんじゃねえクソ野郎」
眼鏡をかけた女性店員からの善意も、ヒイロからすれば仇でしかない。現に友人からしっかりとからかいの種にされている。貰った薔薇を眺める表情は、実に渋かった。
「トゲ、潰してあんのか」
「ええ」
「薔薇はトゲがあってこそな気もするがな」
「残念ながら潰された側なので」
「?」
「いいえ、お気になさらず」
変な言い回しにヒイロはどういう意味だと首を傾げる。だがすかさずクオリオから「シュラにでもあげればいいじゃないか」と囁かれ、すぐに頭の中から抜け落ちた。
「はァ? アイツ相手に渡しても意味ねえだろ。花貰って喜ぶガラか」
「ガラじゃないのは確かだけど、意味はあるだろ。むしろ意味しかないだろう」
「⋯⋯訳がわからねぇ」
余程日頃の鬱憤が溜まっていたのだろう。ここぞとばかりにニヤつくクオリオに、取り敢えずからかわれている事だけは分かったヒイロは遂に匙を投げる。
だがその選択は、彼の苦境を救う結果を招きはしない。
「あーもう良い。面倒だ。ほらよ」
「⋯⋯あら、私にですか?大胆ですね」
「いや違えよ!? 返品だ返品!」
「もう、照らなくても宜しいのに」
これもサービスの一環か。さも嬉しそうに店員は微笑む。ハーフアップにくくった瑠璃色の髪が、薔薇の紅を映えさせていた。
「テメェまでのっかんじゃねえ! あぁクソ、もうそれでいいから会計しやがれ!」
「はーい」
いつから居た堪れない扱いになりだしたのか。初対面相手にまでこれじゃあ先が思いやられる。
いっそ髭でも生やそっかなと心で泣きながら、ヒイロとクオリオは店を出た。
夏はもう半ばに差し掛かる。しばらく雨が降ってない空は、雲さえない蒼穹一面。
ありがとうございます、またのご来店を。
そんな社交辞令を背に受けながら、騎士の二人は歩き出す。
不意に通り抜けた風の匂いは、いつかの渓谷を思い出させた。
◆
強い陽射しを防ぐために手を翳す。
まばたきを少しでも減らして、去りゆく背中を見送りたかった。
「それでいいからなんて、簡単に言うものじゃないわ。やっぱり酷い男よね」
花に込められた言葉を知ってるような男じゃない。だから薔薇を贈る意味なんて分からないんだろう。
「性悪とは違うんでしょうけど。そういうの、質が悪いって言うのよ」
分からないし、知らないし、気付かない。
でも心にはきちんと触れるのだ。酷い男としか言いようがなかった。
「⋯⋯いい香り」
嗅いだ匂いに目を細めて、細い指が眼鏡を外した。
髪留めも取って、切り揃え直した瑠璃色の後ろ髪に触れる。紅色は一輪のみ。だが浮かべる微笑の艶やかさは、魔女さながらの蠱惑を連れ添った。
「愚かな魔女の復讐は、結局ただの茶番劇に終わったわ」
女は一月前へと思いを馳せる。
あの企みは殆ど阻止され、罪は暴けてもこの手で何かを奪う事は出来なかった。
「けれど。あの時、私に囁いた"闇"はきっと本物よ。どこまでも深く、悍ましい悪意だった」
結果だけみれば、復讐劇とさえ呼ぶに値しない三文芝居。
だがその舞台袖に潜む闇は、想像を絶する程に恐ろしいものだと、彼女は思う。
何故ならヒイロに生かされ故郷を発ち、アスガルダムへと身を隠してから一月の間に。
彼女は、驚愕の事実を知ったのだから。
「⋯⋯あの闇は、きっとまだ貴方達の近くに潜んでいる」
それは劇団長の悲報についてである。
彼は、この街の宿の一室で、遺体として発見されていた。
死因は毒死。ワインとは違う酒に含まれた毒物を呷り、死んだ。彼の遺体の傍には遺書が見つかり、騎士団は自殺だと公表した。
しかし。
発見された日時は、あの復讐劇が起こる『前日だった』のだ。つまり劇団ワーグナーがジオーサの街を訪れていた時には既に、ドルドは死んでいた事になる。そんな事は有り得ない。
では、ジオーサに居たあのドルド劇団長は誰だったというのか。そもそも神の毒や魔操のベルを与えたあのドルド劇団長は、本当に本人だったのか。
思えば彼が用意した『小道具』は、一介の劇団長が用意出来る代物ではない。魔術に明るくない人間にも分かるほどに、常軌を逸したマジックアイテムである。
そんな物を持つ謎の人物が、何故ドルドに成り代わっていたのか。
何の為にロゼを利用してまで、あのような惨劇を引き起こそうとしたのか。
もしかしたら、彼の狙いは最初から自分やジオーサなどではなく──。
「これからも、貴方の道には多くの苦難が待ち受けるんでしょう」
ヒイロ・メリファーは嵐の様な男だ。
どこでどんな恨みを買うか分からない。どこかとんでもない陰謀に巻き込まれてしまうかも知れない。
ひょっとしたら、既に渦中に居るのかも知れない。ならば彼の行く道は、多くの茨が根を張っているのだろう。
「貴方の嫌がらせで、私の命は救われた。でも私はそのまま客席に引っ込んで、貴方の無事を祈り続けるような性分じゃないの。だって⋯⋯『性悪女』なんですものね」
自分はあの嵐に乱されてしまった側。でもそのまま吹き飛ばされて終わるつもりはない。
クランクアップが過ぎたって、それはロゼ・スタラチュアの舞台の話。
ヒイロ・メリファーの舞台からすれば、まだほんの通過点に過ぎない。
だったら、今度は私が彼の舞台にあがるのだ。
「私の舞台をぐちゃぐちゃにしてくれたんだもの。その責任は取って貰わないとね」
新たな舞台に臨むと決めた。
例えどれほど時間がかかろうと、今度は自分があの唐変木の舞台に飛び入って、思いっ切り踊ってやると。
「魔女は死んだ。貴方のせいで。
でも私はまだ生きている。貴方のせいで。
生きて、今を想ってる。貴方の嫌がらせのおかげで」
魔女を殺したあかい火を。
女優を惑わせたわるい男を。
もうどちらも名乗れなくなったとしても。
心に灯り続ける緋色の火を、消さないで居続ける。
そんな新しい復讐を、悪女は選んだから。
「だから今度は私の番。貴方に見合えるわたしになって、必ずまた会いに行く。それが、私からの嫌がらせ」
名もなき悪女は、誓う様に囁きながら。
真紅の薔薇を優しく手折り、口付けるように花弁を齧る。
「あんなに嫌った女に、こんなにも想われるなんて。
とっても良い気味よ──三行野郎さん」
八月の追伸を都会の風は運ばない。
音はただの独白となって、蒼い空に吸い込まれる。
見送るように、見上げた女の横顔。
憎き復讐相手の顔を思い浮かべたのだろうか。
娼婦の様に妖艶に笑む頬が、少女の様に赤らんだ。
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