104 止まない鼓動
『死とは恐れるものである』
そう題すれば「何を当たり前の事を」と硬い顔を作るのが普通である。しかし『恐れるものだが、同時に知りたくもあるはずだ』と問われれば、不思議なことに「まあ確かに」と頷けてしまうのだ。
死にたくない。
でも死んでみたくはある。
そんな二律背反から「死ぬ時ってどんな感じ?」と尋ねられたら。
──穴が空いて、そっから何もかもが抜けていく。
体験者である熱海憧は、そう答えただろう。
──例えばそうだな⋯⋯丁度、今みたいな感じかな。
あっけらかんと、一言添えて。
《ねえ、捨てちゃえば?》
ただひたすらに重かった。
激痛の駆け巡る身体も。ざあざあ降る雨も。背負ってる誰かも。ぼうとふやけた頭の中も。沈んでく石の様に重かった。
響く冷めた声に何も反応を返せない。
意識は虚ろ。視線も虚ろ。瞳に光も灯らない。
《血、止まんないね。このままじゃマスター死んじゃうよ》
荒れ狂う河川から這い上がれただけでも奇跡だが、代償は重かった。
左腕は力が入らないし、腹は流木に貫かれて穴が空いて、血の帯が垂れ続けていた。
凶悪の言葉に偽りはない。本当に、このままなら遠からずに死ぬだろう。
《そんな女、さっさと捨てちゃえばいいのに》
ならば死を遠ざける為に、重荷は捨てるべきだと。
残酷で合理的な忠告も聞き入れない。むしろ抱え直す仕草すら見せる。
《あれだけ嫌い嫌いって思ってた癖に。そうまでして助けるなんて。ほんと意味分かんない》
凶悪には理解出来なかった。
自分の主は間違いなくこの女を嫌っていたはずだ。なのにそんな相手を助ける為に身を危険に晒し、今こうして死にかけている。
訳が分からない。気味が悪かった。
この女を嫌った理由も。それでも助けた理由も。
分からない事自体に、歯痒さを覚えている自分にも。
そんな従具の苛立ちを、されど主は汲み取ることなく。
老いた犬のように片足を引き摺りながら、深い森の中を歩いていく。
《⋯⋯⋯⋯⋯⋯ハァ⋯⋯》
捨ててしまえばいいのに捨てない。
それが"自分にも当てはまってしまう事"に気付かないまま、凶悪は深く溜め息をついた。
◆ ◆
罰だと思ったの。
人生の幕が降りるときに、こんな優しい思い出を見ているから。
『ねえママ。お父さんってどんな人だった?』
暖炉の薪火を見つめながら聞いたのは、居ない人の事を聞くのがなんとなく後ろめたかったから。
『そうね⋯⋯大きくて、暖かい人だったわ』
『格好良かったとか、お金持ちだったとかじゃないの?』
『私にとっては素敵で、心を豊かにしてくれる人だったわ』
『ふーん。物は言いようってやつだね』
『あらこの娘ったら』
暖炉の炎が笑う様に揺れたから、ママがどんな顔をしているのかも分かった。
きっと本当に幸せだったんだだろう。
少し羨ましくて、少し寂しかった。
『⋯⋯私も、会ってみたかった』
『パパは貴方の傍に居るわよ』
『そばに?』
『ええ。可愛い可愛いロゼの事を、今も守ってくれてるわ』
『守るって、どういう風に?』
優しい嘘だって分かっていた。
だからつい意地悪を重ねた私は、きっと可愛くなんてないんだろう。
それでもママは、いつも子守歌が上手だったから。
『ん?そうね⋯⋯こんな風に、ギュッて』
『わっ』
抱き締められて、安心したのを覚えている。
なにもかもが燃える前のこと。触れば割れるくらいに脆い泡沫。
記憶の底に閉じ込めて綺麗な世界に逃げた私なんかが、今更見て良い想い出じゃないのに。
だからほら、ママも私も優しい過去も。
降りる幕に隠されるように、黒い水面に薄れていく。
きっと最後の夢のあと。全てが終わりに包まれて。
それから私もいなくなる。
そう、思っていたのに。
もう、幕が上がることはないはずなのに。
────、⋯⋯なんの、おと?
トクン、トクンと響く鼓動が。
身体を包む静かな暖かさが。
もう一度、私の瞼を開かせた。
◆
目覚めたロゼの第一声は、困惑のあまり形にならなかった。
「?」
目の前に硬い胸板があった。妙に暗い視界でも男の物だとひと目で分かる。そのまま視線を上へとずらせば、眠っている男の顔。目を凝らしてみれば、ヒイロだった。
「え」
抱かれている。ヒイロに。
右腕で胸元まで引き寄せられたのだろう。身体中は痛むのに、首を動かす分には苦になっていない。ならあの鼓動は彼のものだったという事か。
しかも何故か彼は上半身が裸であった。なるほど遮るものがないからか、夢まで良く届いた訳である。
ちなみにロゼも下着姿と、ほぼ裸であった。なるほど鼓動の伝達に説得力が増すものである。
いや、違う。
そうではない。そうではなくて。
「!?」
急速に意識を浮上させたロゼは、慌ててその場を飛び退いた。心臓も忙しく飛び跳ねている。
当然である。目覚めれば敵だった男と殆ど裸で抱き合っていたのだ。パニックに陥っても仕方ない。
ロゼも内心では散々に騒いだものだが、それでも彼女は敷かれていた布類を手繰り寄せながら周りを見渡した。
「⋯⋯洞窟?」
暗闇に慣れてきた目が、それとなく辺りの形を認識させる。
寝ていた場所とは小さく狭い洞窟であった。ひんやりとした空気にじとりとした湿気。つらら石を這う水滴が落ちれば一層確信を促したのだろうが、それは外から響く雨音に掻き消された。
「⋯⋯⋯⋯私、どうして生きてるの」
最後の記憶は、抱き締められたままに谷底へと落ちる光景。ならばそのまま河に流された後、誰かに救出されたのか、或いは。
「⋯⋯」
洞窟に二人しか居ない以上、恐らくヒイロに助けられたのだろう。雨風を凌げる場所として此処まで運ばれたとすれば、分からない話でもない。
服が脱がされていた理由についても、多分、身体を暖める為だろう。渇かすように岩盤にかけられたドレスを見て、ロゼは静かに目を伏せた。"そういう目的"だったと考えるには、ヒイロは特有の湿気がどうにも似合わない男だった。
「⋯⋯助けられたのね」
手繰り寄せた布は、ヒイロの騎士服である。岩肌に直接寝かせないようにと敷いてくれてたのだろう。
数秒の思巡の後、ロゼは騎士服を羽織った。渇き途中の感じが少し気持ち悪い。けれどいくら意識がなくとも男が居るのだ。このまま裸になるのは避けたかった。
「⋯⋯」
言葉を発さぬままに、ロゼはヒイロの傍らへと座り込んだ。闇に慣れた目には、ヒイロの身体に浮かぶいくつもの傷が浮かんでいる。
河の流れに抗った証だろう。左腕も肩から外れたように脱力している。暗闇では誤魔化せないくらいにボロボロだ。
でもロゼの方は身体が痛みはすれど、大した怪我は負っていない。その事実に、彼女は下唇を噛むしかなかった。
「騎士の癖に⋯⋯」
積み上がりすぎて、壊してしまいたくなる。
全てを壊された男に、命を賭してまで救われる。
震える肩を止めるために、ロゼは自分を抱き締めた。
心がどうにかなりそうで、どうにもならない。
どうしていいかも分からない。
「⋯⋯魔女は人間になんか討たれない」
迷子の様な少女の貌が、ヒイロの奥に立て掛けられたものを不意に見つけた。
一本の剣だった。あしらいからして、騎士団が身に付けている装備なのだろう。
それに手を伸ばして触れた時、肩の震えが止まった。
「⋯⋯魔女を討って良いは騎士だけなのに」
導かれるように、鞘から抜き放つ。
ヒイロが腰にひっかけたままついぞ使わなかった騎士剣。その切っ先をロゼは静かに、ヒイロの喉元へとあてがう。
「なのに⋯⋯どうして、貴方は私を助けたのよ⋯⋯」
肩の代わりに、声が震えた。
瞼が震えて、落ちる雫も止められない。
魔女は居なかったのではない。
居たのだ。そして殺された。
「どうして、ってなァ。理由なんて一つしかねえよ」
たった一人の人間に、魔女は屈したのだ。
「たすけて、って。お前が言ったからだろうが」
呆れ顔で涙を受け止める、たった一人の人間に。
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