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くだんのけん  作者: 佐倉夕日
四日前
8/11

弟ノ二 皐月さんのあれやこれ

 昼休み。写真部の部室こと、旧一年E組の教室には、僕、真弓、皐月さんの三人が集まっていた。「作戦会議、開きます!」という真弓の提案だった。僕と皐月さんはお弁当持参だったけれど、真弓はコンビニで買ってきたというパンに噛りついている。


「朝ご飯作らされてるんなら、ついでにお弁当くらい作ればいいのに」


 僕の知る限り、真弓がお弁当を持ってきたことはない。今日のようにパンを買ってくるのも珍しい方で、だいたい僕や佐鳥にたかってくる。ハイエナの称号を与えよう。


「ついでにって言うけどね、鈴鹿君」チョココロネの尻尾で僕を指し示しながら、真弓が答える。「あのお屋敷で食べてるものが、どれだけ高級だと思う? それで手の込んだおかず作らされて、それから家に帰ってお弁当作る気力なんかないってば」

「へえ。でも、真弓ならその高級食材をくすねるくらいやってそうだけど――ぐはっ!」


 おもいっきり脇腹を手刀で突かれた。そこだけは弱いんだって……。


「あたしはそんな悪心は持ち合わせていない。っていうかバレたら殺されるってーの」

「殺されるって……そんな大げさな」


 呼吸困難に陥りながらもそう言おうと思ったが、言葉にならなかった。今は僕が殺されかけている。


「ねえ、ところで佐鳥君は?」


 それまで黙々とお弁当を摂取していた皐月さんが口を開いた。きょろきょろと辺りを見回すジェスチャーがかわいらしい。


「佐鳥はお弁当忘れて食堂」

「ほう! さとさとは地獄の食堂送りとな? かわいそうに。お弁当を分けてくれる、心優しい親友はいったい何をやっているのか!」


 大げさな身振りで真弓が嘆いて見せる。皐月さんのジェスチャーと比べて、演技がわざとらしい。


「真弓の昼ご飯がないと困ると思ったから、佐鳥には致し方なく戦場に赴いてもらったんだよ。……その必要はなかったけどね」

「……ん? それは遠まわしにあたしのせいだと言いたいのかい?」

 遠まわしのつもりはないけれど、「その通り」

「鈴鹿君の態度は気に入らないけど、確かにあたしにも責任の一端があるようだね。よし、ここは一つ応援に行ってやろう」


 言うや否や真弓は椅子から立ち上がり、規則正しく並んだ机の群れを、華麗なフットワークでかわしながら教室を出て行った。応援って、何するんだ?


「元気だな、あいつ」

「……作戦会議」皐月さんがそっと口を開く。「どうする? 二人でする?」


 教室には僕たち二人が残された。二人っきり――皐月さんと二人っきり。心躍るような感覚に陥った、が、次の瞬間――


 ざわっと、心の中をざらつく何かで撫でられたような、悪寒が走った。嬉しいような、煩わしいような不思議な感覚が心を覆う。



 小さい頃から一緒だった真弓、佐鳥と違って、皐月さんとは高校に入ってから知り合った。クラスは僕や佐鳥と同じB組。ちなみに真弓はA組。


 はじめて意識しながら彼女を見たのはクラスでの自己紹介のときだった。


「皐月永華です。夢は空を飛ぶことです」


 いっさいの感情を感じさせない声色の、その一言で、僕は彼女に釘付けになった。とっさに思った言葉が口から滑り出した。


「生身で?」

「生身で」即答。


 バカだ。バカだと思った。高校一年生にもなって、何を寝言を言ってるんだろう。


 けれども、彼女の目は真剣そのものだった。その瞳は僕の心の奥の何かを強く刺激した。


 少年の心だとか、忘れてしまった思いだとか、多分そんなもの。僕が人生において不要と判断し、切り離したもの。……いや、切り離さずにはいられなかったものか。


「ちなみに、特技は高い所から降りること。受身も完璧」


 僕を見つめたまま、皐月さんは電波を撒き散らしながら自己紹介を続ける。


 高い所から跳べば宙に浮くとでも思ったのか? 重力の存在を……いや、もっと根本的な、現実を認めるべきだ。かわいそうに、頭の弱い子なんだろう。僕は思わず目をそらした。


「得意な科目は理科、特に科学は大好き。苦手科目は特にないけど、強いて挙げれば体育」


 体育苦手なのかよ! なんだこのどんでん返し。矛盾だらけの自己紹介は……。


 ああ……そうか、つまりこれがいわゆる、不思議ちゃんというやつか。


 以来、僕はこの不可思議な女の子が気になって仕方がなくなった。実在したリアル不思議ちゃんに、僕の好奇心は刺激され続け、ついには皐月さん観察生活がはじまるに至った。


 勉強ができなくもない。常識も持ち合わせている。やっぱり感情の起伏は薄いけれど、コミュニケーションが苦手なわけでもない。なのに、どうして自己紹介であんなことが言えるんだろう? ウケ狙いの冗談とも思えなかった。あんな真剣な瞳で、初対面の僕の目を見つめながら言える台詞じゃない。


 数日続いた観察生活も特に成果が得られず、放課後に後をつけてみようかと危ない考えさえ抱きはじめた頃、このままではダメだと、ある日の昼休み、僕は思い切って彼女に声をかけてみることにした。


「やあ、皐月さん。君って馬鹿なの?」「空を飛ぶって、本気で思ってるの?」「ひょっとして小さいころに頭とか打った?」「精神科への通院歴は?」


 ……ダメだ。いきなりこんなことを言われたら、いくらなんでも怒るだろう。


 まして彼女は常識のある不思議ちゃんだ。きっと常識に則って、全面対決の構図が完成するに違いない。目的は例の発言の真意を確かめることだけれど、それで嫌われたんじゃ、目的達成は困難を極める。僕は彼女にこんなに好意を寄せているのに、嫌われるのはとても悲しい。けれども、不器用な僕は、こんなときどうやって声をかければいいのか、全く思い至らなかった。そうだ、こんなときは――


 僕は教室の窓からグラウンドを眺めていた佐鳥に視線を送った。僕の熱視線にビクリと体を震わせると、佐鳥は頭を掻いてそのまま皐月さんの席へ向かった。そして、


「やあ、皐月さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」

「なに? ええと……佐鳥君だっけ?」小首をかしげる。かわいい。


 佐鳥は昔から僕の考えていることがわかっているみたいに行動することがあった。さすが、幼馴染の成せる業だ。今回はそいつを逆利用させていただこう。今日までの僕の行動から、僕が抱える皐月さんへの思いは伝わっているだろう。


「自己紹介のときのことだけど、夢は空を飛ぶことだとか……」

「うん。そう」

「本気?」

「当然」


 佐鳥はそこで僕に視線をよこして、勘弁してくれという目をした。却下。僕は二回首を横に振る。「しょうがないな……じゃあ言わせてもらうけど――」

「ん?」

「君って馬鹿なの? 頭でも打った? 精神科への――って、うおっ!」


 僕の言いたいことを代弁してくれていた佐鳥が、突然妙な声を上げて後退った。僕に恨めしいような目を向ける。


 なんだよ……って、ああ、そっちの反応か。ひょっとしたら、殴られるくらいのことは覚悟の上で、佐鳥を向かわせたんだけど……。


 皐月さんは泣いていた。


小さな肩を震わせて、声こそ発しはしないけれど、彼女の目にはきらきらした雫が溜まっていた。やがて溢れた涙が頬を伝った。しかし、奇妙だったのは、当の皐月さん本人が、何が起こったのか分からないというような顔をしていたことだ。


「あれ、わたし、泣いてる?」


 僕は思わず席を立ち、二人のもとへ駆け寄った。



「……あの、皐月さんはさぁ……」


 作戦会議なんてしてる場合じゃない。こんなチャンスはめったにないぞ。話したいことが山ほどあるんだ。


「なんで写真部に入ろうと思ったの? 皐月さん以外はみんな昔馴染みで、溶け込みにくいとは思わなかった?」

「うん? なんでだろ? 他に入りたい部活があったわけじゃない。強いて言えば――」抑揚を欠いた声で、ごく自然に、「君がいたから」


 目と目が合う。


「え? あ、うう……」


 全くの予想外の答えに、うろたえずにはいられなかった。僕がいたから? 今までそんなそぶり、一度でも見せた?


「わたし、泣いてたじゃない? 佐鳥君にはじめて話しかけられたとき。あのとき、どう思った?」

「いや、あのときは……とにかく謝らなくちゃって……」


 佐鳥があのとき放った言葉は、僕が皐月さんに言いたかったことそのままだった。責任の一端は僕にある……いや、全てか、この場合。


「そう。いきなりわたしと佐鳥君の間に割って入って、こいつが言ったことはホントは僕が言ったんですって。意味不明」


 全然記憶に残っていなかった。


 確かあのときは、佐鳥に身代わりとして皐月さんに嫌われてもらって、情報を得るつもりだった。僕が出ていっちゃダメじゃないか? 気が動転して思わず、って感じだったか。


「だけど君と佐鳥君が、自分に興味を持ってくれてるんだってことは分かった。わたしは自分の信念は意地でも貫きたいタイプだから。自己紹介でわたしが言ったことは本心からだし、それが他人にどういう印象を与えるかってことも分かってる。それでもわたしは、いつか空を飛べると信じてる」


 冷めた口調で妙に情熱的なことを言う。そういうことは心の中にしまっておくべきだ。わざわざ自己紹介の場で、「自分は変な人間です」なんてアピールする必要はない。


「だからわたしには、友達がいない。ずっといない。こいつには関わらないほうがいいって雰囲気が出てるのは自分でも分かってた。いじめすらなかった。あ、ちなみにあの時泣いたのは、多分、話しかけられたのが単純に嬉しかったから。だから気にしなくていい」

「多分ってなにさ」


 重い話の中で、そのもの言いに思わず笑みが漏れた。


 気にしていないといえば嘘になる。あのときは心が締めつけられるような罪悪感でいっぱいだった。この子を傷つけたくないと、心から脳に信号が送られたような感覚で。


「こんな自分の欠陥も含めて、全てを理解した上で、興味を持ってくれる人が必ずいると信じてた。馬鹿な話だけど。そしたら――」そこで皐月さんはこれまで見せたことのないとびっきりの笑顔で、「そしたら君たちが現れた。それがわたしが写真部にいる理由。何か不満な点は? 能無し部長さん」


 ちょっとばかり真弓に毒されちゃってるけど……まあいいか、かわいいし。そんな笑顔を見せられて、そんなことを言われて、僕の心はキュンキュンとベタな音を響かせる。


 だけど、同時に、警告音が鳴り響いていることに僕は気が付く。エマージェンシー。耳の奥が痛い。


 ――そう、皐月さんはかわいい。だけど、残念なことに彼女は彼女自身のことを全て理解してはいない。


 長めの自然な黒髪を後ろで一つに纏めている。所謂、ポニーテールというやつだ。少し癖っ毛なのは御愛嬌か。背は僕の肩くらいで、女の子の中でも小さいほうだろうか。制服は学校指定の着用方法で、スカート丈は膝の下きっちり。余計な装飾品もしていない。話す声は無表情だけど落ち着いていて、やや高めの癒し系。


 まったくもって、僕の好みのタイプの女の子。でも、ただ一点――


「じゃあ、もし佐鳥が他の部活に入ったらどうしたの?」

「それは困る。佐鳥君か君か、どっちかってことだよね……。どっちにも入らないという手もあるけど、やっぱりわたしは写真部に入ったと思う。なんてったって君がいるから」


 僕が皐月さんを受け入れきれない致命的な一点がある。今の僕はたいそうにやけた顔をしていることだろう。


 ――ダメだ。いつもこういうときに限って……。


 急に背筋がぞくりとした。昔、稽古の後、暗い静かな道場で、不意に誰かに見られている気がすることがあった。今はもう、夜中の道場に入ることはほとんどないけれど、はっきりと思い出す、恐怖とも違う、あの感じ……。


 エマージェンシー――エマージェンシー――


 アラートがいっそう強く脳内に響き渡る。黒くて、虚ろな、何者かの迫る気配。


 ――ふと室内の空気が変わった気がした。


「くく……くくくっ……」こんなとき――


「なんともだらしない顔じゃのう。そんなにわしが愛しいか?」


 決まってあいつがやって来るんだ。



 家に帰るといつものように、すでに道場には兄の姿があった。部活に入ってないんだから帰りが早いのは当然だけど、寄り道したりもしないんだろうか?


 うちの道場主という立場は、普通の高校生活を許さないほど、重視されるものらしい。


 朝早く起きて、学校に間に合うギリギリまで素振りをし、放課後は一目散に帰宅。子供たちを相手に剣道の稽古をつける。日が暮れる頃、剣道教室が終わって生徒が帰った後、夕食をとって、それからまた道場へ向かう……。兄が制服と道着以外の服を着ている姿なんて、ここ最近、見た覚えがない。とても充実した青春を送っているとは思えなかった。


 それでも今日の僕は兄に迷惑を強いる。


「兄貴、ちょっと稽古に付き合ってよ」

「なんだ急に、剣術はやめたんじゃなかったのか? カメラはもう飽きたのか?」


 カメラ……。


 そういえば部活の相談は結局何の進展もなかったな。あの後、皐月さんと一悶着起こして、結果、僕が言い負かされる形になったんだ。このなんともしがたいもどかしさ。好きなのに、好きになれないやるせなさ。どこかにはけ口が必要だった。


「今日はちょっと暴れたい気分なんだよ……」

「手加減してくれよ、この間は肋骨を折られたばっかりなんだから。竹刀でいいか?」


 僕は無言で竹刀を右手で握った。制服姿のままだったけど、気にしない。兄に向き合って、膝をやや深めに曲げて片手で下段に構える。下から兄を睨み付けた。兄は僕の視線を外すように一歩下がって、まっすぐ正眼に構えた。


「本気出さないつもり?」兄の余裕の浮き出た構えに苛立ちを覚えた。

「憂さ晴らしの相手なら、こちらから攻める必要は無い。俺は防御に徹するから、好きなだけ打ってこい」


 僕の胸中なんてお見通しってことか……相変わらず人の弱みを抉るのが得意な兄だ。まあ、お互い様ではあるんだけど、兄の場合は無意識だから質が悪い。


 深く一呼吸して、一歩で間合いを詰めた。一拍遅いタイミングで兄も下がる。僕の方が早い。跳び退った兄の軸足に狙いを定めて、勢いに任せて打ち込む。捕らえたかと思った瞬間、パシン! 上方から竹刀を弾かれた。這いつくばるような姿勢から、後ろに跳び退く。兄は追って来なかった。間合いができる。


「ほんとに攻めて来ないんだね。あそこは竹刀じゃなくて僕の脳天を狙うところだよ」

「それでもお前はかわすだろ?」

「さあね」


 どうやら、本気で僕の仕掛けを受け続けるつもりらしい。じりじりと時計回りに周囲を回る。兄はじっと僕の動きを眼と身体で追ってくる。ちょうど反対側に回り込んだところで、「ハッ!」と一声発し、しかし一拍ずらして切り込んでみた。兄はタイミングが合っていないのか、教科書どおりの構えから少し下方に竹刀を構えていた。それを見て斜め前方から仕掛ける形をとった。兄は素早く反応したけれど、ずれた姿勢のおかげで動きが悪い。脇腹に一撃できるけど、どうする? 今の兄は隙だらけだ。ここからうまく致命的な一撃に展開できないだろうか? ――と、考える隙に兄は体制を立て直していた。まずい、と思ったけれど、止まれない。


 兄の竹刀が鳴いて、パシリと僕の竹刀を弾く。兄の姿が視界から消え、残像に体当たりするように派手に転んだ。とっさに出した左腕で受け身をとろうとしたけれど、無理だった。露出した顔面の肌と床板が擦れて痛い。


「やっぱりハンデが大きすぎる。胴着に着替えろ」余裕の浮き出た口調。


 なんだその上から目線。僕より本当は弱いくせに……。


 兄の態度にだんだんイラついてきた。「うるさいな、いいんだよこのままで」


 左腕がうずうず疼きだした。さっきの受け身の衝撃で、眠っていた獣が目覚めたように、自分の存在をアピールしている。


「そもそも片手しか使えないお前に、俺は遅れをとるつもりはない」


 嫌味にしか聞こえなかった。


「使えるものなら使ってやるさ。僕が左手を使ったら、兄貴、どうなるか分かるよね?」自然と刺々しい口調になる。「だいたい、なんで僕より弱い兄貴が家を継ぐんだよ! この左腕が悪いの? 望んでこんな腕になったわけじゃない!」

「俺はこの家の長男だ。家を継ぐのは当然だろ」

「そのためには大好きなカメラさえ捨てるんだね。僕がこんなふうにならなければ、僕が家を継いで、兄貴はカメラをやめずに済んだかもしれないのに……」


 僕が剣を、兄がカメラを、それが理想の形だった。変わるはずがないと思っていた。それなのに……。


 その後は無言で兄に挑み続けた。肩が、肘が、指の一本一本が、右腕のあらゆる関節が悲鳴を上げていたけれど、それでもなお、僕は頑なに片腕で竹刀を振るい続けた。



 ――数時間後、気が付くと、道場の木製窓からは金色の月明かりが強烈に差し込んできていた。その光を見ていると、身体と頭から力が抜けて、僕は堅い板張りの床に仰向けに倒れた。兄が近づいてくる気配がする。


 もういいや、ギブアップ。僕が力なく手を振ると、兄は僕の右隣に腰を落ち着かせた。


「で、結局なんの相談だ?」


 はあ、やっぱりお見通しってか……。


 僕は観念して、兄にここ最近のいかんともしがたい問題を打ち明けることにした。


「兄貴はさ、都市伝説とか妖怪とかについてどう思う? やっぱりあると思う?」


 突拍子もない質問だと思ったけれど、兄は動じることなく答えた。


「なんだ? 佐鳥の話か? 確かに俺も、あいつには人の考えてることが分かるんじゃないかと疑うことがある。やっぱりあれは超能力なのか……」


 顎に手をやり、真剣に呟く兄。


「あれはそんな大層なものじゃないよ。佐鳥は人をよく見てるんだ。それで人の行動とか、言動なんかから、考えてることを予想できるんだって。本人が言ってたよ」

「ほおん。それなら……」


 兄の視線が僕の左腕に移った。先手を打っておくことにする。


「ちなみに僕の左腕は関係ないから」


 そう言ったとたん、兄の表情が曇る。


「そうか……それなら、なんだ? お化けでも見たってのか?」

「いやいや。つまり、二重人格なんだよ、問題は」


 …………少し間が。


「……ほう。お前が二重人格だとは気が付かなかったな」


 ……まじめに聞く気、あるのか?


「僕のことじゃないよ……って、兄弟ならそれくらい分かるでしょ?」

「ああ、分かる。冗談だ」続きをどうぞと促すように、顎をしゃくる。

「兄貴はさぁ、お化けとか信じるタイプ?」

「話が戻ってるぞ。問題は二重人格じゃなかったのか?」

「そうなんだけど、とりあえず答えてよ。兄貴の回答次第で、僕の今後の人生観が変わると言っても過言ではないんだよ」


 ちょっと大げさだけど、兄の興味を引くために、必要最低限の切迫さを込めて言ってみた。すると兄は少しだけ真剣な表情になって腕を組んだ。どうやら効果はあったらしい。


「むぅん……俺はそんなことあまり考えたことないけどな。でも、お化けはどうか知らないが、幽霊だとか霊魂なんかはありだと思うぞ。お化けってのはつまり妖怪だろう? 古い柄杓に魂が宿って――なんてのはばかばかしいけど、幽霊ってのはもともと人間で、生きている間には確かに魂があったわけだからな」

「幽霊はあり……か」


 なしと言って欲しかった。


「それより、二重人格はどうしたんだ?」


 そうだった。兄の意見を聞いて、どこまで話したものか迷ったけれど、ここまで話したんだ。結局全部話すことにした。


「もし……もしもだけど、好きな女の子が二重人格だったらどうする?」

「……なに?」

「で、その二人目の人格が自分は幽霊だって言うんだよ。憑きものだって。兄貴の意見を聞く限り、ありえるのかなとは思うんだけど、やっぱり僕はそんなの信じられないよ。二重人格だってのも、最初は信じられなかったのに、その上自分は幽霊だって言うんだもん。さすがの僕も引いちゃったよ……。元々変わった子で、ある程度電波なのは受け入れられるけど、こればっかりはどうもね……」


 そこまで一息に言って、一呼吸。兄の様子を窺う。兄はぽかんと口を開けたまま、僕の目を見つめていた。なに? その顔。


「お前……」

「ん?」

「お前、好きな子なんていたのか! 俺に黙って!」


 しまった。切実すぎて、恋もできない兄貴の気持ちを考えるのを忘れていた。……ん? 待てよ、その前に一言、


「つっこむとこ、そこじゃないでしょ」

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