兄ノ一 一目惚れははじめてで
「あの……よろしいでしょうか?」
夕暮れ時、門下生が皆帰った道場で、一人木刀を振るっていたとき、彼女は尋ねてきた。
「こちらは剣術を教えていらっしゃる道場ですよね?」
いかにもその通り。振り返ると、十五、六ほどの歳の女が入り口の前で深々と頭を下げながら立っていた。
「女の来るところではありませんよ」そう言うと彼女は顔を上げ、
「存じております。しかし急を要します。どうか私に剣術を仕込んでいただけませんか?」と真面目な顔で答えた。
一目見て、綺麗な娘だなと思った。背丈はやや低く、一見してまだ幼い少女のようにも見えたが、凛々しい顔つきと、憂いを湛えた瞳とが、幼さを覆い隠し、また少女らしからぬ立ち居振る舞いが、より一層大人びた印象に錯覚させる。
「急を要すると言われても、剣術とは一朝一夕に身につくものではありませんよ。それに、あなたは剣術などを必要とされる身分の方には見えません」
細身の華奢な体を、鮮やかな赤の和服で包み、髪も綺麗に纏め上げられたその身なりは、どこか高貴なお屋敷のお嬢様かと思われた。そんな格好で剣術を教えてくれ? 冗談じゃないぞ。それに、何より彼女が一人きりだということが不審だった。
「身分など関係ありません。今日は急のことでしたので、このような格好ですが、男物の胴着でもかまわずに着る覚悟です」
彼女の口調は落ち着いている。冗談を言っているようなふうでもない。
世間知らずの箱入り娘といったところか。この界隈で高貴な家など数が知れているな。
「失礼ですが、お名前を教えていただけませんか? こちらとしても、どこの誰かも知らずにこのような問答をするのは気乗りしません」
「私は――」彼女は一瞬困ったような表情をしたが、すぐに、「私は……真弓というものです。それ以上はお答えできません。真弓とお呼び下さい」と名乗った。
真弓……知らない名前だ。姓なのか名なのか……。
「それで、何日ほど稽古をすれば、人を殺せるくらいになれますか? 一週間ほどかしら」
「……はい?」
あまりに予想外の質問に少し慄いてしまった。ここまで世間知らずとは……。
「急を要するといいましたよね? でも、いくらなんでも一週間というのは……いや、その前に真弓さん、あなたは人を殺したくてここに来たんですか?」
「ああ……いえ、特定の誰かに仇討ちしたいだとか、そういうことではないですよ」
慌てた様子で手を振る。
要するに護身術として心得ておきたいということなのか? だとしてもこんな申し出を受けるわけにはいかない。
「残念ですが、他を当たってください。一週間で身につく武術なんてありませんから」
「やはりそうですか。仕方ないですね。でもまあ、断られることは分かっていましたから」
それはそうだ。常識的に考えれば、そんなことは分かりきっていることだろう。
「それなら、どうしてここに来たんですか?」
からかわれているのかもしれない……。だが、このまま追い返してしまうのももったいなく思えて、会話を続けてしまった。きっと一目見たときから俺は彼女に惹かれていた。そんな自分を自覚する余裕があるくらい明確に。
「……本当は別の頼みごとをお願いしに参りました。しかし、実際にあなたを見たら、ふと試してみたくなったのです」
答える彼女の表情は明るくはなかった。憂いを湛えた瞳があまりに印象的だ。
「俺を試したんですか?」試されるようなことをした覚えはない。
「……いえ、試したのは私自身のことです。あまり気になさらないで下さい」そこでスッと一息吸い込み、「それでは本題に入らせていただきます」
今度は自信たっぷりという感じだった。心の変化の激しい人だな……嫌いじゃないが。
「それで、引き受けたの?」
俺にはガラクタ同然のレンズをこちらに向けながら、一つ年下の弟が、身を乗り出してきた。ちょっとは遠慮してほしいものだが、こいつは気にも留めやしない。
「ああ」
「ああって、そんないかにも怪しい女の頼みなんて聞いてどうするんだよ」
「どうもしない。どうにかなればいいとは思うがな」本音だった。
「どうにかって……ただの一目惚れだろ。よくあることじゃないか。なんで兄貴がそこまでしてやる必要があるの?」
レンズの照準を俺から逸らせて、弟がにじり寄ってくる。
二人きりの道場だった。真弓さんが帰った後、再び木刀を振るいはじめたところに、弟がやって来た。稽古の相手でもしてくれるのかと思ったが、弟が手にしていたのは木刀でも、竹刀でもなかった。
「俺ははじめてだったけどな。一目惚れ」
「だからって、そんな素性の知れない女……」
「素性なら知れている。真弓さんだ」
「その真弓さんのことなら、僕が知ってる。決して兄貴が言うような女じゃないよ。きっと偽名だね。どこかで聞いた真弓の名前を、たまたま覚えていたから使ったんだと思うよ」
やけに自信たっぷりだな。真弓さんに心当たりでもあるのか?
「それでもいいさ、俺は一日彼女の用心棒になる。それのどこが気に入らないんだ?」
真弓さんの頼みとは、一週間後に特別な場所に外出するので、一緒に来てほしいというものだった。危険が伴うので、町で唯一の道場の主である俺に、用心棒になってくれと。
「らしくない。実に兄貴らしくない」なおも弟はからんでくる。「僕の知っている兄貴は、面倒が嫌いで、他人と関わり合うことを避けて、ただ一人で自分の好きなことに情熱を注ぐ人間だよ。たかが一目惚れで、自分を簡単に曲げられるはずがないんだよ」
確かにそうだ……いや、そうだった。昔から俺は一つのことに熱中すると、他のことに手がつかない性格だった。しかし、環境が変われば、嫌でも適応するしかない状況もある。今、現在がまさにそれだった。道場の師範で、子供相手に剣術を教えているなんて……。
「やりたいことができなくて、駄々をこねる歳でもないんだがな。これは偶然舞い込んだ絶好のチャンスだ。真弓さんと上手くいけば、ゆくゆくは家庭を築いて、正式に鈴鹿家の当主になれる。そうすれば、俺の本当にやりたいことができるんだ」
嘘でなはいが、本心とも言い難い。そんな曖昧な返答にもう少し突っ込まれるかと思ったが、
「本当にやりたいことねえ……。なるほど、それが本音か」
あっさり納得。単純な弟の今後が少しだけ心配だ。