序ノ二 兄の件
道場の床板を、夕闇が鮮やかに彩りはじめた。
ようやくか……と、俺は息をつく。
「全員集合だ。こらそこ! いつまで組み合ってる!」
道場を埋め尽くしていた、パシンパシンと竹刀がぶつかる音が一斉に止み、荒い息遣いの門下生たちが俺の前に規則正しく整列した。
「今日の稽古はこれまで。速やかに解散。夜道に気を付けて帰るように」
はい! と威勢よく返事が返ってくると同時に、全員が逃げるように道場を後にする。
……伝わってしまっている。いかんなあ。
父親に変わり、この鈴鹿流剣術道場を継いでから、随分と経つ。それ以来、今のように、日が暮れるまで門下生の子供たちを相手に、剣道教室を開いているのだが……。
「なんで俺がこんなことを……」
俺には他にやりたいことがあるのだ。だから、望んでもいないこんな役割は、一刻も早く終わらせてしまいたかった。それに門下生たちも薄々気が付いているんだろう。稽古が終わると、今日のように、一目散に帰っていく。
「はあ……」
溜め息を漏らさずにはいられない。全くの無駄な時間。本来ならこの時間で、いくらでもできることがあるのにと思うと、少なからず、父親を恨まずにはいられなかった。
剣道教室は、父親の代からはじめられたものだった。単なる父の思い付きだったのか、それとも、時代に逆らって、鈴鹿家を剣術道場として成り立たせるための苦肉の策だったのか。
「どっちにしたって、俺には足枷にしかなっていない……」
誰もいなくなった道場で一人ごちる。誰もいないからこそ、できることだが。
「よし!」
もやもやした気分を打ち払うために、一声発した。それから、さっきまで散々門下生を相手に教えていた、いわゆる道場剣術とは違った、鈴鹿流本来の型に竹刀を構えた。
竹刀を振り上げる。振り下ろす。払う。一呼吸。再び振り上げる……。
気分を一新するため、薄闇の忍び込む中、無心でそれを繰り返した。
道場から母屋に戻り、汗を流してから居間に向かうと、そこには弟の姿があった。長椅子に腰かけて、腕組みをしながら舟を漕いでいる。
こいつ……こいつが……。
怒りではない。ただ、なんとも言い難い、濁った感情が、この自由奔放な弟を見ているとわき起こってる。そうか、これは嫉妬か。
俺が道場を継がなければ、どうなっていたんだろう。
もちろん、自分が長男である以上、そんなことは不可能だ。だけどもし、この暢気な弟が道場を継いでくれていれば、俺はやりたいことを好き放題できたんじゃないのか? 自由だったんじゃないのか?
…………。
やめよう。考えても無駄なことだ。
弟の寝顔を見る。何の表情も表情もない。
「お前もお前で、幸せそうな寝顔くらい見せろよ」
弟の胸のうちに何が秘められているのかなんて、俺には分からない。だけど、その寝顔を見る限り、ただ、能天気に毎日を過ごしているわけじゃないのかもしれないと、ほんの少しだけ思った。
――そのとき、気配を感じた。
外――わずかに、庭に敷き詰められた砂利を踏みしめる感覚を肌が感じた。
竹刀……いや、木刀だな。
弟を起こさないようにそっと玄関から表に出ると、ビクリと身体を震わせた影が、月明かりではっきりと見て取れた。
「何者だ! うちには金目のものなんて、ろくにありはしないぞ!」
俺が大声を発した途端、影はその身を翻すと、一目散に逃げ出した。
「あ! おい! 待て!」
砂利を蹴って、一目散に逃げる影に追いすがったが、なにぶん、距離があり過ぎた。影は門扉を抜けて町の暗闇に紛れて行ってしまった。
なんだよ、せっかく鈴鹿流の出番かと思ったのに。
侵入者の正体なんかよりも、そんなことを気にしている自分が、滑稽に思えたのは、母屋に戻り、木刀を仕舞ってからのことだった。