第二妖 天狗
今日の放課後は部活がない。たまのこの自由に何をしてやろうか。靴箱から取り出した革靴に履き替え、手元のシューズを見ると大分くたびれていた。アコは屈みこみ、シューズのつま先を地面につけ、ぐりぐりと床に押し付けてみる。だいぶ薄っぺらくなっている感触がした。アコは駐輪場に向かい、自転車のカゴに古くなったシューズを投げ入れた。肩がけのエナメルバッグを背中に回し、ポケットに片手を入れながら、アコは自転車を押して中心街へ向かった。
中心街はかなり賑わっている。高層ビルもあるし、おしゃれなカフェや若者向けの遊興施設もたくさんあった。アコは駅裏の駐輪場に自転車を預け、街に繰り出した。駅を離れていくと歩いている人間の数が増えていく。向かう人戻る人。人の波に飲まれないよう、アコは進む。目的地は商業ビルの一階に入っているスポーツ用品店だ。
アコが向かったのは、「グンジョースポーツ」というスポーツ用品の大手販売チェーン店だった。アコが部活で使うもののほとんどは、ここでまとめて買い集めることができるので、非常に重宝している。店をぐるぐると見て回ったアコは、壁に展示してあるシューズを何足か試しに履いてみて、一番クッション性の高そうなものを選んだ。ランニング用シューズなんて消耗品だ。すぐ使えなくなるなら、どれを選んでも同じだろうとアコは思っていたが、伊吹の厳しい指導を受けきちんと特徴を考えてシューズを選ぶようになった。少し値は張るが仕方がない。これは必要経費だと思うようにして、シューズをレジに持って行った。
「ありがとうございました!」
店員の溌溂とした挨拶に押し出され、アコは店舗を後にした。シューズの入ったビニールバッグをちらりと見て、アコは満足気に目線を戻した。
「この度、東京2020オリンピック競技大会に出場いたします、イングランド陸上競技代表選手団の事前合宿の受け入れが決まりました。合宿は7月中旬に1週間程度行われる予定です。練習会場は、摩天楼市市民競技場の予定で…」
アコが出てきた商業施設のオーロラビジョンには、一人の男が映し出されていた。男は美しい標準語でつらつらと原稿を読み上げている。早くも遅くもなく、詰まることもない。非常に聞き取りやすく内容が伝わりやすい話し方だ。人に好感をもたせることができる話し方だと形容できるだろう。
「鞍馬市長だ。この人、めっちゃかっこいいよね」
「わかる〜!素敵すぎる。こんな彼氏がいたらなあ」
女子高生だろうか。若いファンがオーロラビジョンを食い入って眺めている。
(人間はこういうやつが好きなんだな)
鼻を鳴らし、アコは自転車置き場に戻る。そこでは可愛いアコの二輪車が待っていてくれていることだろう。少し時間がかかってしまったから拗ねているかもしれない。お詫びにオイルを差してやろう。
アコが去った後のオーロラビジョンには、
『摩天楼市市長 鞍馬天現』
という文字がでかでかと自己主張していた。
***
アコはスーパーマーケットで買い物してから部屋に帰ることにした。同居人は料理は常軌を逸するくらい拙いので、今は仕方なくアコが調理担当になっている。アコは器用だ。自分ではやりたくもないと思っているのに、下手な人間よりも美味い料理を作る。
もともと妖怪社会では、生の肉や魚を主食としていた。だから人間の料理のように火の通ったものを食べることにはまだ少し違和感を感じる。数ヶ月もこちらで暮らしていくと慣れてくるもので、調理された食べ物も自然に口にできるようになったが、やはり生来の習慣はそうやすやすと変わってはくれない。回数をこなすごとに食事に対する嫌悪感は減っていった。自分は料理のひとつも出来ないくせに、同居人が口うるさく人間の食べ物を食べろと言っていたも、これが理由だったのかもしれない。一通り食材も揃った。アコはビニール袋を自転車に下げながら帰路につく。ハンドルを通して、ゆらゆら揺れるビニール袋の振動を感じながら歩いた。
アコは自分の帰るところを“家”と表現するのを嫌がった。何の気なしに「家」という単語を国語辞典でひいたことがある。いくつか項目があったが、ひと際アコの目を惹いたのはこれだった。
いえ〔いへ〕【家】
夫婦・親子・兄弟など血縁の近いものが生活を共にする小集団。家庭。所帯。
家庭。所帯。家族?あの部屋を「家」と呼んでしまったら。アコがあそこに帰ることを受け入れてしまったように感じられる。アコは今日も帰りたくもない“部屋”に帰らなくてはならない。帰りたくない、そう考え続けなければならない。人間社会にほだされたくない。慣れたくないことなど山ほどある。だから、あそこを「自分の家」だと思うその一線を超えてしまえば、自分も摩天楼市の一員になったと認めてしまうようで恐ろしかった。
「ただいま」
「おかえり」
誰もいない部屋に声をかけたはずだったのに、今日は返事があった。アコは面倒くさそうに、したくもない舌打ちをした。
(なんでいるんだよ)
わざと靴を脱ぎ散らかし、玄関にどさりと通学用のエナメルバッグを置く。それから、ドタドタと足音を立てながら廊下を進んだ。トイレの横を通り過ぎたとき、ふとトイレットペーパーの残りがあったかどうかが気になった。そして、そんな人間臭い考えが浮かんでしまうぐらい人間社会に染まってしまった自分に辟易した。
対面キッチンにライトをつけビニール袋を運び込み、冷蔵庫を開けて食材を片づける。冷蔵庫の中には数個の卵と一本のミネラルウォーター。それから、大量のビールが入っていた。このままでは、食材を入れるスペースがない。アコは缶ビールをせっせと野菜室に移し始める。
「お前、どんだけ飲むの?」
家で休んでいる時の男は、呼びかけても大抵反応をしない。意地になっているのか知らないが、眠ってもいないのになぜかこちらを無視するのだ。いつもながら、無駄とは分かりながら、アコは同居人の男に声をかける。男は微動だにせず、ソファに寝転がっているばかりだ。
「おい」
やはり今日も返事はなかった。食材を片づけ終わったアコは小さくため息をつき、リビングに入って行った。もう既に夕方も遅くになっているが、朝からずっとソファで眠っていたのだろうか。まったく。起こした意味などなかったではないか。だが、よくよく見てみると、男はスーツから部屋着に着替えている。シャンプー特有の爽やかな香りもするし、多かれ少なかれ動いてはいたようだ。
「もう起きろよ」
眠っているのか。いや、先ほど「おかえり」と返事をしたのだ。眠っているはずがない。
「天現」
そう呼ばれて、男は振り返った。表情は分からない。なぜなら、赤っ面の天狗の面をつけていたからだ。アコが素早くその面を取り去ると、天現はこれ以上ないくらいの仏頂面をしていた。アコは今度は大きなため息をつく。この男と暮らすようになってから、何度ため息をついたろう。たぶん、五回生きた分くらいの数のため息はついていると思う。この生活を始めて、舌打ちに加えて、ため息をつく数も格段に増えてしまった。「一つため息をつけば七つの幸せが逃げる」ということわざが本当なら、尽きるほど幸せを逃しているだろうから泣きたくなる。
「遅かったね」
「今日は部活なかったんだから、遅くないだろ」
「ボクが起きた時にはいなかったじゃない」
天現がいったい何時に目を覚ましたのかはわからないが、めちゃくちゃな理屈を押しつけられているのだけは分かる。この口ぶりでは、この天現という男がアコが学校から帰ってくるのを甲斐甲斐しく待っていたように聞こえる。
「オレはあいつじゃねえんだから。お前中心に生活する義理はねえよ」
天現はぶうたれる。不満げなじっとりとした視線を感じ、アコは背中を向けた。
「お前いい加減、大人になれよ。こんなんが投手じゃ現世党が心配だよ。オレは」
アコは頭をわしわしと掻きながら、玄関に戻る。それから、持って帰ってきたシャツを出し、洗濯機に入れた。それから、洗濯カゴに入れっぱなしになっていた天現の服をぶち込んで、洗濯槽を覗き込む。まだ余裕はあるようだ。今自分が着ていたYシャツとインナーシャツを脱ぎ、洗濯槽に放り込み、洗濯機のスイッチを押した。石鹸と柔軟剤が入った洗濯機はえっちらおっちら回り始めた。
アコが“天現”と呼んだ男は、昼間オーロラビジョンに映し出されていた“鞍馬天現”その人である。この男は扱い難い面倒な男だが、仕事だけはできる。人を惹きつける天才的才能を持っているのかもしれない。天現に好感を持つ人間や妖怪は星の数ほどいた。実は、天現は人間社会で摩天楼市市長という大役に付きながら、妖怪社会では大派閥の長をしているのだ。
この世の妖怪の多くは、“現世党”と“妖怪党”という二つの派閥のどちらかに所属している。異なるポリシーを掲げたこの二つの政党は、妖怪たちがより生きやすくなるための方策をいくつも打ち出している。この二党のポリシーを簡単に説明する。“現世党”は現代に生きる人間と交わり共存しようとする革新的な派閥。“妖怪党”は人間社会から隔絶された妖怪だけの社会で生きようとする保守的な派閥だ。決して、どちらが正しく優れているという話ではない。ただ、妖怪がそれぞれの信念やライフスタイルによって生き様を選べるように、二種類の枠組みが用意されているというだけの話だ。
天現は現世党の党首を務めている鞍馬天狗である。もともとは霊峰にある天狗の集落でひっそりと暮らしていたが、どうしたことか現世党の党首に抜擢され山を降りてきたのだ。それではどうやって人間社会に馴染み登りつめたか。答えは簡単、金と人脈を使ったのだ。国会中継でうとうと舟を漕いでいる古狸。あれは妖怪だ。最近流行りのソシャゲアプリを作ったあのIT企業の社長、きりりと目尻の上がった伊達男も妖怪。人間は想像すらしないだろうが、妖怪たちはいとも簡単に人間社会に忍び込んでいる。もはや忍んでいない。人間の作法に則って、人間を搾取している。
天現は非常に頭の切れる男だ。摩天楼市はもともと住民のほとんどが人間の街だったが、鞍馬天現市長は少しずつ妖怪を移り住ませた。人間と妖怪が混じり合い、共同して生活する街を作り上げたのだ。そして今では、妖怪と人間の割合は半々になった。
摩天楼市に住んでいる妖怪たちのほとんどは『現世党』に所属している。人間社会で暮らす妖怪が必ず現世党に所属しなければならないという規則はない。だが党に所属すると旨みがあるので、粗方の妖怪が現世党に所属しているのが現状だ。
現世党には大きなルールが二つある。
『人間を食べないこと』
『妖怪本来の姿を人間に見せてはならないこと』
このルールを守ることができれば、妖怪たちには多くのことが許される。正確にはもっと細かいルールがちょいちょいあるのだが、ざっくり先の二つに集約されていくのだから、説明はこれで済むだろう。つまり、このルールが守れるようになったら、この摩天楼市で生活する許可が出るということである。
摩天楼市で暮らす妖怪には成熟した若者から中年くらいまでの住民が多かった。成熟する前の幼い妖怪は摩天楼市には住んではならない。未熟な子どもは、いつ変化が解けてしまうかが分からないからだ。それが人間のいる前だとしたら、目も当てられない。特に摩天楼市の住民半分は人間なのだから、正体を見破られてしまう可能性も高い。もし妖怪変化が解けてしまうところを見られれば、十中八九大きな騒ぎになってしまうだろう。見てしまった人間の記憶を消すことも出来なくはないが、何度もそれを続けるわけにはいかない。繰り返せば、修正された記憶と現実の間に齟齬が出来てしまうからだ。
だから、人間社会に娯楽や刺激を求めて移り住んできた若い妖怪も、子育てを行う頃になると人間社会を離れ、妖怪の都に帰っていく。摩天楼市に住んでいる妖怪たちは、その辺に折り合いをつけ、それなりに楽しく暮らしているようだった。
「もう酒は抜けたのか?」
アコが部屋から戻ってきた。部屋着のスウェットに着替えてきている。
「抜けたからこうなんでしょ」
仕事モードの天現はかっこいい。素を知っているアコが見ても、まず一番にそう言うだろう。天現は抜群に仕事ができる。リーダーシップを持つ人物が重宝される人間社会だが、天現が持っているのは、ただのリーダーシップではない。レベルが違うのだ。“天現の役に立ちたい”。そう思う人間が天現の足元に群がってくる。天現はそれをご自慢のカリスマ性で見事にまとめ上げていく。天現は見た目もいい。とても人間好みの風貌だ。上から下まで計算して創られたような美しさ。美しく艶のある黒目がちの瞳。形のいい眉毛と薄い唇からは、清潔感が感じられる。すらりと背も高く、適度に鍛えられた身体。時折見せる柔らかな笑顔にも好感が持てる。
今朝、起こしたあたりの天現はまだ酒が抜けきっておらず、仕事モードだった。だが、素に戻るとこの通りである。疲れも相まってか、今日は特に機嫌が悪そうだ。
「はあ、あのジジイども、みんな地獄に落ちればいいのに」
毒舌。
「勝手に閻魔の仕事増やすなよ」
「ジジイの一人や三人や五人、増えても問題ないでしょ。そもそも、あそこはそういう役目なんだからさ」
大分、語気が荒い。
「また酒飲まされたんかよ」
「付き合いだからねえ」
天現は枕代わりにしていたクッションを上に投げ上げる。クッションはふわっと宙に上がり、ある一定のところでぴたと止まって、ぼふっと音を立てて、天現の腹の上に落ちた。
「つか、さっき街でお前がテレビ映ってんの見たけど」
「録画でしょ?いい時代だよね。今、こうやってサボれちゃう」
天現はまたクッションを投げ上げた。
「で、あの酒どうすんの?」
「あー、アレ?身体が慣れるまで浴びるように飲んでやるつもり」
クッションがくるくる回りながら落ちてくる。もともと、天狗は酒に強いはずなのだが、ビールが身体に合わないのか、天現は酒を飲まされる度に不機嫌になって帰ってきた。
「僕はビール飲むために市長になったんじゃないっての」
天現は抱き止めたクッションを壁に投げつけた。溜まりに溜まったストレスを物に当たって発散させようというのだ。ところが、短絡的かつ有効なそのストレス発散法は、棚の上に置かれていた写真立てを音を立てて倒した。
天現はガバリと起き上がり、写真立てに飛びつく。写真立ての表も裏も確認して、天現はほっと胸を撫でおろした。写真をじっと眺める。それから、丁寧な手つきで元通りの位置に戻し、落ちたクッションをもう一度ソファに向かって力いっぱい投げつける。跳ね返ったクッションをソファが受け止めた。
「付喪神に迷惑かけんなって、朝言ったの誰だよ」
呆れかえった様子でアコは言ったが、天現がなにも言わずに写真立てを見つめていることに気づき口を閉じた。時間が止まってしまったように、天現はまったく動きを止めてしまった。
(あいつのことが絡むといつもこうなる)
思うところもあるようだが、アコは夕飯づくりに移ることにしたようだ。
玉ねぎやニンジン、ピーマンを冷蔵庫から取り出して、みじん切りにする。炊飯器の蓋を開け、白飯が残っているのを確認する。どうやら、今晩の夕飯はオムライスに決まったらしい。天現は子どもみたいな料理を出すとなぜか喜ぶ。料理を覚えたてのアコが何度も作ったオムライスが特にお気に入りのようだ。天現の胃袋を掴んでいるアコが言うのだから間違いない。包丁が軽快なリズムを刻む。
「会いたいなら会いに行けばいいじゃん」
天現はまだ視線を写真立てから移さない。移せないのかもしれない。
「未地に会いたいんだろ?」
「うん」
予想もせず率直に返ってきた素直な気持ちに驚き、アコは手を止めた。いつも飄々と躱している天現が心中を語るなど、普段なら考えられないことだ。やはり、あいつは特別なのか。アコは手元に目を落とす。
「会いたい。すごく会いたい。会いたいよ、未地に」
天現の切なる願いはフライパンから立ち上る湯気とともに空に溶けていった。アコは知っていた。天現が未地に会えない理由を。だからこそ、あれ以上なにも言えなかった。
未地は天現の弟だと公言されている。だが知っている者は少ないが、本当は天現の弟ではない。未知は、天現が山で拾った人間の童なのだ。天現は多くを語らない。だから未地から聞いた話だが、親からはぐれ山で迷っていた未知を天現が救ったのだという。人間世界と妖怪世界の境が曖昧になっている森深くまで迷い込んでしまった未地を、天現が天狗の里へ連れ帰ったというのだ。妖怪の生き方を知っているアコの頭の上にはたくさんの疑問符が浮かび上がったが、未地がそれで納得しているのならいいのかと深くは聞かなかった。
確かに天狗は元来、人間世界に近いところで生活してきた。山の神であると信じられ、山の麓に住む人間たちに畏怖されてきた。笑い声を響かせたり、突風を起こしたり、天狗はたびたび怪異を起こした。怒らせるようなことがなければ、人間に大きな被害をもたらすこともなく人間と共存していた天狗たち。現在では限られた霊峰でしか暮らしていないが、もとより、天狗は人間の生活に非常に近しいところで生きてきたのである。
妖怪姿の天現は、山伏の装束に身を包み自由自在に飛翔する、所謂、鼻高天狗である。長い鼻と赤い顔は、人間の間でも親しまれているだろう。天狗は童に優しい。その昔、天現の祖先は牛若丸という童に剣術を仕込んだこともある。天狗は山へ迷い込んだ子どもを導き、時に家へ送り届けるなどする。惑っている童が哀れであると思うと同時に、天狗は山で暮らす妖怪のすべてが人に優しい訳ではないと分かっているからである。
ところが、普段であれば家に帰すはずの子どもを、天現は寝床まで連れ帰ってきてしまった。それが未地だ。それももう20年ほど前のこと。未地はすでに立派な青年にまで育っていた。
天現は焦っている。未地は人間だ。このまま、後50年もすればぽっくりと死んでしまう。妖怪からすれば50年の時の流れなど、一晩眠るのと同じくらいの感覚しかない。天現は、なぜか未地にひどく執着している。今の状態のままの天現の様子を見ている限り、未地の死など到底受け入れられないだろう。
天現は考えた。多少の寿命を伸ばすのでは意味が無い。肉体が老いていくごとに、魂と器の間に結ばれている糸は千切れてしまうだろう。出来るだけ長く、むしろ永久の時を未地と共に生きたい。だから天現は、未地が永遠の命を得る方法が見つかるまで、九尾の狐に未地を預けることにした。その九尾がアコの兄である『妖怪党』の長、虚狐なのである。




