天国
うろうろと部屋の中を歩き続ける。こんなことをしていても苛々が収まるはずなどない。むしろ増大している。苛々が増すのに従って歩調が速くなっているのが自分でも分かった。今や相当な早歩きになっている。
部屋を横切るためにベッドの近くを通ろうとした。だが早足だったせいで足元がお留守になっていたらしい。右足の小指を思いっきりベッドの脚にぶつけてしまった。
「〜〜〜〜!」
声にならない悲鳴をあげて右足を抱え込み、床にへたり込む。ここでは疲れこそないものの痛みは健在らしい。このことで漸く、ほとんど惰性で続けていた歩みを止めることはできた。しかし同時に私の中の他の物のスイッチが入ったらしい。
「何なのよ……」
一言口に出したら、止まらなくなった。いつもであれば私の感情に冷や水を浴びせかける“私”の嘲笑もない。止まらない。―――――止まれない。
「何なのよ! さっきから!! ああもう! 苛々する!!」
ほとんど意味のないことを大声でわめく。これで苛々が解消されないことなど承知だ。それでもこれまでに溜った何かを吐き出すようにわめいた。
人と関わることが苦手だった。
でも引き籠ることはできなくて、それでも可能な限り人と関わらずに生きようとした私は、己を周囲に埋没させることで取るに足りない人間だと思わせ、興味をもたれることを避けた。そんな私は持ち物さえ周囲に合わせていた。要するに、流行しているものを手に入れていた。だから今回のようにそんなものは関係なく、自分の欲求だけで物を購入することはとても珍しかった。
自分の部屋に戻り、とりあえずテーブルの上に買った壷を置いた。鞄を置き、服を部屋着に換えてからテーブルについて改めて壷を手に取った。壷は割れないよう梱包されて箱に入れられ、持ちやすいよう小さな紙袋に入っていた。その包装を解くと、壷本体と蓋がずれないようにするためか紐が掛けられていて、それをほどく時、何か封印でも解いているような気にさせられた。
あの女性はこの壷の商品名を「壷中天」だと言っていた。自分の記憶が正しければ、「壷中天」は故事だ。詳しく知っているわけではないが、確かある男が壷の中に入るとそこは理想郷―――――いわゆる天国だった、という話だったか。ただ、天国といっても、その天国はその男にとってだけの天国―――――要するに、願望の反映―――――だった気がする。確信は持てないが。もともとが詳しくないうえにうろ覚えだ。最後がどうなったかも知らない。
もっとも、故事がどうあれこれはただの壷だ。現実にそんなことはあり得ない。この壷は妙に気に入っているし、部屋のどこかに飾っておいて、ちょうど良いものがあったら小物入れにでもしようか。
ああ、でも、もし現実にそんなことがあるならきっと、私にとっての天国には一人で無為に過ごすためのベッドと、せいぜいソファ、あとは本くらいしかないだろう。私は人と関わりさえしなければそれでいいのだから。
そんなことを考えながら、私は壷の蓋を開けた。そして―――――そのときから、私はずっとここにいる。この白い、ベッドとソファと、本しかない部屋に。