店
落ち着かない。寝ようにも妙に神経が高ぶっていて眠れない。本を読もうにも集中できない。かといって何もせずぼうっと過ごそうとしても苛々して、気付けば昔のことばかり思い出している。動き回れば少しはましになりそうな気がして、先ほどからずっと部屋の中を歩き回っているが、効果などまったくなかった。しかしだからと言ってやめる気にはならない。特に理由はないが惰性のようなものだ。用事があれば中断せざるを得ない。しかしここにいる限り用事などあるはずもない。疲れれば自然と止める気になる。だがここにいる限り疲れる事はない。時計があれば時間を見て区切りをつけることができる。ところがここには時間が分かるものは一切ない。私の行動を止めるものは何もない。落ち着かないままに私はうろうろと部屋の中を歩き続ける。
人と関わることが苦手だった。
なのに私は唯一一人で誰にも接することなく過ごせるはずの休日に外に出て、こんなところにいる。足元から延びるのは、人が三人程度横に並んで立てる位の道幅の小道。舗装されてはいないものの、表面は滑らかできれいだ。少なくとも目に見える範囲では道の上には雑草も凹凸もなかった。この小道は緩やかにカーブしているらしく、道の先は見えない。目の前には林。本当は森なのかも知れないが、木と木の間隔が割と広く疎らで明るく、私の中ではなんとなく林という印象だった。明らかに今まで歩いてきた場所とは違う。そもそも、こんなところに辿り着くはずがない。さっきまで私がいたのは商店街で、そこを抜けて右に折れた所でそこは何の変哲もない大通りのはずなのだ。しかしここには大通りどころか、人の手が入っていそうなものは、私が今立っている小道だけだ。
どう考えてもおかしいこの状況に、私は驚くよりも呆然としていた。……さすがに“私”もそんな私を嗤ってはいなかった。いやそれ以前に、この時私は“私”のことを忘れていたから、本当は“私”は私を嗤っていたのかもしれない。
唐突に強い風が吹いた。葉擦れと鳥の鳴く声で我に返る。パニックに陥りかけた私の精神に“私”の嘲笑が冷や水を浴びせかけ、私は“私”に嗤われぬよう表面だけでも平静を装おうとした。そのせいで内心は混乱し、胸の内側をじりじりと焼くような感覚までしているにもかかわらず、行動だけはやけに冷静だった。あたりを見回し、ここが先ほどまでいた場所と異なることを、再度確認しようとした。その場に立ったまま首だけを動かし、前と左右にある物が林の木立と、そこを通る小道だけだと認識し、さらに後ろを確かめるために振り返ったその視線の先に―――――店があった。
その店を見つけた瞬間、内心の恐慌状態は収まり、不思議なほど平静になった。自分が立っている場所から店までの距離は五・六十メートルほどだろう。近づいて行くと、視界が急に開けた。店のある場所はかなり広いほぼ円形をした草地になっており、店はその端で木々に半ば埋もれるように存在していて、小道もそれに合わせるように広場の端の方を通っている。丈の長い草の色は青々としていたが、季節の関係か品種の関係か、花はなかった。その代わり、街中ではなかなか見ることのできない、一面緑色の絨毯が風にうねる光景が広がっている。ただ、この景観に対して、風は途切れることはないものの不自然なほどに穏やかで、葉擦れの音もほとんど聞こえない。私の立っている場所とは吹いている風が違うのではないかという思わせるほどだった。
草原から目を離し、今度は店を観察する。外観はどことなく西洋骨董のようで、全体的に黒っぽい。背後の林の緑にやけに映えている。窓からわずかに中が見え、その様子からするとどうやら雑貨店のようだ。もっとも、扉に「OPEN」と書かれた札がやや斜めになって下がっていたものの、その他には店名さえ出ていないために、本当に雑貨店なのか確信はないが。―――――おそらく、私にメモを渡した彼が「気が向いたら行ってみるといい」と言っていたのはここなのだろう。だが。何故雑貨店などに行けと言ったのだろうか……? 店を薦めるのであればもっと親しい人にすればいいだろうに、高校時代に一度話したきりの、それも彼を避けていた私に、何故。不思議なことに、この時の私の頭にはここがどこだとか、そういった疑問は全く浮かびもしなかった。一度落ち着いてしまえば不自然なほど自然に“そういうものだ”と納得してしまっていた。
店にゆっくりと近づく。ドアノブに手をかけ、開く。外開きではなく、内開きだった。ガラン、とカウベルの音が鳴る。店内は黒っぽい外見に反して明るく、想像よりも広かった。棚が壁際に並んでいて、奥にあるカウンターが見えた。意外に奥行きがある。
「いらっしゃいませ」
カウンターで椅子に座って何かを磨いていた女性が顔を上げ、そう言った。思わず息を呑む。大きめなやや吊り上がり気味の瞳。すっと通った鼻梁に、厚すぎず、かといって薄すぎない唇が淡く笑みを浮かべている。どこか神秘的なものさえ感じる、美しいだとか麗しいだとかいう言葉はこの人のためにあるのだろうと、そう思わせる微笑を、長いつややかな緑の黒髪が彩っている。その髪は高い位置で結いあげられており、右側頭部の一房だけが胸元にたらされ、顔を上げる動作に合わせてさらりと揺れた。おそらく二十代後半から三十代前半、少なくとも四十代はいっていないだろうに、その雰囲気はもっと年上のようにも思える。そして、息を呑んだ理由はその美貌も理由の一つだが、もう一つの理由はその目だ。ただの黒瞳にしか見えないが、こちらに顔を向けたその一瞬、金色に見えたのだ。……目の錯覚だろうか。
店内に足を踏み入れた体勢のまま茫然としていると、「どうなさいました?」と首を傾げて問われ、慌てて開いたままのドアを閉めた。ドアのカウベルが再びゴロン、と音を立てる。“私”が嘲笑するのが分かった。
妙な気まずさを感じながら、それを誤魔化すように入り口付近に立ったまま店内を見回した。この気まずさは自分が勝手に感じているだけだということは分かっている。“私”がそう言って嘲笑を深めていた。
「そう硬くならずに。ゆっくりなさってください」
そう言われて知らず肩に入っていた力をほんの少しだけ抜いた。辺りを見回しながら店内の中心付近まで歩み出る。客が私しかいないせいか、静かだった。店に入れば大抵何か音楽がかかっているものだが、ここにはそれもない。ただ、カウンターの後ろの古そうな時計だけがカチカチと音を立てている。
「静かですね……」
ぽつりと。思ったことがそのまま口に出て、そのことに自分が一番驚いた。普段の自分であれば同じような状況になっても絶対にこんなことなど口にしない。人との係わりが苦手な私はここで会話に発展しそうなことなど言わない。無理に会話をしなければならない訳ではないのだ。
「ええ。このような所ですし。風が強い日や雨の時にはもう少し賑やかになりますけど」
「賑やか?」
雨や強風の日には客の入りは悪くなるものなのではないだろうか。
「雨音や風音のこと、ですね」
「はあ……」
あまり使わない言い回しだ。普通は「うっとおしい」か「うるさい」といったところだろう。そんなことを思っていると、女性の笑みが僅かに深くなった。
「お暇ならお茶でもどうですか?」
そう言ってお茶の缶らしきものを少しだけ持ちあげて首を傾げて見せる。女性の瞳が金色に光った。どうやら先ほど見たものは錯覚ではなかったらしい。穏やかな笑みにつられるように「いただきます」と答えてからしまったと思った。ここで断っていれば頃合いを見計らって、これ以上関わることなく帰れただろうに。しかし今更断るのもおかしいので仕方なくカウンターに近づく。カウンターの前には椅子が一脚置いてあって、座るとお茶を飲むのにちょうど良い位置になっている。私が座るのとほぼ同時に女性が立ちあがり、どうやら茶器が置いてあるらしい棚に向かった。そこで私を振り返り、
「お茶は何になさいます?」
と訊いてきた。
「コーヒーと紅茶と、一応緑茶もありますけど。」
そんなことを訊かれても、私はお茶を飲むという習慣をもたないので判断に困る。
「なんでもいいですけど……」
そうとしか答えようがない。
「では紅茶でよろしいですか?」
「はい」
返事を訊いて棚に向きなおった女性の後ろ姿を眺める。向きなおった一瞬に、また瞳が金に見えた。おそらく角度によってそう見えるのだろう。とても珍しいと思いながら、動きに合わせて揺れる黒髪をぼんやりと見ていた。しばらくそうして後ろ姿を無為に眺めているといつの間にかそれなりの時間が経っていたらしい。気付けば私の前に琥珀色の液体の入ったカップが置かれていた。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
我にかえって礼を言い、紅茶に添えられていた砂糖とミルクを落としかき混ぜる。それから一口紅茶を飲んだ。温度と香りに、妙にほっとする。ひょっとすると、もともとそういった効果のある銘柄なのかも知れない。私も女性もしばらく無言のままお茶を飲む。しかし不思議と気まずい雰囲気はなく、近くに人がいるにもかかわらず私は妙な心地よささえ感じていた。
ふと、カウンターの横にある、位置からしておそらく商品棚だろう、そこに置いてあるものが目に入った。
それは何か白い物体で周囲からやけに浮き上がって見えた。大きさは私の拳くらいだろう。棚のやや上にあるそれは距離の関係で何なのかよくわからなかったが、やけに私の気を引いた。
「気になりますか?」
それをじっと見つめている私の視線に気付いたのか女性が訊ねてきた。私が答えを返す前に彼女は立ちあがり、真っ白なそれを持って戻ってきた。ついで私のカップの横に置かれたそれは。
「壷?」
どう見ても壷だった。蔦が巻きついたような模様が浮いている。蓋が付いていたが、それにも同じ模様がある。思った通り、大きさは拳ほど。両掌ですっぽりと包みこめるだろう。何の変哲もない、真っ白な小さい壷。なのに……正体が分かっても猶、気になる。
「『壷中天』、ですね」
「コチュウテン?」
女性が―――――おそらく説明だろう―――――言った一言をおうむ返しに返すと、彼女は一つ頷いて―――――また瞳が金に見えた―――――説明を続ける。
「商品名のようなものです。『壷中天』。意味は読んで字のごとく―――――壷の中の天国、ですね。ただし、その人にとってだけの天国ですが」
そう訊いてやっとコチュウテンが壷中天だということが分かった。―――――故事だ。しかし、そんな名がなぜこんな壷についているのか。そして、その疑問を置いてもなぜか―――――惹かれる。
「それに、『天国』とはいうものの……この商品自体はただの壷であることに変わりはありません」
言われなくとも分かっている。これはただの壷だ。だが、気になる、惹かれる。いつもであればこの衝動に冷水を浴びせかける“私”が何も反応してこない。そのせいか―――――。
「これ、いくらですか?」
気付けばそう、言っていた。
手頃な値段だった壷を購入し、「ありがとうございました」と言う女性の声を背中で聞きながら店を出た。入った時と同じようにガラゴロとカウベルが鳴る。
「うわ……」
先ほど店に入るときはそんなに感じなかった風が今度はやたらと吹き付けてきた。草原の草がうねり、葉の擦れ合う音がざわざわと聞こえる。思わず体をすくませた。草原に視線を向ける。見える光景は来た時に見た物と変わらない。こうして見ると、やけに風のイメージが強い場所だった。
ざあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……。
急に吹いた、体をもっていかれそうなほどの強い風に体を強張らせ目をつぶった。風が収まり、葉擦れの音がやんだのを感じて強張りを解き、目を開ける。そして、目の前には―――――草原ではなく、私の住むアパートがあった。