メモ
ここに来てからずいぶん経った。正確なところはわからないが、とりあえずここにある本の五〜六割は読んでしまったと思う。
……なぜだろう。苛々する。ここに、この状態に、不満などあるはずないのに。本を読んでいても、何もせずぼうっとしていても、どこか落ち着かない。
人と関わることが苦手だった。
だから目立たぬよう普通でいようとしたのに、それを見抜いた彼は私にとって天敵といっても良い存在だろう。できれば関わりたくなかった。彼の方もあの時以来話しかけても来なかったから、あまり関わる気はないだろうと思っていたのに。
「よお、久しぶり」
彼から私に話しかけてきた。私は彼の意図が分からず、思わず身構えた。彼が私に話しかけるような理由など、本来あるはずがないのだ。それでも久しぶり、とだけ返すと溜息をつかれた。
「……なんで話しかけられただけでそんなに堅くなるかな」
私としては当然のことだ。彼は私が普通に見せかけているだけだということを知っている。これまで何とか築き上げてきた私を壊す切掛けになる可能性のある者なのだ。今の私は引き籠ることを許されず、周囲を拒絶することもできず、しかし“私”の憐れみと嘲笑から少しでも逃れようとして、何とか見つけた妥協策の結果だ。その私を壊されれば私はどうしたらいいのか分らなくなる。だが彼にはそんなことは理解の外だったらしい。深く考えた様子もな、くまあいい、と呟いた。そして四つ折りにされた便箋くらいの大きさの紙を一枚渡された。
「……何これ」
思わず受け取ったがわけが分らず、はじめて私から―――――おそらく高校時代も含めて―――――彼に話しを振った。
「見ての通りメモ。気が向いたら行ってみるといい」
答えを聞いて開いてみれば、確かにメモで。初めの部分を読んでみるとどうやら道順のようだった。……ますますなんだかわからない。
「どこに辿り着くかは行ってのお楽しみ。たぶん気に入る」
私が口を開く前に、最も訊きたかった質問について先制されてしまった。
「……なんで私に」
仕方なく二番目に訊きたかったことを訊いた。
「もっともらしいことを説明したとして、何聞いても納得しないんじゃないか?」
「……」
事実だ。彼が私に話しかける理由を想像すらできない私が、いくらもっともらしい理由を聞いても納得などするはずがない。
「でもまあとりあえず、『気まぐれ』とでも言っとくか」
それが一番しっくりくるんじゃないか? 君には。……そう言われた気がして、背筋が冷える感覚を味わった。彼は私が普通を演じていることは知っているが、それだけのことでそれ以外はほとんど知らないはずだというのに、私と同じくらい私を分かっている。私を分かっているのなら。彼も嗤っているのではないか……“私”のように。そんな考えがよぎった。
「……そう」
そんな考えさえも見透かされるような感覚に、ことさら動揺を悟らせまいとした私を、そんなことはあり得ないと“私”が嗤うのが分かった。