終章
あれから五、六年が経った。あの壷から出て以来、“私”は私の中からいなくなってしまっていた。せっかく上手く折り合いがつけられそうだと思ったのに。あれだけ恐れていたにもかかわらず、いなくなられると寂しいと感じるのはなぜだろう。―――――いや、本来感じるのはおかしいのだろう。“私”も私なのだから。
“私”がいなくなって、私は普通を演じることをやめた。演じる理由がなくなったからだ。そして、演じることをやめた私は―――――どうやら自分でも驚くほど優秀だったらしい。そもそも、普通を演じるなどということは、そもそも普通であれば必要ないのだ。言い方は悪いが、普通ではないからこそ普通を演じる必要性が生じたのだ。思えばバカなことをしていたものだ。
それから、想像以上に社交的でもあったらしい。これには私自身が驚いた。もしかしたら今までの反動もあったかもしれない。昔からは考えられないほど交友関係が広がっていて、あちこちにコネも多い。あれから今日までにいろいろと有ったが、気付けば女でありながら、三十路前だというのに役職についてしまった。ごく普通のOLとして入社して、出世など夢のまた夢、どころか想像さえしていなかったのに。人生は何があるか分らない。
ここ二、三年ほど忙しくて参加していなかった同窓会に、たまたま暇が取れたので参加してみた。そして、あの同窓会以来始めて彼と再会した。
「……こんばんは」
今回は私から話しかけた。もう普通は演じていない。彼を恐れる理由はなくなった。驚くのではないかと期待したが、彼は驚くどころか笑顔で返してきた。
「こんばんは。……もう恐れてはいないようだな」
……むしろこっちが驚かされた。
「……おかげさまで。なんでわかるのよ?」
「どういたしまして。見れば分かる。楽しそうだ。あの店は気に入っただろう?」
「ええ。でも二度と行けなかったのよね」
実はあの店に行ってみようと何度もメモを持ってあの道順通りに歩いてみたのだがたどり着けなかった。一言お礼が言いたかったのに。
「一度使った道は二度と使えないからな」
普通の店であればそんな馬鹿な、とでも言うところだが、あの場所はどう考えても普通ではなかった。ならばそんなこともありだろう。
「そっか。せめてもう一度行きたかったんだけど」
「あまり何度も行くようなところじゃない。やめておけ」
しばらく会話が途絶えた。お互いに無言でお酒を飲む。既に酔っぱらった何名かを中心に騒いでいる音が妙に遠かった。ちびちびと飲んでいた私のコップの中のお酒がなくなってきたころに彼が再び口を開いた。
「あの店で買ったもの、今はどうしてる?」
「え? ああ。あの壷。部屋に飾ってあるよ」
そう。あの壷は私の部屋に置いてある。それも、よく見える場所に。私が新たに生まれ変わった、その記念として。私があの壷から出る時に連想したことは正しかったのだろう。きっと。壷から出た後。まるで生まれ変わったかのような気分だった。見るもの、聞くもの、感じるもの。何もかもがとても新鮮な気がして、何でもできる気がした。以前であればその高揚した気分に冷水を浴びせかけただろう“私”の嘲笑もなかった。だから今までしなかったことをやってみた。といっても自分の思うように動いてみただけだが。しかしそれだけで、私を取り巻く状況は一変した。現在を考えればそれはよく分かる。
「そうか」
「中に物が入れられないからただの置物状態だけど」
何せ開けられない。あの壷がどういったものか知っているから。もし今の私があの壷の蓋を開けたならば、その中にある天国はどんなものなのだろう。正直想像がつかない。今の私は不思議なほど満ち足りているから。もしかしたら今の私にはただの壷なのかも知れない。それに、もしまた私があの壷の中に入ったとしても―――――きっとすぐに出てきてしまうのだろう。
最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。書き忘れていたのですが、この作中に出て来る壷中天の故事は主人公の記憶がうろ覚えである、という設定の下、少し間違いがあります。 壷中天は辞書では「壷中の天地」と表記されている事が多い様ですが、意味は同じです。(もっとも、壷中天の故事には元々ほとんど意味はありませんが……)展開が強引だったり、早過ぎたり、先が読めてしまったり、脇役が主人公より優遇されてたり、こじつけが酷かったりするのは作者の未熟故です。これからまだまだ書いていくつもりですので精進します。それから、この作品はシリーズっぽく続きます。どれにも“店”は共通で出て来ますが、主人公は作品ごとに代わります。(ちなみに、“店”には店名がありません)シリーズ名を誰か考えてくださればうれしいです。