記憶
人と関わることが苦手だった。
だけど閉じこもることはできず、そして周囲の関心を買うことを恐れて孤立することもできなかった私は、自らを普通に見せかけることでその他大勢の中に埋没し、必要以上に人の興味をひかないよう努めた。ただ一人を除いて誰もそのことに気付かなかった。そのただ一人の例外は、私にこう訊いてきた。
「何をそんなに恐れている?」
と。
私が恐れていたものなど決まっている。“私”だ。しかしそんなことを答えても理解などされるはずがない。答える気もなかった私は「言っている意味が分からない。」と返した。それに彼は「まぁいいか。」とだけ言い、深く突っ込んでは来なかった。そのことに私は少なからず安堵した。もっとも、彼への警戒を解いていたわけではなかったが。彼の方は私の警戒など意にも介さず、話題を全く別の世間話に切り替えた。
委員会の作業をしながらの会話。それでも彼の作業ペースは落ちなかった。どういった会話をしていたのかはもう覚えていないが、確か本の話だったと思う。私と彼との共通の話題と言えばそれくらいのものだ。私は彼への警戒が解けず、言葉少なにしか返事を返さなかったが、話自体は面白かったと思う。よく自分のことや、自分の興味があることを一方的にまくし立てる人種がいるが、彼は基本的にそういったこととは無縁だった。相手も会話に参加できる、もしくは楽しめることを話した。私との会話の話題に本を選んだのもそう考えてのことだろう。そして、あれは確か彼が最近読んだという本の話をしていた時だっと思う。
「そういえば、話の中に多重人格では上位人格は下位人格を内包する、とか言う説だか持論だかがあったな」
「上位の人格は下位の人格を把握してる、ってこと?」
少々飛躍した解釈だったかもしれないが、私にはそう言っているように聞こえた。どういうわけかひどく興味をひかれて、一瞬警戒を忘れて返事を返してしまっていた。彼の目がほんの少しだけ細められたのに気付き、しまったと思った。だがやはり彼は私の内心など気付くこともなく頷き話を続けた。
「ああ。そう。まあ、事実かどうかはわからんし、あくまで考え方の一つにすぎない。この考えだと上位の人格は下位の人格がどんなもので、いつ何をしたかまで知っているらしい。逆に下位の人格は上位の人格のことは知らないんだとさ」
「へえ」
先ほどの反応の意味を測りかねて、それだけ返す。
「ここでミソなのは本来の人格がもう一つの人格より上位な場合。大抵、多重人格の人間は自分に別の人格があることを自覚しないらしいが、これはそれに矛盾するよな?」
確かに。別の人格が本人の人格より上位な場合、下位人格である本人の人格は当然上位の別人格のことを知らない。これは良い。だが本人の人格のほうが別人格より上位の場合、上位である本人の人格は下位の人格である別人格を把握しているはずなのに、実際には把握しておらず、多重人格者は自分で自分が多重人格であることには気付かない。
「で、これにどう説明をつけたか、っつうと、だ。本人の人格は別人格より上位だから別人格のことはやっぱり知っている。だが本来の人格と別人格の言動があまりにも解離しているために本来の人格がそれも自分だってことを認めない。結果として、下位人格の存在は認識されない、とこういうことらしい」
酔っぱらって記憶が飛んでいた間のことを他人から聞いて、その行動を自分と同一人物だと認めたがらないのと同じことだろうか。
頭の中で多重人格と酔っぱらいを同列にしながら「そう」とだけ返した。
「うまいこじつけだよな」
「……こじつけなの?」
「その気になれば反論なんていくらでもある」
その言葉に僅かに眉を顰めた。何か問題があっただろうか。
「上位人格だの下位人格だの言ってるが、その上位、下位って区別はどうやってつけるんだろうな?」
「あ……」
そういうことか。どんな人格が上位で、どんな人格が下位なのか。その区別は何によるのか。精神の年齢か、知能か、それとも身体能力か。すべてが同程度であればどうなるのだろうか。そもそもそんな区別が存在するのか。もしその区別が存在しないのであればこの説は理屈を捏ね繰りまわすだけ無駄だ。そう考えている私の前で、彼がクツリ、と笑った。
「お前の中の“お前”と、おまえ自身。それにも同じことが言えると思うが?」
わたしの動きが止まった。作業をしていた手はもちろん、脈拍までもが停止した錯覚に襲われた。
「上下の区別なんてないんだ。……恐れるようなことじゃないだろう?」