月を見上げて あなたを想う
「ミナ……また、夜空を見上げていたね」
意識して感情を抑えた声。
月でなく、夜空と言うのが彼らしい。
本当に、彼はあなただったのだろうか。
あなたと出会ったのは、五年前。
プライベートジェットでニューヨークに飛んだ。
ローマにも、イスタンブールにも行った。
エーゲ海からアドリア海、カリブ海もクルージングした。
あなたが好きなモンラッシェの白ワインは、当たり年を揃えた。
次はなにしたいって聞いたら、あなた、急に真顔で言った。
「ミナ。俺と一緒になってくれないか」
お金はない、仕事もない、自己複製の経験もない。
そんなあなたにプロポーズされて、わたし、笑っちゃった。
ごめんなさい。
でもね、キース。
わたしは自己複製手術を四回も経験して、あなたの何倍も長く生きているのよ。
肉体年齢は同じだから、知らない人にはお似合いのカップルに見えたかも。
けど、見た目通りの人なんて、わたしの周りでは絶滅危惧種みたいなもの。
だから、あなたが二十四歳と言ったとき、わたし、本当なのって確認したの。
士官学校で鍛えた肉体と、わたし好みの顔立ち。
遺伝子操作しなくてもハンサムなあなたは、リアルな二十四歳だってムキになって証明しようとしてくれた。
かわいかったな。
若さ以外は何もない、溢れんばかりの好奇心を持つあなた。
使い切れないほどのお金と空虚な心を持て余すわたし。
最初はね、単なる暇つぶしだったの。
ごめんなさい。
二十五世紀の現代、再生医療の分野は大きく進歩した。
複製した肉体に脳記憶データをインストールする、いわゆる自己複製技術により、人々は死から解放された。
否、富める者だけが死から解放されたというのが、より正確な状況。
株、債券、不動産など、短期で売買する必要のない資産は富める者が独占した。
単調な仕事はオートメーション化され、日々進化するAIは貧しい人々から仕事を奪い取った。
膠着した社会階層から抜け出せない者は、貧しいが故に自己複製の恩恵に与ることが叶わず、平均寿命の引き下げという統計学的な構成要素にすぎなくなった。
夢も希望も持てない人生。
士官学校を卒業したのに、あなたは任官が叶わなかった。
有力なコネのある富める者は士官になれたのに、貧なるあなたはなれなかった。
仕方ないよね。
軍の士官なんて、今では富める者のステータスにすぎないもの。
キース。あなたは知らなかったでしょうけど、任官されたあなたのお友だちは、自己複製して若返ったヒトたちばかりだったのよ。
一度くらいは軍服を着てみたいという格好つけなのかな。
わたしには理解できない。
でも、だからこそ、あなたをハンティングしたの。
士官学校の卒業パーティーは、富めるわたしたちの狩猟場だった。
見た目は若く、健康的な士官学校の卒業生たち。
特に、あなたみたいに未来を閉ざされた貧なる卒業生は、格好の標的。
ひとり仕留めれば一年、ううん、相性が良ければ三年は退屈しないですむもの。
わたしたちはハンター。
あなたたちはシマウマで、インパラで、トムソンガゼル。
そんな獲物の群れの中で、あなた、ひときわ変わっていた。
なんていうのかな。落胆していなければ、自暴自棄にもならず、呆れるほど前向きだった。
「泣いたり怒ったりして士官になれるわけじゃない。これからのことはゆっくり考えるさ」
落ち着き払ったあなたの声に、わたしは興味を覚えた。
なによりも惹かれたのは、吸い込まれそうな緑色の瞳。
今回はあなたにしようって、すぐに決めたわ。
「ミナのボディーガードみたいなものか? そうだな、金持ち娘の道楽にしばらくつき合うのも悪くないか。どうせ、明日からやることもない」
交渉成立。
わたしの友だちは、みんな、かしずかれるが好き。わたしは嫌。
あなたもわたしのこと気に入ってくれたから、あの時はすごく嬉しかったな。
「そうだったのか……嫌なこと聞いて、ごめん」
わたしたち、いろんなこと話したよね。
お世辞を言わないあなたが好き。
けど、あのとき、なんであなたが謝ったのかよくわからなかった。
だって、遺伝学上の両親がわたしに全財産を残して、この世からいなくなった話をしただけなのに。
あなた、珍しく動揺した。
わたしの両親は自己複製を繰り返して二百歳まで生きた。
ビジネスで成功し、飽きるまで人生楽しんだから、幸せだったと思う。
わたしが生来の富める者なのは、あのヒトたちのおかげ。感謝してるわ。
「キースも家族がいないの?」
あなたもひとりで生きてきたと教えてくれた。
少しずつあなたの境遇が理解できた。
貧なる者の最下層。
わたしとは真逆。随分違うわね。
「父さんはたくさん遊んでくれたな。日が暮れるまで、ずっとキャッチボールにつきあってくれてさ」
「母さんは優しかった。料理もうまくて、アップルパイは最高だった」
「幼いころ、一度だけ家族で旅行に行ったことがある。初めて見た海はでっかくて感動したよ。一日中泳いだ。俺と父さんは日焼けがひどくて、あとで大変だった」
事故で亡くなったあなたの両親は、貧なるだけでなく、自己複製否定主義者。
けど、そういう方たちだったのね。
話でしか聞いたことがない、家族という別世界。
あなたの思い出話を聞いてたら、なんだか胸が温かくなってきた。
わたしと両親の結びつきは、遺産目録を淡々と説明するビデオメッセージしかない。
赤ん坊のわたしを抱くどころか、ひと目見ることもなく、二人のDNAがヒトを形作るように手続きしたあと、さっさとこの世から消えていった。
富の継承。天文学的な財産を処分する典型的手段。
せめてわたしの名前くらいはちゃんと決めて欲しかったな。
あなたとは正反対。随分違うよね。
あなた、わたしの話を聞いて泣いた。
すごく大きな身体をしてるのに。
いま幸せかって聞くから、毎日楽しいわって答えた。
だって、あなたみたいな人、はじめてだったから。
出会って一年、あなたにプロポーズされたとき、わたし、驚いた。
ううん、はっきり言って困ったわ。
だって、わたしは異性絡みのトラブルでも自己複製をしていたから。
だから、わたしにふさわしい社会階層になれたら考えてあげてもいいわ、でも無理よね、そんなこと考えずに今を楽しみましょうって、笑いながらごまかした。
そう、逃げたの。
あなたの言葉を真剣に受け取りたくなかった。
あなたに深入りするのが怖かった。
あなた、すごく怒った。
出会って一年、はじめて怒鳴られた。
でもね、キース。
わたしは慎重なの。
だって、自己複製するとき、ほんとうに辛かった時期の記憶は削除できるけど、楽しかった思い出も一緒に失われてしまうから。
あなたは本気だった。
自分にできるのはひとつしかないといって、軍に再入隊した。
士官ではなく、最下級の一般兵。
陰惨で理不尽な扱いもされたみたい。
それでも、わたしの前ではいつも笑顔でいてくれた。
今度こそ、この人こそって、思うようになった。
なのに、しばらく会えなくなるって、月のピアリーコロニーに赴任するから三年は会えなくなるって、あなたは言った。
わたし、信じることができなかった。
ああ、この人も嘘ついてわたしから離れていくのねって。
本当だったのに。疑ったりして、ごめんなさい。
はじめての喧嘩。
それが、あなたとの最初で最後の言い争いになった。
すぐ仲直りしたけど、あれがきっかけであなたは本当に月へ行くことになった。
地球での最後の日、わたしはプロポーズを受け入れた。
結婚式は三年後の約束。
「じゃあ、行って来るよ」
あえて軽い口調で別れを告げ、あなたは去っていった。
軌道エレベーターで宇宙へ向かうあなたを見上げていたら、何年かぶりに涙がこぼれた。
月に行ったあなたは、毎日のように連絡をくれた。
嬉しかったな。
そばにいないのに、むしろ心が近づいていく感じがした。
月世界は地球を支える植民地。
あなたの任務、コロニーの治安維持はアクシデントが多かったみたい。
ディスプレイのなかのあなたは疲れた顔を見せるようになっていった。
でも、わたしたちの将来の話になると、すごく嬉しそうだった。
「隊長に家族の写真を見せてもらった。いつも厳しい隊長だけど、子どもの話になるとほんと優しい顔になる。父親ってあんな感じなのかな」
遠くを見るような緑色の瞳。
あなたは子どものころを思い出していたみたい。
「男の子が生まれたら、キャッチボール?」
自分の言葉に、わたしが驚いた。
あなたは現実にかえり、未来に微笑んだ。
「いいな、楽しいだろうな」
「女の子だったら、どうしたらいいのかしら? だって、わたしには家族の思い出がひとつもないから」
わたしはあなたを困らせてしまった。
それでもあなたは穏やかな声で答えてくれた。
「ミナ。心配ない、うまくやれるさ。俺たちには時間はいくらでもあるんだから」
薄っぺらで享楽的な一年より、離れ離れの三年の方が、あなたとわたしを強く結び付けてくれた。
三十八万キロ彼方のあなた。
わたしは月を見上げて、いつもあなたを想っていたわ。
「行方不明……ですって?」
あなたと連絡が取れない日が続き、わたしは軍に問いあわせた。
コロニーで暴動が発生し、軍と暴徒が激しく衝突した。
エネルギープラントが爆発して、軍人、民間人問わず、多くの犠牲者が出た。
混乱の中、あなたの姿が消えた。
歴史上の出来事を解説するかのように、淡々とそう告げられた。
目の前が真っ暗になった。
約束の三年。
あなたが戻ると言った三年まで、あと少しだったのに。
あなたを返してほしい。
月はなんて無慈悲なの。
わたしの大事なあなたを奪い去った。
悪いニュースはまだあった。
爆発の規模は大きく、記録保存施設も破壊された。
そこに記録されていたあなたの脳記憶データも消滅してしまった。
身は遠く離れていても心が近づいた三年。
その思い出は複製されることなく、永遠に失われてしまった。
もういい。
わたしは人生を終わらせようと考えた。
五回目の自己複製は希望しない。
あなたのいない世界は考えられない。
そこに、彼が現れた。
月での事故を受け、軍の責任下で自己複製された、彼。
ニューヨークに行った。ローマにも、イスタンブールにも一緒に行った、彼。
月での日々。あなたとわたしが溶けあった三年の記憶を持たない、彼。
相変わらず筋肉質でわたし好みのハンサムな彼は、事情を知ると、わたしにプロポーズした。
わたしは弱かった。
月を見上げて、あなたを想っていたわたしは、彼のプロポーズを受け入れた。
翌年、娘のハンナが生まれた。
彼によく似たハンサムガール。
もちろん、あなたにもそっくり。
けど、わたしと彼はうまくいかなくなっていた。
わたしが愛しているのは月にいたあなた。
わたしのそばにいるのは地球しか知らない彼。
「あいつが、いや俺自身だけど、どうにも気に入らない。自分で自分に嫉妬するなんて、妙な気持ちだ」
「月を見上げるミナは、俺を無性に不安にさせる。俺は月から地球を、ミナを見ていた記憶がない。俺なのかな、君と一緒にいるのは本当に俺で良いのかな」
彼は悪くない。彼は悪くない。でも、わたしだって悪くない。
悪いのはあなた。
わたしを置いていなくなってしまったあなた。
この先、何があっても、五回目の自己複製はしないつもり。
ハンナが生まれて間もなく、あなたと暮らしたマンションを手放した。
最上階、地上三百メートルの高さからは、毎晩月を眺めていられた。
わたしはあそこが好きだった。
彼が望んだのは、郊外の邸宅。
街全体がドームに覆われている。
浄化されたキレイな空気が満ちていて、子どもを育てるには最適な環境。
わたしの不満は、ホンモノの月を見られないこと。
夜にドーム内壁に投射される擬似夜空はよくできているけど、模造品の月はいつも満月。
夜間の明るさを一定に保つ措置、住民の要望だという。
誰もリアルな夜空に興味がないのでしょう。
アンティキティラのオーパーツ。月は満ちて欠けるもの。
わたしは夜にドームの外に出かけるのが好き。リアルな月が見られるから。
でも、彼は嫌がる。
ハンナの存在が、わたしと彼をかろうじて繋ぎ止めていた。
そんなある日、月が地球から離反した。
戦争? 反乱? 言葉の定義は別にいい。
現実的な問題は、地球が安全ではなくなったこと。
パワーバランスを司る物理的秩序が崩壊し始める。
事態収拾のため軍が編成する特別部隊に、彼は志願した。
「大丈夫なの? 危険じゃないの?」
「もちろん危険な任務さ。だが、誰かがやらなければならない。俺達が生きていくため、ミナとハンナを守るために、俺はやる」
ハンナの父親の顔が、鋼で拵えたような貌になる。
まだ言葉を話せない娘が少し怯える。
「そんなに怖い顔をしたらハンナが泣いてしまうわ。でも、今のあなたはとても生き生きしている。世界中をふたりで旅していたときよりも、それに……」
「それに、『月にいたときより』とでも言うつもりか?」
わたしが言いよどんだ言葉を言い当てたつもりか、彼は不機嫌そうに言った。
わたしが伝えたかったのは彼自身のこと。
一緒に娘の成長を見守りながらも、どこか歯車がかみ合わないわたしたち。
任務に向かうことで、しがらみから解放されるような表情を見せた彼に、わたしは苛立ちを覚えた。
「そんなつもりじゃない……もういい」
否定する努力を諦め、わたしは彼を送り出した。
戦闘で命を落としても、軍の責任において自己複製される。
とはいえ、わざわざ命を危険にさらしてまで、月の奪還作戦に手を挙げる者は少なかった。
否、士官の中から応じる者がいなかったのが、より正確な状況。
なぜか。
作戦の成否に関わらず昇進が約束される。
十分な報酬も用意されている。
富める士官が興味を覚えない条件は、持たざる者にとっては夢のような提案。
わたしと一緒になっても、彼はわたしのアクセサリーみたいに見られていた。
男のプライドってやつ? 彼は自分の力で未来を切り開きたかったのね。
彼のそんなところは、あなたと同じ。
「デヴィッドって、誰のこと?」
「俺だよ。今日からデヴィッドと呼んでくれ」
特別訓練を終えただけでなく、キースからデヴィッドに変名した彼が帰宅した。
厚い胸板を覆う黒色の制服は、あなたも憧れていた連邦宇宙軍のもの。
誰もが一目置く、エリート中のエリート。彼は実に誇らしそう。
肩に階級章がないのは、まだ正式に任官されたわけではないということなのでしょう。
黒い軍服に抱っこされたハンナは、泣いて嫌がった。
「ちぇっ、しばらく会わないうちに忘れられちゃったのかな」
娘をあやすわたしを見て、彼は寂しそうな顔をした。
「君だから正直に話す。月を占拠しているテロリストには情報戦では敵わない。だから月奪還作戦のメンバーは素性を隠すために新しい名前が与えられたんだ」
候補者に付けられた名前は、訓練や事故で亡くなったが、自己複製の道を選ばなかった士官のもの。
軍としても公にしていない情報らしく、極めて秘匿性が高いとのこと。
新しい名前がどこまで作戦の成否に影響するかは分からないけど、彼にとってはコードネームみたいなのか、むしろ自慢気ですらある。
「……作戦は、十日後決行される。世界中からロケットが一斉に打ち上げられるが、ほとんどがダミーで本物は二機のみ。俺はタネガシマの基地から本物のロケットで飛ぶ」
うつむいたまま、わたしと視線を合わせず、ボソボソと話す。
本当はすごく怖いんだって分かった。
月での辛い三年間がないせいか、彼の方があなたより繊細な気がする。
けど、弱さを見せまいとするところは同じ。
「これが終われば俺もミナと同じ社会階層の一員だ。胸を張って、そう言い切れる。少尉にはなれるんじゃないかって仲間たちも言ってる。だから、だから……」
ようやく視線が交わる。
すがりつくような緑色の瞳。
思わず目をそらす。
作戦が成功する確率はすごく低いんだって分かった。
彼もあなたもポーカーが苦手。
自分は犠牲になり、自己複製体に未来を託す。
それって逃げてない?
あなたならどうしたかな? 同じことしたかな? そうじゃない気がする。
デヴィッドの娘は泣き疲れたのか、いつの間にか眠っていた。
わたしはハンナをベビーベットにそっと寝かせた。
振り返ると、彼はもういなかった。
ロケットの打ち上げから作戦の失敗まで、すべてが世界中に中継された。
月奪還作戦は彼が教えてくれた十日後ではなく、一週間後に開始された。
彼にも偽の情報が与えられていたのだ。
なぜそう言い切れるかって?
彼は絶対、わたしに嘘をつかないから。
極秘なはずの打ち上げが全世界に中継されたのは、地球の意志ではなく、月が決めたこと。
テロリストに情報戦では敵わないという彼の言葉は真実だった。
その日、その時刻。
世界中の全てのチャンネルがロケット発射の瞬間を映し出した。
クラッキングによるアウトオブコントロール。
政治ニュース、スポーツ、市況、天気、娯楽番組。
何の前触れも説明もなく映像は切替わり、世界中が生き証人となった。
世界各地から発射された十五機のロケットのうち、大地を離れたのは二機のみ。
ダミーの十三機は地上を離れることがなかった。
ボストチヌイ、ヴァンデンバーグ、西昌……カウントダウン一秒毎、紅蓮の炎に包まれた。
ケープカナベラルとタネガシマの基地は、発射には成功した。
彼はタネガシマ。
彼と仲間の十人は宇宙に向かって飛び立った。
灰白色の巨大な推進装置は忘れられかけていた歴史的遺物。
存在価値を軌道エレベーターに取って代わられてから、博物館でしか見ることのなかった宇宙開拓時代の象徴。
いずれも半年余りの突貫工事で製造されたもの。
よもやこのような目的で再び世に出るとは、誰も思わなかっただろう。
作戦について、彼はこうも打ち明けてくれた。
「こんな少人数で月の奪還を目指すわけではない。ダミーの十三機はミサイルで、直接月に撃ち込む囮だ。テロリストが混乱する隙に、俺たちが宇宙ステーションを確保する。宇宙ステーションと軌道エレベーターを取り戻すことが出来れば、主力部隊を宇宙に送り込める」
月奪還のための橋頭堡確保。
その決死隊が成功することを、彼自身、あまり信じていないようだった。
ましてや、ダミーミサイルが全て地上で破壊されたとき、彼はどんな気持ちになったのだろう。
フロリダのケープカナベラルから飛び立ったロケットは、メインエンジンに不調をきたし、予定軌道から大きく逸れて落ちていった。
それは地球が予定していた計画にはなく、乗組員が選択したわけでもない。
月のテロリストたちがそうすることを決めただけ。
タネガシマのロケット。
彼が乗ったロケットの最期は、ケープカナベラルとは異なった。
画面のなか。突然、爆発四散し、無数の火球となり果て、海に落ちていった。
これも月が描いた展開。
凄惨なショーに世界が言葉を失った。
映像以上に、乗組員の断末魔が、地球が月に敗れたことを世界中に知らしめた。
ベビーベットでハンナが泣いていた。
わたしも泣いた。
彼を想って初めて泣いた。
突如中継は変わり、顔にひどい火傷痕のある男が姿を見せた。
ディスプレイのなかの若いテロリストは、寂しげな緑色の瞳をしていた。
男は言った。
これ以上、無駄なことは止めろと。
それは聞き覚えのある、懐かしいはずの声。
そんなはずはない。
あなたは一年前に死んだ。彼も今死んだ。
ベビーベットでハンナが泣き続けていた。
わたしは意識を失った。
ひと月後、自己複製したデヴィッド少尉が帰って来た。
鍛え抜かれた肉体と宇宙に飛び立つ直前の記憶を持つ彼。
念願の士官となった彼は、もしかしたら誇らしげな顔で現れるかと思っていたけれど、その表情は暗かった。
原因は、やはりあの男だった。
彼にも分かったのだ。
あの男は、あのテロリストは、あなただと。
彼は言った。
また月を目指すと。
その後、彼は二度自己複製した。
合計三度も自己複製手術を経験した士官は彼だけだった。
なぜなのか。
望んでいた士官になれたのに、なぜ命の危険を冒すのか。
士官になることが目的の彼の同僚にとって、月の奪還など名分にすぎない。
デヴィッドもはじめは同じだった。
だが、月の奪還どころか、軍で功績をあげることも、彼にとって真の目的ではなくなっていた。
デヴィッド中佐となった彼は、四度目の作戦実施を直訴したが、叶わなかった。
彼は月を睨んで、あなたを呪った。
地球は月にひざまずいた。
月がなければ、地球の文明は成り立たない。
その施しがなければ、我々は生きていけない。
あなたがなぜ月にいるのかわからない。
あなたは死んだのではなかったのか。
生きているなら、どうしてわたしの元へ帰ってきてくれないのか。
彼があなたを憎む気持ちはわかる。
わたしが今でもあなたを想うから。
月を見上げて、あなたを想う。
あなたは何を想うのか。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
ご感想等がございましたら、お気軽にお寄せ下さい。