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五月が明けると、初夏の前触れらしい暖かさが訪れた。気候は安定し、日差しはだんだんと強くなってくる。
蒸し暑さすら覚える外の熱気に嫌気がさし、職員たちは五月下旬からすでにフルで冷房を稼働させていた。そして六月の後半になると、人が行きかう一階はゼンさんたちにとって寒いくらいになった。
日曜日のこの日、市の職員の視察と、普段より多い入園者の家族の来客が重なり、一階は忙しくなっていた。
ゼンさんに言わせれば、もっぱら看護師たちは、来客たちに愛想をまきながら入園者を見張るのが仕事みたいなものだ。「少しでもあたしらに不利なことを喋ってごらん、承知しないよ」とその目は語っているようにさえ思えた。
とはいえ、来客が誰だか分からない者が大半だろう。普段ぼんやりとしている老人の内、来客の出入りを何か楽しいことだと感じて、上機嫌ににこにことしている者もあるけれど、面倒事を避けるように引きこもって沈黙している入園者もいる。
室内には冷房がかけられているにかかわらず、ゼンさんは『開けるな厳禁』という注意書きの紙が貼られた窓を開けて、いつもの顰め面で下に広がる庭園などの風景を見降ろしていた。
「ふんっ、一階は戦場かね。おかげで、こっちの個人部屋のあるフロアは、静かでせいせいするぜ」
「こう言ってはなんだけど、確かにそうよねぇ。いつもみたいにいきなり入って来られて『今何をしているの』といちいち確認されることもないから、のんびり出来るわね」
「うん、そうだね」
カワさんは、ゼンさんとミトさんの意見を控えめに肯定した。机とセットになっている例の椅子に腰かけて、身をすぼめて両手をもじもじさせている。その視線は、車椅子に腰かけて読書をするミトさんにちらちら向けられていた。
三人はこうして、来客が多い日はよくゼンさんの部屋に集まっていた。やろうと思えばそれなりの行動力を起こせるのは、自分たち三人だけだとも感じていたから、何か企んでいるのではないかと疑われるのも嫌で、職員にその様子を悟られたくない考えもあった。
カワさんが、廊下側の穏やかな静けさに耳を済ませた後、窓の外を眺めるゼンさんの横顔に視線を投げた。
「何か見えるかい?」
「庭園を自慢げに紹介している、例の人気があるあの男の医者と、その取り巻きの若い男の医者の連中。入園者と家族が一緒に庭園の散歩をしている様子を、奴らが視察の連中に紹介してるのが見える」
そう答えるゼンさんの声には、刺があった。彼をここに放り込んだ一人息子が『建物の外に出さないでくれ』と告げ口したため、まだ一度も庭園に足を踏み入れたことがないのも苛立ちの理由の一つだ。
長年やめられなかった毎日の酒に加えて、肺の機能を著しく悪くした大量喫煙もある。建物から出たら煙草をやるかもしれませんよ、と律儀にも彼は念を押していったのだ。
くそ忌々しい。
その言葉が、何度もゼンさんの脳裏をかすめる。
数十年前に妻が引き取ったはずの一人息子のおかげで、部屋の窓にも室内にも、コンパクトサイズの火災装置機が取り付けられていた。それは安物ではあるが、ミトさんやカワさん同様に、親族から大金をつかまされたに違いないという想像が拭えない。だから、ゼンさんはそれを思って、再び大きな舌打ちをした。
「くそっ、煙草が吸いてぇな」
「この前はお酒だったわね」
ミトさんが、少しおかしそうにそう言った。
ゼンさんは、ややあって窓から彼女の方へと視線を向けた。
「酒はもう懲りたんだ。今は、美味いメンソールの煙草が一本あればいい」
「あら、そうなの?」
「ゼンさんはよく吸いたがるけれど、煙草って美味しいのかなぁ……? 葉巻をやっていたけれど、どんなに高くても味は変わらないし、美味しくなかったよ」
大企業の元社長らしい華やかな生活を思わせる、けれど当人は微塵にも気付いていない様子で、カワさんがのんびりとした呟きを上げた。
彼とは全く逆の生活を送ってきたゼンさんは、いつもの条件反射で「黙れ金持ちが」と告げてすぐに、罰が悪そうに頭をかきむしって謝った。
「ああ、くそ――すまん、俺は言葉が悪いだけで怒ってはいない。金持ちなのが悪いわけじゃなくて、単に俺が葉巻を知らないってだけさ。俺の家を売った金が、こんなところにつぎ込まれていると思うと、むしゃくしゃしちまって」
ゼンさんは言いながら、カワさんの怯えた表情に安堵が戻ったのを見て、肩から力を抜いた。
「なぁカワさん、あんた、喧嘩もしたことねぇだろ」
「それ前にも訊いてきたよね。怖いことには関わったことがないなぁ」
その時、カワさんの隣で、ミトさんが可笑しそうに笑ってこう言った。
「ほんと、いいわねぇ。こうして普段からずっと、長く三人でゆっくり過ごせればいいのにと思ってしまうわ」
「ほ、ほほほほんとうですよね。僕もそう思いますッ」
二人っきりの方がいいんだろ、とゼンさんは、にやにやしてカワさんを見やった。少し頬を赤らめたカワさんが「違うんだよ」と慌てたように言い、不思議そうに見つめるミトさんから視線をそらして、「えっと、その」と返す言葉を探す。
「僕は誰かがそばにいて、くつろげるなんてことがこれまでになかったんだ。いつも秘書か幹部にやってもらって、必要なことについてキーボードを叩けばいいだけだった。でもゼンさんに出会って、ミトさんと出会って、友人がいたらこんな感じかなって……」
「同じ飯を食って、同じところで寝起きしてんだ。もう俺たちは友人さ」
三人のいる空間には、いつも穏やかな時間が流れていた。
ゼンさんだって、これまでに友人付き合いというものはなかった。彼は喧嘩っ早い頑固者で、そのうえ飲んだくれ親父だったから、心配してくれるような相手だっていなかったのだ。こんなに穏やかな関係というのも経験にない。
「ねぇ、向日葵は好き?」
ふと、ミトさんがカワさんに尋ねた。
カワさんは、彼女に向かって「好き」という言葉が言えず、どもりまくったあと大げさに何度も頷いて見せた。ミトさんは微笑んで、続いて顰め面が通常顔のゼンさんに視線を向けた。
「ゼンさんは?」
「好きだったよ。うちの別れた女房が、庭に植えていた」
ゼンさんは言葉短く答えた。ミトさんは「そう」と呟いて視線をそらすと、木漏れ日のような日差しが差し込む窓の向こうを、懐かしむように眺めた。
「十代の頃に、婚約者の庭でたくさんの向日葵を見たわ。こんなに暖かい花なのねと気付いて、一目で好きになったの。……よく向日葵畑を見に行ったわ。子供がないまま死別してしまったけれど、二番目の夫も向日葵が好きだった」
その話が途切れたタイミングで、ゼンさんは、チラリと横目に彼女を見た。
「そうだったのかい。俺も結婚する前に見に行ったことがある、入場料が安い小さい向日葵畑だったけどな」
「僕の家の近くに『向日葵の丘』って呼ばれていた友人の豪邸があって、よくお邪魔したなぁ」
三人は、しばし思い出すように沈黙した。窓から風が吹き込み、めくれそうになる膝の上の本のページを、ミトさんがそっと押さえた。
ゼンさんは窓の向こうを見た。どこまでも続くような青い空が、白い雲を漂わせてそこには広がっていた。人で賑わう庭園は見慣れず、窓を通してどこかのドラマを見ているようだと彼は思った。
庭園には、車椅子の入園者たちがいる。夢見心地に目で蝶を追いかける者。話す大人たちにも無関心のまま宙を眺め、垂れてくる涎を看護師に拭われる者。中には「どちら様ですか?」「そうですか、いい天気ですね」を繰り返す者。車椅子の背に頭をもたれて眠る者。言葉を話せず、家族と認識も出来ないまま微笑む者……
「ここは、俺たちのいるところじゃない」
ゼンさんは、やや強い声で低く呟いた。カワさんとミトさんが振り返り、彼らの視線をぴんとのびた細い背に受けながら、ゼンさんは歯を食いしばるようにうめいた。
「だって、そうだろう……? 俺たちは、どこも悪くないんだ。三人でだって生活していける」
しばらく、誰も何も言わなかった。何度か吹き抜ける風の音を聞いた後、ミトさんがようやく「そうねぇ」と吐息混じりの声をもらした。
「三人で暮らせたら、楽しいでしょうねぇ」
ゼンさんは相槌を打つように頷いたが、その真剣味を帯びた横顔がふっと雲る。
「…………年寄りは、邪魔でしかないのだろうか」
俺は、こんなにも変わろうと努力したんだ。
ゼンさんは誰に告げるわけでもなく、ぽつりと呟いた。
何度酒を断とうとしたか、離れて暮らすゼンさんの家族は知らないのだ。肝硬変の合併症で倒れた時、病院で目を覚ました彼は、すっかり立派な中年男になっていた背広姿の人間が、はじめは自分の息子だと気付けなかった。
けれど苦しい表情をしたその男は、目覚めたばかりのゼンさんに向かってこう言ったのだ。「俺たちに迷惑をかけるのは、これ以上よしてくれよ」と――。
母さんが死んだのも、全部、親父のせいだ。
数十年ぶりに顔を合わせた息子の口から出た言葉が、ゼンさんの胸に深く刻まれている。聞いた話によると、別れた後、妻は再婚したその年に倒れたのだという。
ゼンさんとの結婚生活の苦痛から、神経性の病で内臓はぼろぼろになっていた。そして、そこで見つかったのが肺癌だったのだ。
闘病生活も虚しく、その五年後に亡くなった。
当時息子は、成人したばかりだったという。
妻は煙草を吸わなかった。家中をヤニだらけにし、いつも煙たい空間にしたのも、飲酒により凶暴になって暴力をふるってしまったのも、すべてゼンさんの方だった。彼女はいつも息子をかばいながら、部屋の隅で小さくなっていたから。
独りで暮らすことが、寂しいなんて思ったことはない。妻がいなくなったあと、女一人で自分を育ててくれた母親を引き取り、ゼンさんは自宅で付きっきりで介護した。
ゼンさんは強い男だった。それなのに、高齢だった母が他界し、同じ空の下で生きていたはずの妻が、とうに亡くなっていたと知ってから寂しさを覚えた。
再会した息子によってこの施設に放り込まれ、長年住んでいた家を失ってから更に気持ちは沈んだが、カワさんやミトさんと話せることが心の支えになっていた。
「ここを抜け出して、三人で暮らそうか」
ぽつりとゼンさんが尋ねると、顔を上げたカワさんが悲しそうに眉尻を落として、ミトさんが弱々しく首を横に振った。
「きっと出来ないわ。私たち、家族が許可しないかぎり、ここから出られないもの」
「でも、ずっとここにいたら本当に病気になっちまう。そうなったらおしまいだ、何もかも間に合わない。それに見てきただろ、ここは俺たちが暮らせるような場所じゃない。俺たち三人以外、誰もまともな奴なんていないじゃないか」
ゼンさんは、窓の向こうの風景を指してそう言った。
「生きてはいるが、夢も希望も自分の生活もない毎日だ。ただ、生きているだけだ。ただただ、生かされているだけじゃないか」
「はじめは、私以外にもこうして話せる人がいたのよ」
唐突にミトさんが、ゼンさんの話しに口を挟むようにそう言った。
「二人とも痴呆が進んでしまったの。私たちが誰だか分からなくなってしまって、家族が来ても反応しなくなった。老化というのはそういうことよ。いつそれがやってくるのか、誰にも分からないわ。だから私は、ここにいてもいいと思っているの。向日葵が見られないのは残念だけれど、でも、許可さえあれば外出だって出来るでしょう?」
「じゃあ、三人で向日葵畑を見に行こう」
その時、カワさんが強い口調でそう告げた。興奮して座りなおした際、まとわりついた脂肪が上下して揺れた。
ゼンさんは窓際でその提案について考え、それから顰め面を厳しくした。
「つまり外出するってことか? そんなの出来っこないだろうに」
「いいえ、カワさんの提案はいいと思うわ。私たちは入園者状態がCランクではないし、尚且つ親族の許可をもらって申請を通せば、時間を決めて外出していいという規則項目だってあるのよ」
「じゃあ、ここにいる連中のほとんどはCランクってことか? 俺は外出した連中を見たことがないんだが」
「ええ、多分そうなのかもしれないわね。私も実際に出入りしたという人の話は、聞いたことがないから…………」
ゼンさんは、しばらく考えた。そもそも、こちらから無断で電話をかけることも禁じられているうえ、手紙も中身までチェックされる始末だ。これはまるで、外に情報をもらしたくないと言わんばかりではないだろうか?
親族に許可をもらって申請を通せばとはいうが、そんな愛之丘老人施設が、介護が必要ないからとはいえ、入園者三人の外出をまとめて許可するだろうか。
ゼンさんの表情から悩ましさを見て取り、ミトさんは心配そうに続けた。
「私たちが警戒されている可能性は、あると思うわ。だって施設の現状を見ていて、正確にそれを外へ訴えることが出来るもの。彼らの切り札と言えば、私たちの言動がすべて架空のものだと、レッテルを張れることかしらね」
「じゃあ初めっから、まともな経営すればいいのにな」
ゼンさんのぶっきらぼうな物言いを聞いて、カワさんが同意するような苦笑を浮かべた。まともな意見だと思ったのだろう。遠慮がちに口元に笑みを浮かべるが、その困ったようにも見える表情は複雑な心境を映してもいた。
「確かにここの方針はむかつくが、改革なんてのは無理だろうし、どこの老人ホームだって同じようなものだと俺は思ってる」
そもそも、とゼンさんは言葉を続けた。
「頭の方の老化が始まると、我が儘に手をつけられなくなった家族が施設に頼むって感じなんだろ? その場合だと、ここの職員ほど図太くて傲慢な奴の方が対応出来るとは思うんだ。ただな、俺としてはそれにあてはまらない、俺らみたいな人間が、こんなところに放り込まれている現状が許せないだけなのさ」
ゼンさんは自分やカワさん、ミトさんを顎で指し示した。けれど自分たちには引き取ってくれる家族がいないのも事実で、次に繋げる言葉も見つからず口を閉じる。
ひどい施設なんだと誰かに訴えれば、愛がなくとも同情でどうにかしてくれそうだという可能性は浮かぶ。しかし、それが成功する勝算が見込めない状態で、伝えようにも職員の目が隅々にまでいき届いている現状を考えると躊躇を覚える。
今のこの暮らしを終わらせるには、どうしたらいいのか?
「連絡を取り合うしかないでしょうね。孫と一緒に暮らしたいとか、死ぬ時は家でとか、色々と問題のない理由をつけて……家族と話し合うしかないわ」
「でも、どうだろう。僕も話してはいたんだ。けれど『父さんは僕たちに迷惑をかけたいの?』と言われれば、ここにいた方がいいのかなとも……」
迷惑、という言葉がゼンさんの胸を突き刺した。眉根を寄せ、彼は背中越しに窓枠を握りしめた。
ミトさんは、悲しげに微笑んでこう言った。
「職員たちを刺激しなければ、このまま上手くやっていけると思うわ。私は一年、ここで無事に過ごせたんですもの。こうして三人で話せればいいし、――贅沢を言えば、三人でピクニックなんて行けるようになったらいいわね」
準備にも移せない夢のような話をして、彼女は膝の上にあった本にそっと栞を挟んで、静かに閉じた。