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 小高い丘の上にある、来客用の広い駐車場と噴水付きの美しい庭園も持った、公園と公共施設が融合したという印象が強い大きな白い建物が、愛之丘老人施設だ。


 一人一人の健康管理がいき届いた食堂と、老人たちが自由に過ごせるコミュニティ広場を一階に設置し、二階からは個室の宿泊施設となっていてプライベートが守られている。

 技術と免許を持った専門医、看護師、栄養士、薬剤師はどれも長い経験と実績を持つベテランで、入園費は高額ながら人気を誇っている施設だ。設立歴史は長く、外部からの評価はすこぶる高い。


「ふん、『くそくらえ』だ」


 二階の自分の部屋から朝の庭園を見下ろし、ゼンさんは、広い敷地内を覆う高い塀を睨みつけた。深い皺が刻まれた皮ばかりの褐色の顔には、嫌悪感を露わにしていた。彼は今にも舌を打つ表情で、よく乾いてしまう薄い唇を舌先で湿らせる。


 ゼンさんは、今年の春に八十五歳になっていた。痩せ過ぎて深い皺が目立つ顔は老人そのもので、その眉間には長年連れ添った消えない皺も刻まれていたが、すらりと伸びた長身で背もぴんと伸びている。


 ワンルームほどの個室部屋の室内には、ベッドと机が一式、小さな本棚が一つあるばかりだ。

 ほとんど白髪になった薄頭を撫でつけると、ゼンさんは「ふん」と鼻を鳴らしてベッドに腰を降ろした。アルコール性肝硬変により黄色くなったごつごつの手が、ベッドシーツを握りしめる。


 机の前の椅子に腰かけていた七十八歳のカワさんが、ゼンさんの顰め面を見て、条件反射のように「おっかないなぁ」と丸みを帯びた肩をすくませた。


 カワさんの百五十八センチの小柄な身長は、身体中を覆う分厚い脂肪に加え、猫背、腰痛もあって小さな巨体を作り出している。肌はぷるぷるとして誰よりも健康的で、一見すると実年齢よりも一回り以上若い印象があった。


「なぜ俺たちが、こんなところにいなくちゃいけないんだろうな」


 ややあってゼンさんは溜息をもらした。引っ込み思案なカワさんも、眉間の皺がトレードマークのゼンさんも、三ヵ月前の同じ日に入園した者同士だった。


 カワさんは、もじもじと足の間で両手を擦り合わせてこう言った。


「介護が必要だからじゃないかな。家にいると、家族に迷惑をかけるらしいし……」

「介護が必要だって? 冗談じゃない、俺はまだぴんぴんしてるぜ」


 ゼンさんは、同じく非介護であるカワさんをジロリと見た。

 彼はぶっきらぼうなうえ目付きが悪いだけなのだが、そうだと知っていても、小心者のカワさんは、つい睨まれたと思って小さく委縮してしまう。


「そもそも考えてみろよ、カワさん。ここにいる連中は自分でトイレもできねぇし、話も通じない。ここにいるだけで俺は病気になって、伏せっちまいそうだぜ。保険だって高額降りてんだ、一人暮らしだって出来る。そうだろう?」


 話を振られたカワさんは、元社長という威厳も貫禄もない呑気な表情で、のんびりと首を傾げた。


「どうだろう? 確かに充分なお金は振り込まれたけれど……正直、家にいると居場所がないんだ。僕がここにいてくれるほうが皆、安心すると言ってくれるし…………」


 ゼンさんは、そう口にしたカワさんの、実年齢よりも随分若く見えるぷるぷるとした饅頭のような白い顔を目に留めて「ただの厄介払いさ」と意見した。


「俺たちに支給されている金を自由に使いたいんだろう。買い物だってしたいし、旅行にも行きたい。でも、俺たちが邪魔なんだ」


 そもそもな、とゼンさんは片手を振って続けた。


「俺は独りで暮らしていたのに、土地を売りたいだの、面倒が見られないからここにいてくれだのといちいち理由をつけやがる。数十年も前に離婚していたんだぜ? なのに、あいつら突然来やがって……まだ三ヵ月だってのに、もう俺の家はなくなっちまってる」


 くそっ、とゼンさんは悪態をこぼし、壁にかかっている施設のポスターを一瞥した。


「なぁにが『愛と夢がある素晴らしいところ』だよ。監獄もいいところだぜ。職員連中は悪の親玉の子分みてぇなもんだろ。全く、くそくらえだ。――それ、もうそろそろでアレが来るぜ」


 ゼンさんは顎をくいっと動かせて、カワさんに開いたままの扉の方を見るように促した。

 すると、途端にカンカンカンカンッ、とけたたましい音が廊下から響き渡った。フライパンを乱暴に叩いているような音だ。それは廊下を足早に進みながら、ついでのように野太い女の声が「ゴハンの時間だよ!」と喚く越えまで聞え出した。


「今日は来客がないんだな、ひでぇ『声掛けの合図』だぜ」

「うん、そうみたいだ」


 ゼンさんとカワさんは、揃って鍵のついていない閉められた分厚い扉を見つめて、その声が通り過ぎていく様子に身身を傾けて沈黙した。



 愛之丘老人施設では、毎日のカリキュラムが細々と組まれ定められていた。個人によって薬の飲用時間やリハビリの項目予定は変わるが、食事の時間と就寝時間はきっちりと決められている。


 けれどパンフレットで大々的にアピールされている施設の一つである、コミュニティルームの使用も、看護師付きが条件となっていて三割の入園者も利用していなかった。

 庭園はあるが、ゼンさんたちは基本的に単独で建物から出ることは許されず、来客があったときだけ「いつも自由に出入りしています」という状況を作るのだ。



 入園者の半分は寝たきりの者が多かった。残りは、それぞれ病や疾患を抱えており、身体が頑丈で強いという入園者は一人もいなかったせいでもある。


 ゼンさんは体力が落ちているため長く歩行が出来ず、カワさんは重度の肥満で膝を悪くして短い運動がようやくだった。だから館内を回る時は、それぞれ部屋の外に置かれている車椅子に乗る。

 車椅子は、全ての入園者に与えられているものだった。そして、広い施設内でそれを利用しない老人というのもいないため、大抵の職員は、扉の前にある車椅子で入園者の有無を確認していた。


 ゼンさんとカワさんは車椅子に乗ると、エレベーターを使って一階に降り、そのまま食堂へと進んだ。頭巾とエプロンを着用した小太りの中年女性が、真っ赤な唇を動かして「朝食が始まりますから、席について」と老人たちを急かしていた。


 五十人以上の人間が座れる食堂には、ゼンさんたち以外にも、車椅子に乗った老人たちがゆるゆると集まりつつあった。眉をつり上げた不服顔の看護師たちが、彼らに「こっちですよ」とぶっきらぼうに言って、適当な席に車椅子を固定していく。


「やれやれ」


 ゼンさんは胸ポケットから老眼鏡を取り出すと、テーブルに置かれていた新聞紙を広げて必要な欄を読み進めながら、さりげなく室内の様子を窺った。隣のカワさんは、もじもじと手を動かしつつ落ち着きなく左右を見やる。


 思考能力がハッキリしている二人は、こうやって朝食時に、施設の内部を観察することから一日を始めていた。


「カワさん、あの小さなイトミネの婆さん、見えるかい?」

「ああ、見えるよ」


 ゼンさんは、新聞を持ち上げて声を潜めた。カワさんは俯きがてら、看護師たちに唇が見えないよう肩をすぼめてそう答える。


 五月の過ごし易い気候もあって、朝は冷房機が止められ、空気の入れ替えのため開かれた大窓からは涼しげな風が吹き抜けていた。おかげで薬品臭や、女性看護師たちのきつい香水の匂いも薄れてくれている。


「あの人は自分で車椅子も押せないから、ああやって、いかつい看護師が押している。あの車椅子の肘置きに置かれた彼女の左腕、真っ白なところに、ほら、紫の痣があるだろう?」

「…………また、抓られたんだね」


 カワさんは、遅れてそれを目に留め、ごくりと息を呑んだ。


 イトミネ婆さんは、九十歳を越えている入園者だった。量の少なくなった真っ白なチリチリの髪、どんよりと曇った瞳は、色素が薄くなって少し白みかかっている。

 肌は雪のように白く、顔の染みやいぼが遠くからでもハッキリとした。手足は細く、ふっくらと垂れ下がった皺の肌には、大きさがまばらな浅黒い染み以外にも、打撲に似た小さな痕がはっきりと浮かび上がっている。


 二人が注意深く辺りを窺っていた時、一台の車椅子がこちらに近づいてきた。


 カワさんが頬を染めて小さく飛び上がる様子を視界の端に認めて、ゼンさんは誰が近づいてきたのか分かった。眉間の皺を浅くして、出来る限りの微笑を浮かべて振り返る。


「やぁ、こんにちは、ミトさん」

「はいはい、こんにちは、ゼンさん」


 そこにいたのは、今年七十八歳になるミトさんだった。白い髪は艶やかで量があり、ふっくらとした桃色の頬も可愛らしい。小さな丸い目は愛嬌たっぷりで、年齢だけでなく背丈もカワさんと同じくらいだった。


 彼女は事故で両足を悪くしてしまっていたので、細く未発達な足を恥じらうように日頃からブランケット等で覆っていた。


「カワさん、お隣よろしいかしら?」

「はいッ、どうぞ!」


 どうやら入園してから、カワさんは彼女に一目惚れしたらしいのだ。その事情を知っているから、ゼンさんは呆れて彼に横目を向けた。


「カワさん、緊張せんでもよろしい。とにかく落ち着け」

「ええ、そうよ、カワさん。看護師が来てしまうわ」


 ミトさんが声を潜めてそう言った。ギクリとしたカワさんは、看護師たちが食事の配膳に余念がないことを見て、ほっと胸を撫で下ろした。ゼンさんは、老眼鏡を下にずらして睨みをきかせた後、新聞を読んでいる風を装った。



 一年前にミトさんは入園していた。息子夫婦が他界してしばらく一人暮らしをしていたが、孫や親戚が「痴呆が始まっているのでは」と言い訳して施設側に大金を握らせての入園だった――

 と二人はミトさんに聞いていた。彼女は憤慨するよりも打ちひしがれ、遠い親戚の者が送ってくれる本を、毎日の楽しみにしているのだと出会い頭に語っていた。


「古本屋から買い集めてくれていましてね。古い作品なのですけれど、良作が多いの。ただ、字がすごく小さなものもあるから、それだけが少し不便かしら」


 あの時、ミトさんは、先月替えたもので八個目の老眼鏡だったと口にして、「歳を取るっていやねぇ」と楽しげに笑った。ゼンさんとカワさんは、そんなミトさんの姿を目に留めて互いの顔を盗み見たものだ。


 今でもそうなのだが、二人ともこれまでミトさんの『老化に伴う病』の兆候は老眼の他は見たことがなかった。入園して三カ月一緒に過ごしてきたが、彼女はヒステリックに泣き叫ぶこともなければ、読み書きも記憶力も確かであった。



 カワさんの隣にミトさんが車椅子を移動させてあとも、食堂にやってくる老人たちと誘導する職員たちの騒がしさは続いた。既に席は、二十一人の入園者で埋まっている。

 給料が高額な割りには多くの職員が務める愛之丘老人施設に、ゼンさんは疑問を覚えていた。食堂には、カウンターの向こうのキッチン内に五人、フロアに九人の看護師たちがいたが、暇を持て余したように壁にもたれかかってお喋りをしている者の姿も目立った。


「女は化粧臭いし、男の方も香水がきつくてかなわん」


 ミトさんがカワさんと話しつつ、車椅子をしっかり固定する音を聞きながら、ゼンさんは口の中でそう愚痴った。病院だったらアウトだろう、と常々思っている。


 入園者の食事は、一人一人に合わせたメニューとなっていて量も違っており、名前が書かれた札付きのトレイがそれぞれの席に運ばれてくる仕様だった。


 ゼンさんは、肝硬変患者用のメニューだ。塩分と脂肪分が抑えられ、たんぱく質の量もすべて計算されている。カワさんは体重減量を目的とし野菜重視でカロリーが控えられ、カルシウムやビタミンも摂取するようなメニューになっていた。


 ミトさんの食事は、体重に合わせた平均的なメニューである。ゼンさんやカワさんと同じように、フルーツとヨーグルトがデザートとして付いている他、野菜ジュースではなく普通のオレンジジュースになっていた。


 看護師たちは、入園者の食事が乗ったトレイをせかせかと置いていくので、汁物が激しく揺れてトレイにこぼれてしまうことにも、ゼンさんは苛々していた。この前フルーツに味噌汁がかかったときは切れそうになった。それをぐっと堪えられたのは、反抗的な入園者に対する彼らの対応を知っているからである。


 クラシックの音楽ばかりが流れる食堂で、しんみりとした食事が始まった。


 ただ皆、そっと箸を持ってちまちまと食べ始める。カワさんは、サラダから食べるように指導されていたので、渋々といった様子でそれをつついていた。


 それから十分ほどすると、キッチン内での談笑が始まり、女ばかりの職員が残ったフロアがきんきん声でやかましくなった。一番若い職員は三十代半ばで、サイズのあわない制服をぴちぴちに着込んでいる。

 彼女が「私※※サイズなのよ」と自慢げに話す場面をイメージし、ゼンさんは一気に食欲を失いそうになった。ここにいると、暇なだけに無駄な想像力ばかりが働いてしまうのもいけない。


 とはいえ、そろそろ来るだろうな。


 ゼンさんは隣のカワさん、そして、その向こうのミトさんに目配せした。


 すると、キッチン手前でたむろして集まっていた十人の看護師の内、四人がその輪を離れて歩き出した。しっかり食べていますか、お味はどうですか、とそれぞれの老人に声を掛けていく形ばかりの様子伺いが始まったのだ。


 それぞれの老人に必要な分量の食事をきっちりと作っているので、彼らはすべて食べてもらわないと困るのだろう。二ヵ月前まで『捨てるなんて、もったいないことさせないでください』と喚いていた退職した看護師もいた。


 ああ、そんな、キクさん。


 看護師たちの動きをこっそり目で追っていたミトさんの表情が、少し痛々しげに歪んだ。中央のテーブルでこちらに背を向けて座っている高齢の老婆の席で、一人の看護師がぴたりと足を止めたのだ。


 それは高齢でありながら松葉杖をついて、ゆっくり歩く日課を一日に三回持っているキクさんだった。百四十二センチの小柄な体格で、手足を震わせながらもしっかりと動き、発声や発音は怪しいがにっこりと頬皺を引き上げる良い人だ。


「キクさん、全然箸がすすんでいないじゃない。しっかり食べなきゃ駄目よ」


 そばについた四十代の看護師が、キクさんにそう声を掛けた。筋肉質のたるんだ腕を背中に回し、化粧の濃い顔にわざとらしいくらい心配げな表情を作って、語尾を和らげる。

 太い声を無理やり高く上げる声色が、ゼンさんは耳触りで嫌いだった。特に男性医と話すとき、くねくねと動く様子も好きではなかった。


 キクさんは、どうにか顔を上げて「食べていますよ」というように看護師を見つめ返した。彼女は言葉の意味はゆっくり理解できるものの、自分で喋ることはほとんどしない人だった。いつも話すときは、目で話すように会話するのである。


 すると、看護師はテーブルに置かれている料理を指した。


「ほら、この煮付け。キクさんが食べやすいように、とっても柔らかくしてあるんですよ。お豆腐もいかがですか?」


 そう言いながら、看護師がキクさんの後ろに回していた手で、彼女の背中の肉を挟んだ。真っ赤な爪が食い込み、その柔らかな肉皮をつまみあげるのをゼンさん、カワさん、ミトさんが息を呑んで見つめた。ぼんやりとした一部の入園者は、それに気付かず箸を進めている。


 キクさんの身体が痛みでびくんと揺れたが、看護師は気にする様子を見せなかった。キクさんが小さな身体をよじり、視線をテーブルへと戻してゆっくりずつの食事を再開した。


「美味しいですよね? たくさん食べてくださいね」


 看護師の大きくて分厚い真っ赤な唇が開いて、ヤニで黄色くなった歯が覗いた。キッチン側にいた新入りの三十代看護士に、エプロンをした中年の女がこう言った。


「ああやって少し厳しくしないと、彼女たちはすぐにつけあがるからね。知識がある分、子供より性質が悪いのよ。虚言癖もあるし、頭も老化しているから、私たちがしっかり管理してあげなくちゃいけないの」


 おい、普通に良識もある奴らだっているんだぜ。


 ゼンさんは施設のあり方にますます不審を覚え、味気のない減塩料理を乱暴に噛み潰した。

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