サラバ、愛しき友よ
オトナになる犠牲に
人は、どんなに怒りに震えようと、心の底から興奮しようと、最後には精神の安定をもたらす物質、セロトニンが分泌され気分が落ち着いていくらしい。そのことを知って以来、わたしは悲しいとき心の中でこう呟く。
がんばれ、わたしのセロトニン。
高校三年の冬、僕は彼を失った。
彼は僕の親友であった。生まれた時から一緒にいた。何をするにも二人。僕が公園で拾ってきた三角の石を、彼だけは綺麗と言ってくれた。話し出すタイミングも同時で「あのさ」とお互い声を重ね合わせては、はにかむ。
幼稚園で初めて好きになった女の子は、二人ともナナミちゃんで。それを知ったとき僕は、恋敵ができた悲しさよりも、彼と好きな人が同じだということの方が嬉しかった。同じ小学校に入って二人とも同じクラスだった。
かけっこのタイムも同じで二人してリレーの選手に選ばれた。隣の席のナナミちゃんは「すごいね」と笑顔で言ってくれた。その日は二人していつもの公園に行き、ナナミちゃんの素晴らしさについて語った。
好きな音楽、好きなお笑い芸人、好きな色や好きな食べ物、全て同じだった。
二人とも歌が苦手だったので合唱祭はサボろうか悩んでいた。歌が上手くて女子に人気のあったタクミがお互い嫌いになった。僕らはタクミの悪口を、自転車を押しながら言い合いっこして。
けれどお腹が減ったら全て忘れた。
当時流行っていた漫画に影響されて中学校では二人とも野球部に入った。
「入ったんだから坊主にしようぜ」と、彼は僕の部屋でバリカン片手に襲いかかってきた。僕は坊主だけは死んでも嫌だったので必死に抵抗した。格闘の末、左のもみあげだけ刈られて、「何すんだよ」と僕は怒って彼を部屋から追い出した。僕らにとって初めての喧嘩だった。翌朝、家を訪ねてきた彼は「ごめん」と言い頭を下げた。
よく見ると左のもみあげだけない。
「その……誠意のつもりで……」と俯く彼がなんだかおかしくて思わず吹き出してしまった。僕らの喧嘩は二四時間も続かなかった。
野球部での二人の実力は同じくらいだった。
だから試合でも一方がスタメンになった時はもう片方は必ずベンチだった。揃って二人が出場したことは一度もない。僕は自分の名前がスタメン表に載っていても嬉しかったし、彼の名前でも同様に嬉しかった。ベンチから声を枯らして応援した。
試合に負けた帰り道は豚骨ラーメンを食べにいくのが、いつしかお決まりになっていた。
中学二年の時、ナナミちゃんとタクミが一緒に帰っているところをたまたま僕らは目撃した。
タクミはサッカー部に入っていた。その日は二人、いつもの公園で「いかにナナミちゃんは見る目がないか」「きっと僕たちはもっといい女がいるはずだ」「そうだ」とお互い言い合い、近くの自動販売機でコーラを買って二人で一気に飲み干し、ゲップを吐きながら空き缶をゴミ箱に投げて、外した。
そんな様子を野良猫が見ていて「ビャー」と静かに鳴く。
僕はそれがバカにされてるみたいで腹が立ち、その猫を捕まえようと追いかけた。もちろん捕まえられるはずもなく、砂だらけになった僕の姿を見て彼は爆笑していた。
二人ともナナミちゃんやタクミのことはすっかり忘れて「次のテストでどうやってカンニングしようか」「あのドラマのあの女優はとんでもなくエロい」「明日、宇宙人が襲ってきたらどうするか」「俺はどんな能力に目覚めるか」と日が沈むまで夢中に話していた。
「灼熱の炎が扱える能力を手に入れたらさ、なにしよっか」
と彼が言った時、僕は「宇宙人からナナミちゃんを守りたい」と思って。ぼんやり目の前が霞んだ。
夏。中学最後の大会。
僕らの野球部は歴代でもまぁまぁの成績を収めることができた。夕日に染まったグラウンドの端っこで、部員を集めた監督は「誇らしい」と言ってくれた。けれど、最後の打者として三振に終わってしまった彼の拳は小さく震えていた。僕はそれを斜め後ろから見つめる。
ああ、泣かないで。声に出してしまいそう。君のせいじゃないよ、君のせいじゃ。だって君がバッターボックスに立った時は既に三点差もついていたんだ。確かにランナーは二塁と三塁にいたけど、しょうがないよ。早くに追いつけなかった他の打者にも責任はあるし、もっと言えば点を取られたピッチャーの坂本の方が悪いよ。その坂本をすぐに替えなかった監督のせいでもあるんだ。
だから君のせいじゃないんだよ。君のせいじゃ。
だから、お願いだから。
「がんばって」
呟きは、頬を横切る風にも乗らず。潤んだ僕の瞳ではもう、拳の震えは分からない。
その日の帰りは豚骨ラーメンに唐揚げ丼と餃子をつけた。
翌年の春。僕たちはお揃いの制服で同じ門をくぐった。隣の県にある私立の進学校。電車で一時間弱かかる。うちの中学からこの高校に進学したのは僕と彼の二人だけだった。部活は二人とも美術部に入った。絵を描くのはもともと好きだ。今にして思えば僕は野球がしたかった訳じゃない。
ただ彼と一緒に居たかっただけで野球はそのための手段でしかなかった。進学校と言うだけあって授業や課題は忙しかったが、クラスの雰囲気はとても和やかだったので一学期が終わる頃には皆とも打ち解けた。夏休みには彼と一緒に美術館を巡った。
「油絵より水彩画の方がいいよな、こうほわ~とした感じがさ」「つか画集っていい値段するな」「なんかさ、いいなって思う絵があってもタイトルがビミョーだったりするよな」
初めて行った美術館の感想はこんなものだった。
三宅雫と出会ったのは高校二年のことだった。
クラスが文系と理系に別れて、雫は新しいクラスで初めて僕の隣に座った女の子。
雫は授業中、落ち着きのない女の子だった。
それはお喋りに夢中でうるさいとかではなく、体の落ち着きがない子だった。というのも雫は平均的な女子の身長よりも、背が低かった。そして不幸にも、僕たちの席は教室の一番後ろ。
雫は人垣の向こうの黒板を見ようと、必死に上半身だけ伸びをしていた。「んーーーー」と声にはならない声を出しながらいつも雫は体を横にふりふり振っていた。その姿に思わず笑ってしまって。お詫びに僕のノートを見せてあげるのがいつしか恒例になっていった。
「雫」という漢字から僕は真っ先に「雨」を連想する人間だ。
加えて「雨」という言葉からはなにか、こう後ろ向きというか、肯定的ではないマイナスなものをイメージしてしまう。けれど三宅雫はそんな僕のイメージには合わない性格をしていた。クラスの中心にいるような元気な子ではないけれど、いつも穏やかで笑顔の絶えない、それこそ雫のような。まぁるい子だった。
雫は怒る、というより叱る。そんな女の子だった。
というのもある日のこと。一限が終わって休み時間中。彼女と仲が良い女の子が「きゃー」と叫んだ。なにやら自分の机に蜘蛛がいたらしい。そこで隣の木戸君が自分の教科書で蜘蛛を叩いた。それを持ってその場は落ち着いたのだが、一部始終見ていた雫は木戸に近寄り「ダメだよ木戸君、午前中の蜘蛛は逃がさないと罰が当たるんだよ?」
と、木戸の目を見て諭すように。年の離れたお姉さんのように。そんな彼女がおかしくて。
思えば雫は無駄な殺生をしない女の子でもあった。
雫は僕の発音にケチをつける女の子だった。
「あのさ雫」次の授業って視聴覚室? そう聞こうとした時だった。
「雫じゃないよ雫だよ」
「……はぁ? 雫……だよ。あなたは」
「だーかーら、雫じゃなくて雫なのっ」
彼女の目は真剣そのもの。言ってることの意味がわからず、怖くさえなってくる。
「前から思ってたの。『しズく、しズく』ってさ。ズにアクセント置きすぎだから! 普通はシでしょ、シずくでしょ! 向こうの県の人たちは皆そうなのかなーって思ったけどミユキちゃんや中田君はちゃんと呼んでくれるよ? いい? しズくじゃなくてシ、ず、く。だからね?」
早口で巻き立てはぁ、と大きくため息を一つ。「いやいやちゃんと言えてるでしょ。雫って」と言い返してもツンケンとして認めず。「シ、ず、く。はいっ、りぴーとあふたーみー?」
と馬鹿にしてきた時には次の授業のチャイムが鳴って。古典的なその音で気がつくと教室には僕らしかいなくて。視聴覚室まで走った。
雫の話を彼にすると決まって奴はニヤニヤと笑い「ジュース奢れ、何も言わなくていいからジュースを奢れ」と迫ってきた。
そして時は巡って。
高校三年生、冬。
彼を失うことになる冬。
気象庁によると例年に比べ暖かいらしい冬。
オリンピックが開催された冬。
異国フィンランドでサンタ不足が嘆かれる冬。
そして雫と付き合って一年がたった、冬。
僕の大学受験は一月半ほど前に終わっていた。指定校推薦でそこそこの大学に行けることになった。そして雫。彼女は自己推薦で中学の頃から目指していた大学への進学が叶った。その結果が出たのが先週で。今日はそのお祝いで彼女の家に行く。
雫の家は学校の近くで、よく帰りに寄っては勉強していた。彼女の両親は共働きで忙しく、特にお父さんの方は出張ばかりでほとんど家にいない。日曜日の今日も例外ではないらしく、雫からきたメールには「お母さんたち今日もいないー漫画読んで待ってるねん」と書かれてあった。駅の改札を抜け彼女の家に歩を進める。
「今日はえらく冷えるなぁ」そう言う彼の吐く息は白い。
「だなー、親父のコート借りてきて正解だったわ」
「さっすがポールスミス」
そんな会話を彼としながら、マンションのチャイムを押した。
お祝い、と言ってもただ僕が料理を作っただけだった。
それまでの時間はリビングで撮りためていたドラマを見て「この俳優さん、誰かに似てるよね? 誰だっけぇ、んーと」「理科の高木先生?」「そうそれ!」と他愛もない会話をしたり、お笑い番組で出てきた若手芸人のリズムネタを真似したり。
作ったオムライスと唐揚げに「もっとこう、シャレたものが作れないのかねぇ、君は」「シャレたものって何よ」「……ビーフストロガノフ?」とケチをつけながらも完食してくれたのが嬉しかった。そう、そんなやりとりが僕らのいつもで。冗談を言い合ったり、テキトーな世間話をしたり。会話は自然と続く。だから無言になったことなんてほとんどなかった。この後、彼女の部屋に行くまでは。
「こういうのってきっと雰囲気なんだよな」彼はそう呟いた。
ベッドに二人倒れて、抱きしめ合って、唇を合わせて。
服を脱がせて、また唇を合わせて。
彼女は初めて、だと思う。そして僕も。
「あんまりがっつきすぎんなよ」と笑う彼に「うるせえ」と返事をする。
愛おしく、彼女の名前を呼ぶと「だから雫じゃないって……」と朱に染まる頬を自らの髪で隠し、消え入りそうな切ない声を漏らす。雫の肌は血とか内臓とかを包んだ風船みたいで。強くするとパンッと音を立てて破裂してしまいそう。
だから優しく。優しく。そして、一つに。
「がんばれよ」と最後にそう言い残して。
「どうしたの」尋ねる彼女の白い肌に、名前も知らない液体がこぼれていった。
僕は彼を失った。
人は、どんなに怒りに震えようと、心の底から興奮しようと、最後には精神の安定をもたらす物質のセロトニンが分泌され、気分が落ち着いていくらしい。そのことを知って以来、わたしは悲しいとき心の中でこう呟く。
がんばれ、わたしのセロトニン。