即席野営スープ
緑たなびく街道を、大きな杖を持った一人の魔女が歩く。名前をアノリンナ。通称アノンといった。
風がさあっと吹き、草が海の様に波立つ。ばさばさとたなびく魔女帽を抑える。髪が頬を撫でた。
今は行きかう人も居ないが、いつもならば人が多い道。硬く踏みしめられ、雑草などはところどころ居心地悪そうに生えているだけだった。
彼女は懐から年季が入った懐中時計を取り出し、時間を確認する。太陽はかなり低くなり、空もうっすらと赤く染まり始めている。
森人の街を出たのは朝だった。仲間に勧誘しようとする討伐組三人をはぐらかし、別れを告げ、彼らの向かう王都とは反対方向へ。目的地は海沿いの漁業が盛んなヘワイセン市である。
森人の暮らすリヴァ―ル村からは直通の馬車が出ていないため、まずは中継地であるザイオレン市に向かう必要が有った。徒歩で三日程度の道のりだ。
背中が重い。大ぶりな背嚢とは別に、もう一つ袋を担いでいるのだ。村人の好意という名前の報酬がたんまりと収まっていた。アノンが気に入ったエメウヤチメが山盛りである。エメウヤチメというのは見た目に反して高級食材であり、これを売ればちょっとした財産になる。
手持ちの小さな地図を確認すれば、現在地からほど近い場所に野営に適した湧き水がある場所があった。もしかすれば商人の一人か二人にも会えるかもしれない。
それにもう一つの目的も果たすことが出来るかもしれない。
そう思った彼女は、やや早いながらも今夜の寝床をそこに定めた。道から外れ小さく見える野営地へと向かう。
彼女の期待も虚しく、野営地には誰も居なかった。近くを見れば虫と家畜以外の動物が嫌がる匂いを出す草とが群生していた。野生動物が慣れてしまったら効果は無い気休めの物だが、無いよりはマシだ。おそらく誰かが植えたのだろうとアタリをつける。
地図通り湧き水は小さな池になっていた。小川に流れ込んでいる。小川は、踏み固められ小道になった出入り口からは見えない角度にあった。
じっとりと汗ばんだ身体が気持ち悪いとアノンは思った。荷物を降ろし、上着も脱ぐ。重たい音をたてて地面に落ちた。
装備類を全て脱ぎ、服を上から被せる。ふと気が付いた様に魔女帽を取った。それも服の上に被せる。ブーツ、ズボンと脱ぎ進め、最後に下着も脱ぐ。全体的に小ぶりな体が露わになる。
もう一度彼女は周囲を見回す。人の気配も獣の気配もない。そっと足先から小川に入っていく。夏だというのに水は冷たく、アノンはぶるりと震えた。
水深は太もも辺りまでだった。彼女が歩くたびに皆底の砂は巻き上がり、小魚たちは見慣れない巨大生物から逃げようと泳いでいく。
しゃがみ込み水をすくい頭にかける。手に持った布を水に浸し、体を拭いていく。風が吹けば濡れた体が涼しい。
なんだか楽しくなってきた彼女は、足の指を曲げたり伸ばしたり、水を蹴飛ばしたりした。水の感覚が気持ちよかったのだ。
だがはしゃいでいられる時間と言うのは長くは続かない。太陽はどんどんと降りていき、気が付けば夕闇が支配するようになった。夕暮れの空は太陽近くにまで後退している。
そんな時間まで水浴びを楽しんでいた彼女ではあるが、そろそろ切り上げなければ困る事になると陸に上がる。
乾いた布で体を拭き、下着だけ別の物を着る。着替えあったが、村を出たばかりである。まだまだ汚れきってはいなかった。
脱ぎ捨てた服を丁寧に着ていき、外した装備品やらをしっかりと固定していく。最後に杖を確認して終了である。
くぅっと、気の抜けた音が響いた。出所は彼女の薄い腹である。急いで食事の用意をしなければならないと、彼女は決意した。
せっかく洗ったばかりの白い手が汚れるのも気にせずに、石を集め即席のかまどを作り、枝葉を集め液体を振りかける。特段乾燥もしていなかったが、振りかけた液体で良く燃えてくれるだろう。指先に小さな炎を灯し、それをかまどに近づける。火は移り燃え上がる。
小ぶりの鍋を持ち小さな池から水を汲む。ひんやりと冷えたそれを、アノンは心地いいと思った。一旦満杯にした鍋から、少しずつ水を捨てる。程よい量になったのを確認し火へかけ干し肉を入れた。
袋を開けエメウヤチメを二本、いくつかに折って入れる。本来は沸騰した頃に入れ、さっと茹で上げるのが一番おいしいやり方ではあったが、そこまで情熱を燃やす程彼女は食道楽ではなかったし、マメでもなかった。むしろものぐさな性格だった。
小瓶を取り出し、コルクを、すぽんっと抜く。中には黒に近い茶色い欠片が幾つも入っていた。決して美味くはないが、手軽にそこそこのスープが飲める旅人御用達の保存食の一つだった。
欠片の中でも特に小さな物をいくつか手の平に出し、それをしげしげと見つめる。
「量はこれくらいか……」
やがてなにか納得したのか、それを泡がぷくぷくと沸き始めた鍋の中に入れき混ぜる。水が薄い茶色に染まる。
空は茜色から藍色に変わっている。一番星どころか二番星、三番星と、無数の星々がきらめく。月明かりよりも近く、そして強く照らすのはたき火だ。風は無く、穏やかな夜である。
ゆらゆらと揺れる炎にアノンは目を細くした。
やがて良い匂いが彼女の鼻腔をくすぐる。
程よい頃合いだと判断した彼女は、溢さない様に慎重に鍋を持ち上げ、スープを手持ちの大ぶりなカップに移す。
「あちっ」
一番大きな具材である干し肉を移しす際に数滴、跳ねた水が手にかかる。小さな計算外も発生したが、ようやくメインの食事が完成した事にアノンは小さな満足感を覚えた。
食べる事もせずもう一度池へ向かい、鍋を洗う。触れればやけどは免れない程に熱されていたそれは、やがてほんのりと暖かい程度に温度が下がる。それに水を入れもう一度火にかける。
平べったい石に布を敷いただだけのテーブルに硬いパンを置く。布から外れた位置にスープが注がれたカップ。もう少しすれば湯が沸き、お茶も楽しめるだろう。これが彼女の今夜の食事だった。
やけどしないよう、おちょぼ口でちびっとスープを口に含む。塩辛さに混じってエメウヤチメの風味と香りが心地よかった。流石は高級食材だと彼女は感心した。
スープにパンを浸す。水分を含んで柔らかくなった部分を一口。塩辛さがパンで中和され、またパンの硬さも程よく柔らかくなっていた。行儀が悪いのを承知で、彼女はエメウヤチメを指でつまんで齧る。
ポリポリと小気味良い音が口の中から聞こえる。そしてパンを一口。決して上等とは言えない食事だが、少なくともすきっ腹には美味いと感じられる内容だった。
のんびりと食べていた彼女は、ふと顔を上げた。小動物の気配がしたのだ。視線の先には木から降りようとしているリスが一匹。匂いと物音で起してしまった様だった。やっぱり効果無いじゃないかと、彼女は思った。
人に慣れているのか、火が怖くないのか。はたまたその両方なのだろうか。リスは怯えた様子もなく彼女に近づく。
手が届く範囲にまで近づいたリスは、なにか物欲しそうに彼女を見つめた。随分図々しいリスだと思うが、小ぶりなエメウヤチメを投げてやる。それを咥え素早く巣に戻っていった。
なにを思ったのか、彼女は空を見上げた。木々の間から満点の星空が見えた。しばらくそれを眺め、そしてふと気が付いたかのように鍋を火から離した。
夕食を食べ進め、最後の干し肉をかじる。本来塩辛く、固く食べづらい物であるそれは、煮込んだおかげで随分と柔らかく、またエメウヤチメやらの風味を吸い取りなにやら一つの御馳走の様な味だった。
三度立ち上がり、カップを水で洗い流す。すっかり綺麗になったそれに薄いお茶を注ぐ。食事中に沸かしたお湯に茶葉を入れておいたのだ。味もあまりしない、お茶風味の水いった様子であるが、塩気に慣れた舌には逆に丁度良かった。後味を綺麗さっぱり流してくれるような爽快感すら感じていた。
はっと彼女は顔を上げた。遠くから馬車の音が聞こえたのだ。戦闘の用意をした方が良いだろう。そう判断し、急いで荷物をまとめる。あらかた片付け終え、最後に得物である杖を手に取った。
音は近づいていた。そして小道の前で止まる。アノンは笑顔を顔に張り付けた。一見だらけたような、呑気にお茶を楽しんでいると見える様子だ。
木々の切れ間からは、ちらちらと動く明かりが見えていた。カンテラを持った男だった。商人風の恰好をしている。やがて野営地へと入って来る。良く太った、人の良さそうな男だった。
「やあどうもこんばんは。商人の方ですか?」
にこやかに挨拶を飛ばす。商人はアノンを見て驚いた様子だった。魔法使いというのはそもそも数が少ない。いわゆる研究者であり技術者なのである。
それゆえに普段は研究機関や自分の拠点で何かしらやっているのが当たり前。どこか行くと場合は複数名で動く。だから、年若い女の魔法使いが一人旅。というのはまずない事だった。
「ああそうですとも。こんばんは。気持ちの良い夜ですね」
驚いたのも一瞬。商人の顔には笑顔が浮かぶ。客になりそうならどんな者にでも笑顔を振りまく。客商売信用評判第一。彼はそういう商人だった。
王国文化広報局の実施したアンケートでは、即席スープを美味しいと思う人は四割。
不味いと思う人の割合は三割。
可もなく不可もなく、と答えた人は三割。
という結果がでた。
製造ギルド代表ベッミール氏はこの結果を受け、
「可もなく不可もない結果ですな。満足度を上げられるよう一層努力いたします。……まあ確かに味普通ですねこれ」
とコメントした。