その場所に私はいない。
どこまでも続くんじゃないかと思ってしまうような、人の絨毯。
ざわざわと風にそよぐような音は、私たちが前に立った瞬間、スッと消える。
どこか怯えを含んだ視線をホロに送る人が多い。
どうしてたかが人を一人殺してしまっただけで、そんなに怯えた顔をするのか。
その隣に立つ私は、あなたたちを殺そうと企んでいたのに。
静かに瞼を閉じて、ルアディス・ウィションの旋律に耳を澄ませる。
腹が立つほどに明るい音。
この音は、この場にいる人を救いはしても、その者たちに落とされた人々まで光を届けはしない。
ときどきアンディスに、女神様のお姉様がお忍びで赴いていることを、ここに来て初めて知った。
その歌のおかげで、アンディスにいる人々は救われていることも。
それでも、あそこに住んでいる人たちの寿命は、女神のそれよりもはるかに短い。
二十年も生きられたら長生きで、たいていは十年もつかもたないか、というところだ。
ホロを挟んで向こう側にいるエラが息を吸う気配。
それに合わせて私も吸う。
隣からは、一瞬それらしい音が聞こえただけ。それが、辛い。
エラの心地のいい落ち着いた低音に、自分の歌声を乗せていく。
ホロの歌声は、聞こえない。
歌が終われば、人々は私たちに贈り物と祈りの言葉を送っていく。
いつも通りのこと。
ただの日常。
ふと、視界の端に、ふらりとホロの前に男が歩いていくのが見えた。
珍しくて、思わずそちらを向く。
と、との男が勢いよくなにかをホロに投げる。
湿り気のある、潰れた音。
ドロッとしたものが付いた、ホロの顔。
こんなこと、許されるのか。
許されるはずがない。
殺したい。
ただ殺すだけじゃない。
ねっとりと時間をかけて苦痛と羞恥をたっぷりと味わわせつつ殺したい。
その衝動を、必死に抑える。
ここで問題を起こしてしまったら、今までの努力が水の泡になるのだから、と。
ホロに卵を投げた男は、女神様の騎士たちに連行されて行った。
「ホロ、大丈夫?」
ホロの顔を覗き込む。
「ありがとう。大丈夫だよ、シス」
小動物を連想させる丸い瞳が、微笑んでくれる。だけど、その表情が強張っていることに気づけないほど私も馬鹿じゃない。
「大丈夫なんかじゃない! あの人、今すぐにでもグルグル巻きにして火の中に――」
「シス。物騒なことを言わないの。ホロ、大丈夫じゃないでしょう? ほら、早く水で洗い流すわよ」
エラに遮られる。
物騒……。確かにそうかもしれない。
でも、ホロに、あんな素敵な歌を歌えるホロに、卵を投げたんだ。
そのくらいしても許されると思う。
そんなことを考えている間にも、エラとホロの会話は進んでいく。
じっと見ていたら、両手に荷物を持ったまま、エラが歩き出す。
その腕を慌てて私は掴む。
「ちょっと待ってよ、エラ。あなた、麻袋を持ったままで行くつもりなの?」
あ、と自分の両手を見るエラ。
しっかりしているのにどこか抜けたところのあるエラは、なんだか憎めない。それに、そばにいると安心する。
私はホロと顔を見合わせて、吹き出した。
「わ、笑わうことないじゃない……」
ほんのり頬を赤くして、エラは言う。
「だって、お姉さんみたいなこと言って、肝心なところで抜けてるんだもの。笑わずにはいられないわ」
「シスー。みたい、じゃなくて、私はあなたたちのお姉さんなんだけどなあ?」
エラは拗ねたように唇を尖らせる。そんな表情をされたら、更にいじりたくなるに決まってる。
「そういえばそうね。ときどきうっかりさんなお姉さんは私たち妹が支えないとね、ホロ」
「ふふふ、そうだね。血は繋がってないけども」
「あー、ホロまで……。もう、いいわよ。じゃあシス、先にホロと一緒に行っていて」
「エラは?」
「麻袋を置いたらすぐに行くわ。ほら、シスのも貸しなさい」
「わかった」
私が麻袋を渡すと、エラは今度こそスタスタと歩いていく。
ホロとエラ。
二人と笑うことができるのは、本当に幸せだ。
明日。
私たちの騎士が来る。
どうか、この二人の笑顔が、消えませんように。
そう祈ることしかできない自分が、すごく滑稽で、大嫌いだ。
*
「ホロ、目を閉じて」
「シス、それくらい自分でできるよ?」
「たまには妹にやらせてくれないかな?」
「でも――」
「えい」
「きゃっ!?」
豪快な音を立てて、水がホロにかかる。……まあ、私がかけたんだけれども。
戸惑うようなその表情が、ちらりと小さな口元から覗く八重歯と相まって小動物みたいで可愛い。
「し、シス――」
「もう一回っ!」
「わっ!!」
さっきよりも多い量をかける。
そのまま器から手を放して、小さな身体をギュッと抱きしめる。
「シス……?」
聞き慣れた声からは、戸惑いが見える。当たり前だ。いきなり抱きしめられたら私だって戸惑うはずだもの。
「ホロ。我慢しないで。笑顔のあなたは大好きだけど、我慢して笑ってるあなたは見たくない」
ホロにはその歌声と同じくらい、無邪気で幸せな笑みが似合うから。
「……ありがとう」
湿った声のお礼に、胸が痛くなる。
ホロにこんな声を出させないためにも、なんとしてでも計画を成功させて、彼女を女神にしないと。
そんなことを考えていると、ふっと腕の中からホロが抜ける。え、と視線を向けたときだった。
「えいっ!」
「ひゃっ!?」
冷たい水が顔にかかる。
驚いて閉じた目を開けば、視界の端に白い髪。
この世界では忌み嫌われる色。
向こうの世界では、光石や月のようだと尊ばれた色。
髪と目の色が、珍しい。
ただそれだけで、暴力を振るう人がいるなんて思わなかった。
そして、私を庇うために、考えがなかったとはいえ、罪を犯してしまう人がいるなんて、思わなかった。
「えへへ、仕返し」
目の前で、八重歯をチラリと見せて笑うこの子を、私の恩人を、女神にしたい。
そう思うのは、恩返しなのか、執着なのか、それとも……罪悪感からなのか。
きっと、全部なのかもしれない。
「もー……わふっ!?」
「ふっ!?」
突然視界が真っ暗になる。
驚いたのも一瞬で、肌に触れる柔らかさに、それが布であることに気づけば、投げた犯人が誰かもすぐにわかる。
布から顔を出せば案の定、呆れた表情のエラがいる。
そのまま始まるエラの説教を聞き流しながら、私はホロと目を合わせて頷く。
そして一緒に器を持って水を汲み――。
「きゃあっ!?」
エラの綺麗な顔に思いっきり水をかける。
可愛らしい声を出すエラに、私たちは笑ってしまう。
真っ赤な顔をしたエラに長々とお説教をされたけども、なんだかそれが嬉しくて。
同時に、あともう少ししたらこのお説教を聞くこともなくなるんだと思ったら、胸が痛んだ。




