5、楽園への入り口
5、楽園への入り口
――――――左腕が痛い。
「っ!」
弾かれるように、ディーパスは目を覚ました。
心臓が早鐘を打っている。それに伴い血流の勢いが増し、脈が食い破られてしまいそうだ。
全身がぐっしょりと濡れている。汗? いや―――ディーパスはゆっくり上体を起こし、足首から下を川から引き上げた―――これは、水だ。
体表は冷たく凍り付いているのに、芯は石炭を燃やしているかのように熱い。
ディーパスは右腕だけで膝を抱え込み、川面を見つめた。
激しく流れる大きな川。どこからどう繋がってきて、自分はどう流されてきたのだろう。左側から轟音が聞こえてくる。見ると、緩やかなカーブを描く川の先は滝になっているようだった。
―――そういえば、明るいな。
光が頭上から射し込んでいる。緩慢な動きで見上げると、天井に大きな亀裂があり、そこから日の光が降り注いできていた。
なんだか和やかな風景だ―――先の悪夢など、すっかり忘れてしまいそうな。
(夢・・・だったんだよな、あれは。)
あまりにもリアル過ぎて気が付かなかったが、今になって考えてみると、不可解な状況であったことが分かる。最も分かりやすいのは―――あの場所では、左腕の痛みが何もなかったということだ。
(今はこんなに痛いのに。くそっ。)
心中で行儀悪く毒づいてみる。それから、鈍い痛みを訴え続けている左の腕を恐る恐る確認する。―――血が止まっていない。
(これは、大丈夫なのか?)
こんな大怪我は初めてする。ディーパスはどうしたらいいのか分からなくて、自分の身体を持て余す感覚に眉をひそめた。
夢を反芻する。
2匹の小鬼と、妹と宰相。第3の試練。犠牲の二者択一。
「・・・あれは、」
随分久しぶりに出した声は、情けなく掠れて地に落ちた。まるで羽をもがれた鳥のようだ。
「クリア、で、いいのだろうか?」
最終的に皆で落ちてしまったのだが。
あの試練は一体何だったのだろう、とディーパスは考えて、ふと悪寒に襲われる。
目の前には幅が広く、流れの速い川。流れている最中に目が覚めていたら、確実にパニックを起こしていただろう。
今いるここは、直線からカーブになる手前の唯一の岸辺。流れの速さと相まって、打ち上げられる確率はかなり低いことだろう。
そして待ち構えている滝―――
(もしかして・・・第3の試練。あれをクリア出来なかったら・・・滝から真っ逆さまでお陀仏となっていたのか?)
首筋の辺りから爪先へ、震えが走っていった。身体中から力が抜け、脳みそが熱を放つ。
ディーパスは座ったまま川岸から離れ、背嚢を右手に引っ掛け大の字に寝転んだ。重たくなった服から、水が地面に染み込んでいくのが分かる。
柔らかな光が全身を包む。
久々の日の光だ。
恐怖や焦りから脱して気が緩む。のどかな空気を吸い込み、吐き出し、ディーパスはようやく実感を得てきていた―――――あぁ、試練はすべて終わったのだ。
ふ、と寝たまま頭を廻らすと、上の方に別の道があることに気が付いた。
「・・・・・・・・・。」
進むべきなのだろう、しかし。
できることなら、このまま寝ていたい。
今なら、いつになく速やかに夢の世界へ旅立てそうだ―――ディーパスは下がってきた瞼を慌てて押し上げた。目を瞑ったら最後、本当に寝てしまう。
怠惰な欲求に蓋をし、意志の力で無理矢理に身体を引き起こす。
血の気をなくした左腕が異様に冷たく、重たくて、なんて厄介なお荷物を抱えてしまったのだ、と思った。
洞窟の中の洞窟。
アーチを描く入り口に手をかけ、中を覗き込む。
平坦な一本道であるらしい。とりあえず、三度目の階段でなかったことを心から感謝した。
一番奥と思しき辺りに、橙色の光がちらついている。松明だろう。
ディーパスに残されているのは最早 気力のみ。半ば引き摺るような足取りで、次なる道に踏み入った。
背後に光が遠退いていく。
壁に手をつき、その滑らかな地肌をなぞりながら歩いていき、どれぐらい進んだだろうか。予想より短かったようにも、それなりに長い距離だったようにも思える。
最奥は行き止まりで、松明が2本、左右で燃えていた。
突き当たりの岩盤には文字が刻まれている。洞窟の始めに見たものと同じものであるようだった。
(なんだか、懐かしいな・・・。)
密度の高い時間を過ごした所為だろう。最初にここへ踏み込んだのが、ひどく昔のことのように思えた。
指先で刻印をなぞり、声に出して読む。
「―――【ここは地獄だ。人間よ、恐れ戦け!】」
一行目はこれだけで、少し離れて二行目。空白の間にどんな心境の変化があったのか、ガラリと雰囲気が変わった。
「【兵糧無き軍隊に勝利無し】」
今風に言えば“腹が減っては戦は出来ぬ”か、などと思いながら目線を下げていく。
下げて、下げて、下げて・・・――――――やがて当然のことながら、ディーパスの目線は地面に達した。その間に違う文章は何もない。
ディーパスはもう一度目を上げて、2つの文章を読み直し、それから上を見て、そこが空洞になっていて暗闇に閉ざされていることを知り、次に左右を嘗めるように見て、しまいには壁を手当たり次第に触りまくって、重箱の隅を穴が開くまでつつきまわすように調べ尽くして、そうまでしてからようやく、認めた。
「・・・これだけ、か。」
たった2文。
ここまで来て、この2文しか得られないのか。
何か仕掛けがあるのだろうか。いや、あったとしても、もはや調べる気力が無い。手掛かりも心当たりも無いのだし、何にも増して。
ディーパスはもう限界だった。
岩盤に背中を預け、ズルズルと座り込む。表情、というものを忘れ去った蒼白の顔が、糸の切れた操り人形の如く膝に埋もれた。
(もういいか・・・そもそも、夢なんぞに頼ってしまったのが間違いだったのだ。私はただの子供でしかない。建国の英雄ラキアリータとは違う。だいたい、こんな都合良くドラゴンに出会えたりなどはしないのだ。―――・・・やはり、自然の摂理には逆らえようがないのだ。)
ぐうぅぅ
その時、間の抜けた音がすぐ側から発せられ、ディーパスは苦笑した。どんな時でも腹は減る。これもまた自然の摂理だ。
ディーパスは背嚢を前に寄せ、中身を探った。持ってきたパンは油紙に包んできたから、運が良ければ無事なはずである。
(あの激流に負けてなければいいのだが。―――あぁ、よしよし、無事だな。良かった。)
一応、2枚重ねにしておいたのが幸いした。1枚目の内側までは水が染み込んでいたが、中身にまでは達していなかった。
何の変哲もない堅パンである。
それが途方もなく美味しそうに見えるのだから、橙色の光と空腹とのコンボは恐ろしいものだ。
ディーパスは一旦、それを膝の上に置き、十字を切ってから両手を合わせた。
そして唱える。
「ヂィアーズ ノド ボヂェンディア エルジュアド ズヌ ヂィアージズ」
しごく単純なものだ。いつもの習慣を行うと、ささくれた心が少しだけ落ち着くのを感じた。
人目が無いのを良いことに、ディーパスは大口を開けてパンにかぶりついた。
まさに、その時である。
――――――ズンッ
「ふぐっ?!」
大きな縦揺れが一回だけ起こり、ディーパスを飛び跳ねさせた。
この洞窟に入ってから何度目になるだろうか、謎の地響きに遭遇するのは。ディーパスは眉根を寄せて辺りを見回した。
(水か? 怪物か? 落ちるのか? もう何でもいいから、さっさと来いよ・・・。)
腹の中へ、やけくそ気味に吐き捨てる。この数時間で足場を崩されたり水に流されたりと、散々な目に遭ってきたのだ。もう何も怖くはない。驚きもしない。例え天井が崩れようと、水責めにされようと、鉄球に潰されようと、壁が倒れようと、決して決して驚くまい―――――とはいえ、
「・・・ふぁ。」
自分の周りの地面が切り取られて上昇していくという事態には、流石に驚きが先に立ち、ディーパスはパンをくわえたまま、隙間から呆けた声を漏らした。
(幻覚・・・? いや、夢か? もしや、知らぬ間に私は死んでしまっていたのか? とすると、このまま私は天国へ―――)
昇降機のようにゆっくりと闇の中を上昇して、しばらくすると、頭上に光が見えた。あれが終着点であるらしい。闇がどんどん薄らいでいく。小さな冒険の終わりを象徴しているかのようだった。
―――――ガゴン
上昇が止まる時、もう一度 縦揺れが起きたが、ディーパスは動じなかった。
目の前が壁だったので、振り返ってみる。
待っていた空間はそれほど広くなかった。
緩いドーム状の天井。作り付けの暖炉。ベッドにキッチン。明るいのに光源の場所は分からなかった。中でも特に目を惹いたのは、空間の半分を占める本棚だった。壁をそのままくり貫いて造ったようなそれは、軽くディーパスの2倍分くらいの高さがあり、その中にびっしりと本が詰まっている。ぱっと見た限りでは、古いものから新しいものまで、豪華なものから粗末なものまで、ありとあらゆる背表紙が並んでいた。ディーパスの知らない言語がほとんどだった。
「やぁ、君、来れたんだね。」
唐突に見知らぬ声を掛けられ、ディーパスは本棚から目線を外した。
炎。或いは太陽だろうか。
そこには、真っ赤な髪をした青年が、湯気のたつマグカップを2つ持って立っていた。
「最後の壁の合言葉を知らずにへたりこんじゃった時点で、あぁもう駄目だな、って思ってたから、びっくりしたよ。」
はい、どうぞ。青年はディーパスの前に胡座をかいてから、片方のマグカップを差し出した。ホットミルクだ。
「ふぁ、ほーお。」
「どういたしまして。」
青年は楽しそうに、銀色の瞳を細めて、自分のマグカップを口に運ぶ。
「先にそれ、食べちゃいなよ。それくらいの時間はある。話は、それからにしよう。」
青年の言葉に頷いて、ディーパスは唾液でふやふやになったパンを噛み千切った。
「さて、改めてはじめまして。僕はこの洞窟の主。君の言うところの、ドラゴンだよ。」
ディーパスが完全に食べ終わり、ホットミルクを飲み、人心地ついたのを見計らって、青年―――ドラゴンはそう言った。
ディーパスは、やはり、と思うと同時に、首を傾げた。
(夢とキャラが違いすぎないか?)
「あぁ、あの頃は、僕もまだ若かったからさ。」
「えっ?」
「あるでしょ? 何かこう、無駄に大袈裟なしゃべり方をしたがる年代って。だから、まぁ、素はこっちってわけ。」
「あぁ・・・そう、か。」
「うん、そう。」
それで―――と、まるで『今日も空が青いですね』というような口調でドラゴンは続けた。
「君の願いは知ってるよ。身長を157センチで固定して欲しいんでしょう?」
ディーパスは即座に頷いた。
「やってもらえるか?」
「もちろんさ!」
拍子抜けなほどの快諾に、ディーパスは目を輝かせた。
(やはり、来て良かった・・・!)
苦労した甲斐があったと言うものだ。不覚にも涙が出そうになり、ディーパスは慌てて俯いた。
「あ、でもその前に、君の望みを教えてくれる? 身長以外のことで。」
「身長、以外のことで?」
「うん。」
ドラゴン曰く、元々彼は“人間の身体的成長”を糧にしているらしく、本来の在り方は『願いを叶える代わりに身長を貰う』という形なのだ、とか。
つまり、身長を奪うためには、また別の願いを叶えなければならないのである。
「本末転倒な感がしないわけでもないけどねー。」
と、ドラゴンは笑った。
(望み・・・か。)
身長以外の望みなどまったく考えていなかったディーパスは、大いに悩んで唸り声を上げた。
「んー・・・・・・本当に、なんでもいいのか?」
「うん。あ、ごめん嘘。」
ドラゴンはあっさり言を翻した。
「やっぱ、何でもってわけじゃないな。さすがに、限度ってものがあるから。例えば―――」
「例えば?」
「国家の永遠の繁栄、とか。」
まさにそれを言おうかと考えていたディーパスは、勢いをそがれて目をそらした。
「それをやるためには、国民全員の身長が必要だから。まぁ、身長157センチの国、ってのも、なかなか面白そうだけどね。」
「いや、恐ろしいよ・・・。」
「そうかな? で、どうする?」
人間より早いテンポで催促され、ディーパスは改めて考え直した。
欲しいもの。己の望み。何があったら、この先やっていける?
「・・・縁。」
真っ先に浮かんだのは、それだった。
「良縁が欲しい。」
「女性関係?」
「いや、男女に構わず。」
冒険を通じて、ディーパスは思い知ったのだ。自分の弱さと未熟さを。独りで出来ることの限界を。誰かがやってくれることの尊さを。国のためにと擲てるものの少なさを。
だから、欲しいと思った。
「国を支えるためでもあるし、自分の成長のためでもある。良い人との縁、出会い、そういうものが、私は欲しい。」
「ふーん・・・。」
「・・・いいか?」
「うん、いいよ。良縁だね、分かった。君の今後の成長分と引き換えに、その望みを叶えよう。」
ドラゴンは顔中に笑みを広げ、立ち上がった。
「さ、立って。右手を出すんだ。見ただろう? あんな感じでさ。」
ディーパスは言われた通りにした。甲を向けて右手を出す。ドラゴンがその前に片膝をついて、それを両手で取った。
口を近付ける。
呪文か何かを呟いているのだろう。手の甲にぼそぼそと息がかかってきて、ディーパスは擽ったいのを堪えた。
そして、
「っ!」
突然の強い光が視界を塗り潰した。
真っ白の世界に黒い点々がちらつく。点滅する黒を追っている内に、だんだんと世界が色を取り戻してきた。
カーマインの髪に、輝くアッシュグレイの瞳。異様な色彩の青年が微笑んでいる。
「気分はどうだい?」
ディーパスは右手を持ち上げた。国章と同じ刺青。紺色の線の上を、銀色の光が一瞬走って消えた。
「・・・上々、だな。」
「そいつは何よりだね。」