3、暗闇の鳥と機転
3、暗闇の鳥と機転
ただの板と成り果てた吊り橋が、遠く激流に飲まれ、悲鳴を上げた。
それらを他人事のように聞きながら、ディーパスは右腕を伸ばした。松明を上に投げ、右手を空ける。足は引っ掛かる箇所を探って岩肌を撫でる。
ここで岩が崩れでもしたら、他人事が他人事でなくなる。
冷や汗が背筋を伝う。指先が震える。
(落ち着け・・・落ち着け、大丈夫だ、落ち着け・・・。)
ようよう、丈夫そうな出っ張りを探り当てたディーパスは、全身の力を振り絞った。
両腕と片足。それだけで、身体を崖の上へと引き上げる。
「よいっ・・・しょおっ!」
這い上がり、そのまま我慢出来ず倒れ込んだ。
「あー・・・・・・死ぬかと思ったー・・・。」
背嚢を投げ出し、大の字になって呼吸をする。酸素がやけに美味しく感じた。血が、決壊したダムの水のように、体内で暴れ回っている。ディーパスは風邪をひいたような心持ちになった。身体の表面は冷たく震えるほどなのに、芯は燃えているように熱いからだ。
しばらくの間は微動だにしないで、寝転がっていたかった。
しかし、我は脱走の身。あまり時間をかけてしまうのは宜しくない。出来るだけ早く片を付け、騒ぎになる前に帰らなければ・・・!
怠けたがる身体に鞭を打って、ディーパスはゆっくりと立ち上がると、
パンッ
自分の両頬を両手で張った。
(3つの試練に命を懸けて・・・・・・あぁ、そうだ、私は嘗めていたのだ。まったく、今になってようやく意味が分かったよ。)
これから先、何が起きてもおかしくない。何て言ったって“試練”なのだから。それも命懸けの。
しかし、どんなに怖かろうと、退路は既に断たれた。
ならば進むのみ!
気を引き締め直したディーパスは、続く道へと足を踏み入れた。
しかし、気合いを入れ直して早々に、ディーパスは嫌気が差してきていた。
「また下り階段かよ・・・。」
苦々しく呟くのも仕方がないだろう。
最初の階段との違いと言えば、緩やかにカーブを描いていることくらいで、長さも(ディーパスの体感的には)ほぼ変わりなかった。
黙々と下り続ける。
やがて、
―――パシャンッ―――
という小さな音と同時に、再び平らな空間に出た。
あっという間に靴の中に水が染み込んできた。どうやら下は水溜まりのようになっているようである。深さはたったの数センチほどだが、気を抜けば足を取られてしまいそうだ。
松明を掲げて辺りを観察する。
少し進むと、すぐ壁に突き当たった。横幅はそれほどないらしい。
壁沿いに左手側へ。
少し上りの傾斜がかかっているように感じた。
これまた、そう行かない内に壁と出会う。一応、どこかに通路が無いか、端から端まで見て回ったが、天井付近にいくつか穴が空いているだけで、ディーパスが通れそうなものは無かった。
(反対側に行ってみよう。)
潔く回れ右。
じっとりと湿る靴下は気持ち悪い事この上ないが、気にしなければどうってことない。足元で跳ねる水音が遊んでいるように思え、ディーパスはわざと大袈裟な仕草で水を踏んだ。
―――パシャンッ、パシャッ、バシャンッ
―――バタタタタタタッ
不意に、足音とは違う音が混ざった。
(羽音・・・?)
不審に思ったディーパスが、松明を上に、首を巡らしたその時、
『ギャオスッ!』
「うわぁっ!」
咄嗟に屈んだディーパスの頭上を、大きな―――全長90センチは優にあろうかという―――鳥が掠め飛んだ。
「なっ、何だ、今のっ?!」
一瞬のことでよく見えなかったが、炎を反射して光ったのは爪だろうか。いやしかし、あれが爪だったなど、ディーパスには信じられなかった。
(大きさも、鋭さも・・・まるで、ライオンの牙のようだった。)
掴まれたら流血程度では済まないと断言できる。肉と骨がおさらばすることになりそうだ、と考えて鳥肌が立った。
バタタタタタタタッ―――
力強い音は翼が強靭であることの証だ。暗闇の中、ディーパスの頭上を旋回している。
(もしかして・・・コイツを倒すのが、第2の試練か?)
『ギャーオスッ!』
正解、と言うように鳴き声が響き――――強襲。
「っ!」
頭を狙われた滑空をしゃがんで躱す。爪で毛先を引っ掛けて通り過ぎた鳥は、そのまま暗闇に飛び込み、ディーパスの視界から消えた。
(どこに行った・・・?)
歩きながら鳥を探す。滑空しているのか、羽音が聞こえなくなっていた。
再び見た感じでは、目や嘴はごく小さかった。小さいイコール弱い、でないことは百も承知だが。目を突かれたら・・・と思うと、ぞっとしなかった。
羽毛は硬質かつ滑らか。鳥とドラゴンの中間のように見えた。鳥から進化する途中なのか、ドラゴンから退化したのか、それは分からない。
ディーパスは松明を左手に持ち換え、剣を抜いた。扱いにはあまり慣れていないが、やるしかない。
『ギャースッ、ギャアッ!』
左上から。
今度は後ろに飛び退いて避けたディーパス。よし、避けられない速さではないな、と思い――――――
――――――しかし、目の前を通り過ぎ右上へと消えた鳥が、そのまま円を描き、真上から降ってくることなど予想だにしていなかった。
燕返し。
左腕に灼熱。
まったく反応できなかったディーパスが痛みに顔をしかめて左腕を見ると、手から離れて宙を舞う松明の光の中で、鮮血が緩やかに飛沫を上げていた。
―――ジュンッ
水の蒸発と火の消去。その音にディーパスははたと我に返った。
(っ、しまった、松明が!)
唯一の明かりと切り離されてしまった。
目を見開くが、もう何も見えない。光の残像がチラチラと瞬き、ややもせず消えて漆黒に。
完全な暗闇に閉ざされた。自分の手さえ見えなくなる。
―――途端に、恐怖が湧いてきた。
闇が押し寄せてきて、気道を潰す。
ズルリ、ヌルリと、蛇のように、体表のあらゆるところから何かが侵入してくる感覚。
自分の輪郭が曖昧にぼやけて薄くなる。自分という存在が闇に溶け出して、やがて消えて無くなってしまうような不安に囚われる。
深淵の闇の中では、人間1人の自我などちっぽけなものであった。
耐えかねたディーパスは目を瞑り、踞ろうと―――
「い゛っ!」
―――ビリッと走った左腕の痛みに目を開けた。
空気が、捩じ込まれる。
一瞬で身体中に渡った酸素が恐怖を押し出した。
相変わらず暗闇に沈んではいるのだが、何故だろう、見えないはずの輪郭がきちんと境界としての役目を果たしている。あれほど曖昧にぼやけていた“自分”が、元通り固まって足場を確認した。
(そうだ、落ち着け・・・大丈夫だ、私はここにいる。ここに在る。)
鳥から受けた傷が、ディーパスに自我を保たせた―――皮肉なことだ。ディーパスは苦笑し、右手に力を込めた。
痛みは生きている証だ。
(とはいえ・・・)
ディーパスは唇を噛んだ。
(この状況、どうしようか。視界は利かない、左腕は動かない、足場は悪い・・・。)
数え上げると絶望的に思えてくる。何より、見えないことが一番の難関だった。攻撃を回避するのは、見えていてもギリギリだったのだから・・・―――
(・・・ん? 待てよ・・・。鳥って夜目 利かないんじゃ)
『ギャーーオゥスッ!』
嘲笑うように。
ぐわん、と響いた鳴き声。
唐突な反響音にびくりとしたディーパスが足を引き―――その足が滑った。
「うおっ・・・―――ぃぎっ!」
右肩に衝撃。耳元に風圧。
ついた膝が完全に水に沈み、大きな水しぶきが顔にまでかかった。
「いっ・・・だぁぁぁー・・・・・・。」
呻くディーパスの心中を支配するのは、ただひたすらの困惑。
(鳥なのにどうして?! どうしてこちらの居場所が分かるんだ、この暗闇で? 見えているのか? 実はやっぱり鳥じゃないのか? だとしたら・・・くそっ、勝ち目なんか無いじゃないか!)
ディーパスは思わず衝動のままに剣を地面へ叩きつけたくなり、寸でのところで押し留まった。
息を吸い、吐く。
静かに立ち上がる。
ゆっくり瞬きを2つ。
当たり前の行動は、奇特な状況と冷静な思考を結びつける繋ぎ目だ。決してスムーズとは言えないが、思考はきちんと切り替わる。
目も少しだけ慣れてきて、薄ぼんやりとだが、自分が視認できるようになっていた。
(考えろ・・・奴はどうして、私の場所を知るのだ? 夜目が利く種なのか、それとも、何か別の手立てが―――)
『ギャオスッ!』
背後から、ディーパスを打ち据えるように音波が放たれた―――打ち据えるように?
反響して歪む音。
羽音を消した必殺の滑空。
ディーパスは、まだ思いつきが確信に変わらない内に、反射で、声が聞こえた方向へ剣を突き出した。
ドンッ
衝撃とともに、剣が一気に重くなった。パタタッ、と顔に滴った液体は、水よりだいぶ重たく生暖かい。重量に堪えかね右手を離すと、静かになった空洞に水の音が響き渡った。
―――目が使えないなら耳に頼るのみ。反響する音波を頼りにこちらを探り当てているのだろう―――
そう思ったディーパスの考えは当たっていたようだ。よくよく考えてみれば、この鳥はこの暗い中で毎日を過ごしているのだ。コイツにとっては、ディーパスの火の方が鬱陶しかったに違いない。
ディーパスは右手で顔をこすり、それからその手が小さく震えていることに気がついた。
「ははっ・・・情けない・・・。」
鳥を1羽殺したくらいで、何をそんなに―――そんなに、自分は怯えているのだろう。毎日 呼吸をするように命を奪って生きているのに。自分の決断1つが何万人を左右しているというのに。
ただ、目の前で起きたかどうかというだけで、これほど違うとは。
ディーパスは右手を握り締め、甲で額を叩いた。
人間など皆、得てしてそういうものだ。どんな不幸も、災難も、実際に遭ってみなければ辛苦の重さは分からない。それどころか、自分が普段からしている行為が及ぼす影響すら理解してないのだ。
『百聞は一見にしかず、という言葉がある。何事も、我が足で歩き、我が目で見、我が耳で聞き、そうして初めて理解できるのだ。』
脱走癖のある父がよく言っていた。
正直ただの弁明にしか聞こえていなかったが―――そうか、この言葉すら理解していなかったのかと、改めて自分を振り返る。
「ふぅ・・・。」
それでも、どうにか第2の試練は突破できたか。溜め息に混ざるは安堵と自己嫌悪。
(さぁ、これからどうしようか・・・松明は消えてしまったし。)
それとなく足裏で探りながらゆっくり歩いてみるが、まったく何処にあるのやら。そして見つかったとしても、もう使えないだろう。
暗闇の中を適当に進んで、それでどうにかなるのだろうか。
転ばないよう、細心の注意を払いながら、水を踏み分けていく。水が足の甲に乗し掛かってきて、纏わりつき、一歩一歩にかなり体力を奪われる。足首から伝わってくる冷たさが、身体の芯の芯までに染み入って、余計に厳しい。こんな中ではどれほども歩けないだろう。
(―――・・・ん? 足首?)
ディーパスは立ち止まった。
(あれ? おかしい・・・最初に来た時は、足の裏程度だったのに・・・まさか、)
―――まさか・・・・・・水位が、上がっている?
ディーパスが気付いた瞬間を見計らったかのように、地面が揺れ出した。
暗闇と震動と轟音。
腹の底を掴まれ引き摺り回されるような恐怖に脳が畏縮する。
(え・・・? 待て、待て、まさか・・・えっ? 嘘だろう? 嘘っ―――)
爆発音。
激流がディーパスを飲み込んだ。暗闇から暗闇へ。悲鳴など出るはずもない。ディーパスは水に押し潰され、あっという間に、意識の隅まで完全に真っ暗になった。