三話 伝存証明 1-4
それだけ言うと、来栖は気絶した。
とまではいかずに、よく見れば痛みを耐えているのか逃しているのか、股間を抑えながら荒い息を繰り返している。脂汗を流している姿は少しだけ可哀想だったが、部屋を真っ暗にして映画を見るなんて真似をしていた方が悪い。自業自得だ。
私の方はだいぶ落ち着いたので、立ち上がると電気のスイッチを探す。壁に手を当て、数歩進むと発見し明かりを点けた。
「ふぅ……」
変な汗をかいてしまった。胸元をパタパタと煽ぎながら振り返ると、来栖は上下スウェットの服装だった。真っ黒の寝巻で、正直ダサい。
未だに呻いている来栖は放っておいて、室内を見渡した。事務所、といえば聞こえはいいが、実際はだらしない一人暮らしの男の部屋だった。
パソコンが乗っていた執務用の机には、吸い殻が溢れた灰皿に、くしゃくしゃになった新聞紙。缶の紅茶が二、三本捨てられ、携帯電話が置いてある。カーテンを開けると部屋の誇りがきらきらと反射し、茜色の陽射しが差し込んできた。空の羊羹の包みも落ちている。
「あんた、掃除くらいしなさいよ」
呆れた顔で指摘すると、来栖は痛みが和らいできたのか、相変わらず股間を押さえぴょんぴょんと跳ねながら睨みつけてきた。
「うるさい……人の生活をどうこう言う前に、お前の学校生活をなんとかしろ」
「満喫してますー青春を謳歌してますー」
「はんっ、一人で一日過ごすのを世間では青春と言うのか? いつまで現実逃避を続ける気だ」
口喧嘩では来栖に勝てる気がしない。正論とは言い切れない戯言のはずなのに、反論しようにもその通りのことが多く、私は「うるさい」と言い捨てることしか出来なかった。
そんなことは解っている。
言われなくても解っている。
だが、言われて解っても、出来ないものは出来ないのだ。
出来るなら、最初からやっている。
「そんなことより、んっ!」
手を差し出す。突き付ける。
さっさと用件を済ませて退散したいのだ。貰うものを貰ってしまえば、こんな辛気臭いところに用はない。だが、来栖は眉を潜め何のアクションか計りかねているようだった。
「なんだ、その手は。俺と手を繋ぎたいのか、気持ち悪い」
「誰が手なんか繋ぐかっ! さっさとお金返してって言ってんのよ!」
「一言もそんなことを言ってないだろ。嘘はやめろ。俺は嘘が嫌いなんだ」
「いいから! 早く返して!」
まただ。のらりくらりと、会話のキャッチボールをしているようでしていない。例えるなら、こちらがボールを投げてキャッチしても、向こうが投げる時は新しいボールに変えて返してくる。言葉によってボールが汚れる度に、来栖は新しいボールを持ち出してくる。会話が成立しない。成立させようとしていない。
その癖、こちらにはボールをキャッチさせようとする。避けることを許さない、的確な位置にボールを投げてくる。
このまま金を払わないなら、警察にでも行ってやろうかと考えていると、来栖はすり足で執務用のデスクまで行き、安っぽい椅子に座る。まだ痛いらしい。内股の移動が気持ち悪かった。
続いて散らかっているデスクの上で何かを探し、煙草の箱を見つけると一本咥えた。
「お前、何があった」
煙草に火をつけ、煙を吐きだす来栖。半眼の眠たげな瞳で見つめられると、悪い事をしていないのに咎められている気分になる。
見透かす、とは違う、見定める。
私の心を、考えを、見定められている気分になる。
質が悪い、嫌な眼差し。まだ見透かされている方が良かった。見定められるのは、私の存在を決めつけられているようで、嫌になる。
見限られるんじゃないかと、嫌になる。
「別に、何もないわよ……」
私は窓を開け換気する。来栖の背後にある窓を開けると、線路が見えた。陽が落ち始め、夕焼けの空が世界を包み込んでいる。煙草の煙りを外に逃がす為、といった風に窓を開けたが、本当は来栖の視線から逃れる為だった。
商店街に流れる人々が見える。親子連れの姿も見えた。友達同士で歩く人の姿も見える。楽しそうに、会話しながら歩いている。私にはいない。そんな人、いない。相手の心に残る、残り続けられるような友人は、いなかった。
岬のように声をかけてくれる人はいるけれど、どこまで私のことを覚えていてくれるだろう。
社会人になっても覚えていてくれるだろうか。
大学生になっても覚えていてくれるだろうか。
高校を卒業しても覚えていてくれるだろうか。
クラス替えしても覚えていてくれるだろうか。
解らない。解らなかった。
だって、私だって覚えていないのだから。
中学時代のクラスメイトの顔なんて、誰も思い出せない。例え脳が忘れないシステムとなっていても、覚えていないのと忘れているのは違う。忘れないだけじゃ、人は覚えているとは言えない。
嫌になる。世界が、記録される世の中が。
これだけ科学が発達しても、私を覚えていてくれる人なんて誰もいない。
「何を浸っているんだ、お前」
来栖が声をかけてきた。きっとあの、見定めるような視線を私に向けているのだろう。
私は覚えていられるだろうか。二回しか会っていない、奇異で奇妙な気味の悪い、この男のことを。
「別に、浸ってるわけじゃないわよ。ただ……」
「ただ?」
「あんたも、私のことなんて思い出さないんでしょうね」
覚えず、忘れて、思い出さない。
人は忘れる生き物だから。
「ふぅー」
来栖が煙を吐いた。それは溜息のようにも聞こえる。
「誰も覚えていない人間なんか、この世には存在しないだろうよ」
思わず振り返ってしまった。
私の考えを見透かされたのか、見定められたのか、そんな風にタイミング良く来栖は言った。
「生きている限り、人は人の記憶に留まり続ける。死なない限りは、忘れるなんてことは不可能だ」
「それでも」
そんなことを言っても、そんな慰めるようなことを言われても、現実はそうじゃない。
街ですれ違っても振り返ることも気にも止めることにも、なりはしないのだ。
「それでも人は、忘れるじゃない。覚えてなんか、いられないでしょ」
「そりゃそうだ」
あっさりと、来栖は前言を撤回した。
「覚えていて欲しいなら、覚えていてもらえるだけのことをしろ。例えそれが、当人にとって良くも悪くも、だ。それが記憶に残るって意味だ。何もせず、ただ生きているだけで誰かに覚えてもらおうなんて、そんな消極的なことで、誰かの記憶に残れると思うな」
恥を知れ、と煙を吐きながら言われた。何故か説教された。
来栖の話を要約すると、努力しろ、ということだ。誰かに覚えていてほしいなら、誰かの記憶に残る行動を自分からしろと。世間のみんなは、そんなことを考えながら人付き合いをしているのだろうか。最初に浮かんだ感想は、面倒だな、だった。
そんな感想を浮かべるから、私はダメなのだろうけど。