二話 1-3 共存確認
男はコーヒーを啜りながら、気が付いたように言った。
「あ、関節キッスだ」
「殺す」
「滅多な事を言うもんじゃ――っ!?」
―― 一線、銀の光が奔る ――
スガンッ、と盛大な音を立てて刃が壁に突き刺さる。
私が投げつけたフォークを、意外と機敏な動きで躱した男は驚いた声をあげた。
「何をしているんだお前は。危なく椅子から落ちるところだったぞ」
「あんたが気持ち悪いことを言ったんじゃない」
「今時、間接キスくらい何だと言うんだ。さてはお前、彼氏が出来たことないだろう?」
「岬、フォーク、フォーク貸して。こいつの眼球くり抜いてやる」
訳が解らない。のらりくらりとした会話に苛立ちさえ覚える。言うこと為すことすべて腹が立つ。
だが、そんな私と男の口喧嘩を見て、岬は何故か笑いだした。
「ふふ、あはは」
「み、岬?」
「あはは、おもしろーい」
「はぁ?」
変なものを食べてしまったのだろうか。飲食店で思い浮かべるには失礼な言葉だったが、私は突然笑い出した岬に面食らってしまった。
「どうしたのよ」
「だって、みやちゃんがそんなに喋ってるの初めてみたんだもん」
にこやかに、毒気の抜かれる笑顔で言う岬。
確かに、教室と比べると、いつもと比べると違う私だった。
普段の私ならもっと冷静に、それは取り繕っているだけなのだけど、もっと冷めた見方をしているはずだ。こんなに声を荒げ、行動することはない。
何故かこの男が相手だと、つい感情を抑えることができなかった。
「別に、岬と話している時と同じでしょ」
「あたしと一緒の時でも、みやちゃんあんまり喋らないでしょ?」
そんなことはない、と言おうとしたが、先ほど岬のガールズトークを聞き流していた手前、否定することも出来なかった。別に話をするのが嫌というわけではないのだが、何を言えばいいのか解らず、本意ではない同意をしても失礼だと考え喋れなかったのだ。
愛想笑いなど上辺の付き合いをしたくない。だから私は、喋るのが苦手なのだ。
「あのーお名前なんて言うんですか?」
岬が男に話しかける。どうやら私と男が仲良く話しているように見え、警戒心が薄らいだようだ。非常に不本意かつ間違った認識なので、後で厳重に注意しておこう。
「人に名を聞くなら、まずは自分から名乗るのが礼儀だろう」
「あんた本当に失礼な奴だな」
「黙れ小娘。俺は今こちらのお嬢さんと話しているんだ」
お嬢さんと言われきゃーと嬉しそうにする岬。騙されるな岬、こいつは礼儀知らずと言った相手だぞ。
「ハイハイ! あたしは布藤岬って言いまーす! みやちゃんは叶宮那珂って言うんですよ!」
「勝手に私の名前言わないでよ……」
「ん? きょうぐう……なか? どうしてお前はみやちゃんなんだ、みやちゃん」
「みやちゃんって呼ぶな」
寒気がする。気色悪さは風貌だけにしてほしい。
男に説明してやるつもりは微塵もなかったのだが、岬が勝手に話してしまった。
「叶宮の“ぐう”が宮仕えの宮なのー。だからみやちゃん! 可愛いでしょ?」
「ああ、可愛いあだ名だな、みやちゃん」
私がフォークを握ると男は皿を構えた。私と男の間で火花が散る。
一触即発の空気になるが、岬はそれを無視して男の名前を尋ねた。
「それで、お名前なんて言うんですかー?」
「俺か? そうだな、俺は……」
男は考える仕草をすると、ちらりと私と岬を見る。聞く前は名乗れと言ったのに、今更名乗るかどうか悩んでいるのだろうか。失礼はどちらだという話だ。
しばし考えた後、男は徐に懐をまさぐると、角が折れ少し汚い小さな紙切れを取り出した。
「ほれ」
まるで犬猫に餌でもやるように手渡された紙片を見ると、そこには名前と変な言葉が書かれていた。
「くる……え、なんて読むのこれ」
「ふぅ、お前は学校で何を学んでいるんだ」
心底呆れた声で腹の底からムカツクことを言ってきた。フォークを投げてやろうとしたら、岬が先回りにしてケーキを食べていた。人に名前を聞いておいてもう興味がなくなったのか、新しく注文したやつらしい。岬が大物に見えてきた。一歩間違えたらバカかもしれない。
「来栖水屑だ。もう少し漢字の勉強をしとけ」
「ふざけた名前してる方が悪いんでしょ。きらきらネームみたいな名前して」
「おいおい、人の名前をバカにするもんじゃないぞ」
人をバカにした笑みを浮かべる来栖。一挙一動すべて苛立ちに繋がる奴だ。
「まぁいい。そんなことよりお前のことだ」
本題、と言って正しいのか解らないが、本来に入ろうとした当の本人は私を見ず、視線を岬に向けていた。岬がいる場では話しづらいのか、それとも関係しているとでも言うのかと思ったが、違うようで、来栖は岬のケーキを狙ってフォークを構え、隙を伺っていた。岬の方も狙われているのに気づき、視線はケーキに向けられているが警戒する空気を醸し出している。
互いに譲らぬ意地汚さ。呆れを通り越し感心してしまう。そしてもう一周し呆れてしまう。
真面目に話す気はないのだろうか、この男は。
「だから、私のことって何のことよ」
一向に用件を言わない来栖に、私は先を促してやる。どうせ適当なことを言って金を盗ろうとしているのだろう。大体こんな胡散臭い男に解決してもらう悩みなどない。相手が女子高生だから、恋愛や友達あたりの悩みでも言って誤魔化すのが関の山だ。路上の占い師かと突っ込みでも入れてやり、岬が食べ終わったらさっさと店を出てしまおう。
そんな計画を考えていた私だが、来栖は視線をケーキに向けたまま尋ねてきた。
「お前、自分で気づいていないのか?」
「だから何がよ」
「ふん、無知は罪というが、無自覚は害だな」
「……いい加減にしてくれない? 私、暇じゃないの」
自分では見えないが、私は額に青筋でも浮かべているのかもしれない。近くを通った店員が「ひぃっ!」と言って逃げるように駆けて行った。
怒りで震える手を抑え、両手を顎に当て笑顔で聞いてやる。相手が子供の場合、こちらも子供になってしまうと会話が成立しない。こちらが寛容な心を持って大人になってあげよう。
「何もないなら、さっさとどっかに行ってもらえるかしら?」
「お前は楽しいのか?」
私の言葉を無視し、斬り込むように来栖は言う。
「お前は今、生きてて楽しいか?」
「……説教? やめてよね、何も知らない奴が偉そうなこと言うの」
「お前は何を知っているんだ」
来栖の瞳が私を射抜く。突然のことに、言葉に、硬直してしまう。
迫力を伴った視線に、言葉を詰まらせてしまった。
―― お前は何を知っている ――
いったい何に対して言っているのか解らないが、何も知らない子供が知ったような口を聞くなと、大人に窘められた気がした。
「な、何がよ……」
「そのままの意味だ。お前はいったい何を知っている。何も知らない俺に教えてくれよ」
「な、なんで、あんたなんかに」
言い返す言葉は弱々しく、震えているのを自覚する。思わず目を背けてしまった。真っ直ぐこちらを見る来栖の眼差しに耐えきれない。いや、耐えきれないはおかしい。別にやましい事などないのだから、胸を張ってどうどうとしていればいいのだ。
なのに、何故か咎められたような気がして、萎縮してしまう。
来栖は岬のケーキにフォークを突き刺すことに成功し、食べられまいとする岬と皿の上で攻防を繰り広げていた。
「お前は何も知らないだろう。顔を見れば解る、お前は知らないように生きてきた。色んなことから目を背け、様々なことに背を向けてきたんだろう。だからお前は、自分が何で悩んでいるのかさえ解らない」
知ったようなことを、言われた。
赤の他人の、見知らぬ男に。
私のことを、私について、私以上に知っているように。
ケーキの攻防はまだ続いている。フォークが皿にぶつかる耳障りな音が響いていた。
「お前の問題はそこだな」
来栖はケーキを口元に持って行くが、岬のフォークが邪魔するので空中戦へと発展している。
片手間で岬の相手をし、片手間で私を追い詰める。
来栖は、余裕の態度で余裕のない私を相手していた。
「悩みがないのが良いことだ、なんて戯言を言う奴はバカだ。悩みがないのが悩みなんてアホなことを言う奴はもっとバカだ。人は悩む生き物だ。些細なことでもいい。どんな下らないことでも構わない。悩むからこそ、人間は立ち向かう」
来栖は非難も糾弾も弾劾もしていない。
だけど、私は。
私は、どうしようもなく、責められている。
静かな、陰気な声で。
穏やかに、緩やかに。
「悩むのを止めた瞬間、人は何もしなくなる」
「あぁ……あたしのけーきぃ……」
パクリと、来栖がケーキを食べた。情けない声をあげる岬。
もぐもぐと、やはり大して美味そうな表情をすることもなく、来栖は私のコーヒーを飲んで一息吐いた。
「お前の悩みを解決してやる」
また、来栖は言った。
悩みを解決してやると、私を助けてやると。
「そのために、俺がいる」
私は顔を俯け、テーブルを見下ろしている。コーヒーカップが置かれていた、空っぽのソーサーがある。ケーキは来栖に奪われたので皿さえもない。
そして、もう一つ。
私の前にはもう一つ……もう一枚、物があった。
来栖が懐から出した、角が折れて汚い一枚の名刺。
そこには来栖の名前と携帯の電話番号の他に、もう一つ、ある言葉が書かれいる。
『貴方のお悩み解決します。 悩乱解決屋』
バカみたいなアホらしく痛々しい、そんな幼稚な言葉が、載っていた。
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