十三話 愛昧模糊
「忘れたか」
来栖は煙草を吸い込み、大きく吐く。煙が大量に飛び出したそこに、来栖は白い煙に巻かれながら、眼光鋭く、何かを覚悟した瞳を向けてきた。
「俺の仕事は悩みを解決することだ。お前の悩みを言ってみろ。解決してやる」
そう、不遜に、険しく――――厳しく言ったのだった。
φ φ
人は何故、空を見るのだろうか。
景色としては何の面白味もなく、広がっているとすれば青か白か黒か、それらを混ぜた藍色か灰色だ。楽しいものがあるわけじゃないし、面白いものがあるわけでもない。なのに、人は不思議と空を見上げてしまう。生きているだけで足元が覚束ないものなのに、それでも人は危ういとしても、危うくなっても空を見る。見上げてしまう。
まるで何かがいるかのように、まるで何かを見るかのように。
確かに、空には意外と色んなモノがあるだろう。
優雅に漂う雲に、大地を照らす太陽。
実りをもたらす雨に、時間を感じさせる空色。
星は遠い世界の夢を抱かせ、月は宵闇の中、人を惑わせる。
だからか、人は空に神秘的な何かを感じているのかもしれない。神様や死んだ者が天国に、空にいるというのは、国や人種に関係なく認識されていることだ。大体が頭上にいる。人の頭の上にだって髪がある、なんて言えば、あいつは呆れた顔をするだろうか。下らないことを言わないで、と、いつもみたいに、以前のように。
話が逸れたが、空の話題だったかな? 例え頭の上に何かがいるとしても、俺らがそれを確認する術はない。いや、正確には確認くらいは出来る。人はもう、宇宙に行けるのだ。すでに空の先に行けるのだが、それでも人は空に求める。何かを、想いを。しかしそれはどれだけ想おうと届くことはなく、自己満足に近い感想だ。何を想おうが人の勝手だが、それは結局のところ現実逃避に近い行為にしか成らない。形はしない。
そういえばあいつもよく空を見上げているな、と俺は柄にもなく、すでに空についてなんて薄ら寒いことを考えている時点で柄なんて何処かに行ってしまったのだが、思い出した。
思い出したというより、思いついた。
あの、不遇な少女のことを。
叶宮那珂のことを。
俺が公園のベンチ、多くの親子連れが不審な視線を浴びせかけて来る中、リストラされたサラリーマンのように背をベンチにもたれかけ空を見上げていると、案の定、声をかけられた。そろそろ来る頃だと思ったのだ。平日の昼間から公園で寛いで……いるわけじゃないが、だれている俺みたいな奴がいれば通報されて当然だ。不審な人物がいる、と何もしていないのに危険人物と思われる。住みにくい、動きづらい世の中だ。
だが、俺は実のところ警察が来たとは考えていなかった。少しくらいは確かに、可能性として考えてはいたが、それでも、それよりももっと高い可能性の方があったのだ。そしてそれは、その通り、予想通り当たっていた。
「通報されますよ」
挨拶もなく、不躾に失礼なことを言ってきたそいつ、杭田が俺を蔑みを込めて見下ろしていた。話をするのも嫌だと態度どころか表情でも語っている。
「何もしてないぞ」
そう答えると、杭田は「貴方の容姿だけで通報する理由になります」と失礼極まりないことを言ってきた。見るからに好青年という出で立ちの杭田と比べれば、俺が見劣りするのは仕方ないとは思うが存在しているだけで通報される謂れはない。だが、あいつにも不健康だとか薄気味悪いだとか言われた事実があり、これまでも同じような理由から国家権力のお世話になった過去がある手前、杭田の意見を強く否定することは出来なかった。
用があるのか、杭田はわざわざ俺の隣に、ベンチに座る。用があるからここに居るのだろうし、声をかけたのだろう。本来なら顔を合わすのも嫌なはずだ。だが、俺はそれほど杭田のことを嫌っているわけではなかった。警戒はするが、嫌悪はしていない。正義と悪みたいな関係だ。俺と杭田は、水と油のように交わることはないのだが、けれど同時に、コインの裏と表のように同じでもある。それについて、理解を示す奴はいないだろう。俺と杭田以外、誰も同意しない。杭田がここまで俺を毛嫌いするのは、俺が杭田にした行為だけでなく、裏切り行為だけでなく、同族嫌悪の感情もあるのだろう。
水面の映る自分に、石を投げつけたくなる感覚と一緒だ。
俺も杭田も、自分が嫌いなのだ。
「何か用か?」
ここは年長者として、会話をスムーズに運ぶためにこちらから声をかけてやる。何か用かなど、どんな用かなど、解りきっているのに。
「あの事件の、叶宮那珂の事についてです」
案の定、杭田は一か月前に起こったセンセーショナルな話題を持ち出してきた。平和……と言い切っていいかは微妙だが、それでも平和と感じる程度には保たれていたこの街で、人が死んだ事件だ。
最初に事故が起こり、最後に殺人が起きた。
男が死んで、女が死んだ。
「貴方でしょう、彼女を匿った、保護したのは」
その言い方に、俺は思わず笑ってしまった。
「おいおい、何を言っているんだ。そもそもあいつは、あの小娘は、今でもちゃんと学校に通っているんだろう?」
人が死んでも世界は回る。
当然のことだ。例え身内でも他人でも、誰が死のうが世界は日常を求めてくる。いや、求めるどころじゃない。求めなくてもやってくる。生死など些細なことのように、世界は回るのだ。
叶宮那珂は、通う学校の人間が二人死んでも、それまでと同じように何事もなく通っている。
「保護も何もないだろう」
「いえ、保護ですよ」
俺がそう言うも、それでも杭田は食い下がる。頑なに否定した。
「何故なら、彼女が未だに日常を過ごしている、その事が証拠です」
「………」
お昼になったからか、人が減ってきた公園。俺と杭田は決して互いの視線を合わせることなく、杭田は地面を、俺は空を見上げて会話する。
「犯人は彼女です。船波七海が死んだ夜も、似た女の子を見たと証言があります」
「似ているだけだろう。似ている人間なんざ、世の中にごまんといる。最低でも三人はいるな。ドッペルゲンガーって知ってるか?」
「だが、警察は捜査を打ち切っています。いや、表向きは捜査を続行していますが、犯人はまるでいないかのように、捜査をする気がない」
俺の戯言に反応することなく、杭田は拳を握り、歯を食いしばる。
それを見て、俺は何も思わない。別段、思うことはない。
「何故ですか」
地面を睨み、杭田が尋ねる。
「何故、また邪魔をするんですか」
叶宮那珂を、犯罪者を守るのか。
その問いに、俺は返す答えを持っていなかった。
ただ、言えることがあるとするならば――
「悩みを解決するのが、俺の仕事だからだ」
ただ、それだけ。それだけだった。
仕事だから、それだけだ。
俺は別に、叶宮那珂の境遇に同情したわけじゃない。立場的に不幸かもしれないが、それでもあそこまでに成ったのは、彼女自身の問題だ。責任の所在は本人にある。手助けすることはあっても、助けてやることはない。だからこそ俺は、布藤岬に協力した。
悩みを悩みと理解していない方が、哀れだと同情してしまったからだ。
布藤岬の思惑は、願望は、叶宮那珂の立場をより明確にさせることだった。まさか自殺幇助をしてまで認識させるとは思わなかったが、その点について、それに関しては俺の汚点だ。失敗だ。ミスだ。
俺が布藤岬から聞いたのは、叶宮那珂の悩みを浮き立たせるという、普段の依頼とは若干毛色の違うモノだった。あの洒落た喫茶店に誘導し、引き合わせ、問題を起こさせる。問題に引き合わせる。恋愛についての相談をさせると言い、そんな経験がない叶宮那珂は、結果的に、消去法で俺を選択するしかないと言ったのだ、布藤岬は。
見透かすように、愛するが故に、歪んでいようと想ってきたが故に解ることだろう。愛される方からしたら、溜まったものではないだろうが。
俺が協力するのは、現実を見ない子供に現実を教えるような真似だったのだ。そこで自覚させると言った布藤岬に協力して。
自分が一人で、どうして一人なのか。
恋愛という行動しなければ何も起こらないモノを見せて、自分が何もしてこなかったことを理解させようとしたのだ……が。
「悩みを解決するのが、仕事だったんだがな……」
「………」
甘く見ていたのだ。
これは、そう、全員が甘く見ていた。
俺は布藤岬を甘く見ていたし、布藤岬は船波七海を甘く見ていた。
互いが互いに、ここまでするとは思っていなかったのだ。
そしてそれはもちろん、叶宮那珂も、甘く見ていた。見られていた。
少なくとも、今回のことは誰に自慢できる物でも話せる物でもない。罪人が自分の罪を隠すのと同じ、誰にも言えない過去の話だ。それを言うなら、杭田の方が正しい正義の味方かもしれない。
正しい行いかどうかは解らないが、事件を解決しようとする姿は探偵その物だ。
犯人を追い詰める探偵が杭田で、崖の上でも何処か背水の陣になる場所に追い詰められるのが叶宮那珂だった。
冤罪か犯罪か、どちらにせよ対決となるのはこの二人であり、物語的に考えるならば相対するのはこの二人だった。それこそミステリーが如く、探偵の犯罪者、もしくは被害者に加害者といった具合に、だ。
本来なら、だ。
俺が、この俺が関わってしまったせいで、歪んでしまった。悩んでしまった。悩ませてしまったのだ。
布藤岬に協力するという悩ましい手を取ってしまったせいで、歪んでしまった。
「……貴方らしくもない」
ポツリと、杭田が呟く。
非難しながら非難せず、問いかけながら断言するように。
「それは悩みというモノじゃ、代物じゃないでしょう」
「悩みなんて人それぞれだ。他人が決めるモノでもないし、他人が決めていいモノでもない」
とは言っても、これに関しては確かに悩みと呼ぶほどのモノではなかったかもしれない。
悩みというよりも、迷いが正しいかもしれない。
叶宮那珂にとって、今抱えている問題はすでのそういう段階なのだ。
悩みと言うほど悩むことでなく、迷いと言えるほど決めづらいことだった。
そうなったのも、原因になったのも俺と布藤岬のせいだ。
結局のところ、俺は叶宮那珂の悩みを解決してやると言いながら、ただの罪滅ぼしをしたいだけなのかもしれない。
失敗を誤魔化すように、なかったことにするように。
事件そのものを存在させなくすることで、悩みを消すように。
「……何時までも、逃げることは出来ませんよ」
杭田が立ち上がる。ちらりと視線だけ向けるが、やはりというか、やっぱりというか、杭田はこちらを見向きもしない。
「貴方がやったことはただの時間稼ぎだ。いずれ、時が来れば追い詰められる。自分で作り出した”逃亡”で心を潰すことになる」
窘めるように、咎めるように。
杭田は吐き捨てて、言った。
「そんな風に誤魔化しても、罪は消えないんですよ」
悔しそうに、口惜しそうに言って、杭田は結局最後まで俺と視線を合わせることなく去って行った。
今のは自分のことを言ったのだろう。俺に当てつけるのと同じく、己も忘れない為に。
俺が叶宮那珂にやったように、杭田の罪を消してしまった昔を思い出して。
「ふん」
瞼を閉じる。光が透過し、赤黒い、暗い世界が見えた。
ああ、生温い。世界はこんなにも生温い光で満ちている。
「逃げる人生が、悪いわけじゃない」
そんな、生温いことを思わず言ってしまうほどに。
「何がよ?」
「んお!?」
慌てて瞼を開けば、俺の顔を覗き込む形で叶宮那珂の顔が目の前にあった。
普段通りの、いつも通りの彼女がそこには居たのだった。
φ φ




