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十二話 殺人


       φ      φ


「私は別に、貴女に復讐しようとか、そんなんじゃないんです」

 私にとって最悪であり、裏切者である船波さん。彼女は悪びれることなく、ましてや悲しみに打ちひしがれる様子もなく、愉快そうに顔を歪めながら口にする。

「貴女が彼を殺して、私の大切な彼を殺してしまったとしても、それは仕方ないことなんです」

「ま、待って船波さん!」

 殺した、というところで、ぼんやりとしていた思考がはっきりする。ここで言わなくては駄目だ。誤解されたまま、冤罪のまま、話を進めるわけにはいかない。全ての元凶は岬で、そして彼は殺人でも事故でもなく、自殺なのだと。言わなくてはならないが、信じてくれるだろうか。自殺だなんて、それも私を愛していたが故の、自殺だなんて。

「あの、ね。私は殺してない。それに、事故でもないの。彼は、自殺で……」

「やめてください、叶宮さん」

 やんわりと、窘められた。

 船波さんは相変わらずゆったりと、ゆっくりと、笑顔を張り付けて階段を下りてくる。

 一段一段、確かめるように。

 一歩一歩、踏みしめるように。

 最後の段差を、彼女はぴょんっと跳んで着地する。

「もういいんです、それは」

「え?」

「私にとって、それはもうどうでもいいんです」

 おかしなことを、言い出した。

 彼女にとって、愛する彼の死は、原因は、どうでも良いことなのか。

 私はやはり、覚える。

 あの時と同じ、先刻と同じ、薄ら寒さを。

 岬にも感じた、恐怖を。

 人の醜悪さと言えばいいのか、それとも害悪さと言えばいいのか。彼女らを一言で表すならば、狂人。狂った人間。言動のすべてが、思考回路の終着地点が異常。異様で、異常。

 異質さを兼ね備えた、狂気だった。

 これも同じと言えば同じで、岬の時と同じで、私は一歩、下がってしまう。気圧されたと言えばいい。目の前の同じ人間であるはずの存在に、私は恐れを感じている。いや、正確には恐れというよりも、不明さ、だろうか。同じ人間であると思えず、ではいったい目前の存在は、なんなのか。

 説明できない恐怖。

 理解できない恐怖。

 簡単な話、私は小さな子供みたいに怖がっている。

「布藤岬さんが、関わっているのは知っています」

 仕組み陥れた岬。憎悪なり嫌悪なり、本来向けられる矛の先は岬のはずだ。それが正しい反応で、それが正しい辻褄だ。

「し、知ってるの?」

「いえ、知りません」

 意味不明なことを、言う。

 言って、続けた。

「知りませんけど、関係ありません。貴女が殺したと布藤さんが言ったんです。だから私が知っているのはそこまでで、そこで十分です」

 気が付けば、船波さんの右手にはナイフが握られていた。

 光るナイフ。輝く刀身。

 私がこの時に感じたのは、恐怖じゃなかった。裏切りでも、切なさでも、理不尽でもない。

 

 ―― 心が震えた --―

 

 ぶるりと、身震いする。身体が、心が震えたのだ。

 だってこれは、この船波さんは、今どうしようもない程にどうかしている。

 彼女の眼は危険だ。爛々と輝く眼。わずかに上がる口角。無意識に吊り上がる頬。平坦で無機質な声。ふらりふらふらと揺れる身体。どれをとっても、通常とは言えない状態。

 恐らくこれが普段の様子ならば、病院に連れていかれるだろう。それくらい普通の人から見れば、様子がおかしいと言える。

 でも、これは船波さんじゃない。船波さんであって、船波さんじゃない。こうなることなんてあり得ないのに、なのにこうなってしまった原因がある。こんな風に、なってしまった。

 簡単な話だ、難しく考える必要もないし、する必要もない。気にしてないと言っていたが、気にはなっているのだ。彼が死んでどうもいいはずなんてない。彼のことが好きだからこそ、船波さんはその死後、嘘を吐いたのだから。彼女だなんて、嘘を吐いて。

 だからそんな彼女が、気にしないはずがない。気にならないはずがない。

 私だ、私が原因で、彼女は壊れてしまったのだ。

 これほどまでに、こんなにも、船波さんをおかしくしてしまったのは私だ。

 可愛い唇から洩れる笑いが不気味さを演出している。怖気さえ走る彼女。だけど、そんな彼女を見て、私の心は震える。

 それは歓喜。

 それは感動。

 それは達成。

 それは願望。

 そしてそれは、成就。

 ついに、ついに私はここに来た。求めるだけで与えなかった私だが、それでも私は、ついに、ついについについについにとうとう! 彼女の心に刻み込んだのだ!

 後悔した。懺悔した。失敗した。

 来栖に言われ自分のやろうとしていることがどれだけ最低なことなのか教えてもらった。

 岬の罠に嵌り自分がどれだけ相手のことを考えていない子供なのか教えてもらった。

 たくさんの人に私が何も考えていない奴だと教えられた。

 私はバカだった。とってもとってもバカだった。

 人の気持ちが解らなかったし、それを他人のせいにしていた。愛想笑いが苦手とか、そもそも私はそれさえ出来ていなかった癖に。他人から自分がどう見られているかも、理解していなかった。足りなかった、全然足りなかった。私の理解じゃ、理解に及んでいなかった。

 あれだけじゃ足りなかったのだ。

 人の心に、鮮烈に強烈に、刻み残すには、これくらいやらないとダメだったのだ。

「……あは」

 異質な笑みを張り付けた船波さんが、止まる。動きが、行動が、止まった。

「うふ……ふふ……」

「貴女は」

 零れる、洩れてしまう。違う、私はそんな、こんな場面でしていい表情じゃない。我慢だ、でも、我慢なんかできない。

 やっと私は死ぬことができるし、やっと私は誰かの心に残ることができる。

 歓喜に震える私を、船波さんは、同じく笑みを張り付けているはずの船波さんは、

「貴女は、私たちよりも狂っています」

 そんな、ひどいことを言った。

「く、狂ってる? ふ、ふふふ……やめてよ、船波さん。私を、貴女と一緒にしないで」

「ええ、こちらこそ願い下げ。叶宮さんみたいな人と、私を一緒にしないでください」

 笑みに苦いものが混じる。船波さんは可哀想なモノを見る、哀れなモノを見る目で、私を見た。苦笑を浮かべながら、理解しない子供に言い聞かせるみたいに。

「私が怖いですか、叶宮さん。私はおかしいと思いますか、叶宮さん。そうですね、そうかもしれません。私はきっと、恋に狂った女だと思います。恋に盲目になり、愛の虜になった哀れな女でしょ。でも、でも貴女は違う。貴女はただただ狂ってる。狂っていることが普通で、狂っているのが通常なんです。そんな貴女と、狂人である貴女なんかと、一緒にしないでください」

 息を飲む。

 解らない、何故か、この時。

 船波さんが、とてもきれいに見えた。

 輝いて、見えたのだ。

「貴女が犯人かどうか、もう私にはどうでもいいの。布藤さんが何故、犯人を知っているのかも興味ありません。そんなこと、どうでもいいんです。私は、私はね、叶宮さん」

 優しい眼差しを浮かべる。温かみがあり、夜の学校の廊下であり、片手にナイフを持ち詰め寄る場面であっても、船波さんからは感じるのは母性に似た、母親がわが子に向ける愛情とも言える感情だった。

 船波さんが腕を上げる。私に突き付け、胸に突き付ける。

 ナイフを掲げ、温和で柔和な表情を浮かべる船波さんは、言った。


 ―――― 一筋の、涙を描いて ――――


「彼の恋人になったのに、もう彼はいないんですよ」


 最後にそれだけ言うと、ナイフを走らせた。

 血が飛び散り、吹き出し、熱さを感じる。

 あっけなく、あっさりと終わる。

 人の終わり。人の最後。

 ナイフは確かに、奪っていった。

 人の命を。

 首に引かれた一線から、噴水のように溢れ出る。止めどなく身体のすべての血液を絞り出そうと零れ出る。天井にまで達した血流は、豪快で芸術的な模様を描き、壁には飛び散る波を彷彿させる姿を映す。月夜に照らされ、赤い赤い血だまりが廊下に広がっていく。どちゃりと首から血をまき散らしている者が背後に倒れ、その拍子にまた首から血が噴き出す。

 視界に広がる血、血、血。

 廊下の薄闇など払拭するほど、濃霧にも似た血液が空中にも広がっていく。空気が淀み、濁り、喉が乾く香りを発している。鉄さびにも感じる香りが鼻孔をくすぐり、それでも足りぬと血が領域を広げていく。流れ流れて、階段へと到達し、曲がり角へと手を伸ばしていく。

 真正面にいたせいで全身、頭からつま先まで真っ赤な状態だ。ぬめりと粘着がある液体。血液とはここまで絡みつくものだと初めて知る。変に生暖かい。妙に温かい。

 びくん、と身体が跳ねていた。血を垂れ流し、もはや生存は望めない状態の最後の反応か、それともただの反射に近い、理科の実験にも似たただの生理的な反応か。

 わずかに震え、びくりと跳ね、そして最後に、すべり落ちる。

 握ったナイフが、血だまりに落ちた。

「…………………………え?」

 目を見開き、私は見下ろす。今しがた生きていた人間を、たった今死んでしまった人間を。

 私を殺そうとしていた船波七海は、そのナイフを自らの首に当て、掻っ切り、絶命したのだ。

「ふな……なみさん?」

 声をかけるが返事はない。当たり前だ、死んでいるのだから。例え生きていても、この出血じゃあ助からない。

 飽きることなく首から血を流す彼女を見る。瞼は閉じられ、口元は結ばれ、穏やかな表情を浮かべていた。安らかとは程遠い惨状の中、船波さんは眠り姫のように横たわっている。

「え、なんで?」

 私は首を傾げて、聞いてみる。誰にだろう、ここにはもう、誰もいないのに。

「だって、え? なんで船波さんが死んでるの? 彼を奪った私を殺したいんじゃなかったの? ちょっと、船波さん、間違えてるよ?」

 返事はない。ただの屍だ。

 これでやっと、残ると思っていたのだ。人の心に、例え恨みつらみの結果だとしても、船波さんの心には最愛の人を奪った人間として、残るはずだった。

 それなのに、死んでしまった。

 死んでしまったら、残らないじゃないか。

 誰の心にも、残らないじゃないか。

「ちょっと、やだ、なにこれ?」

 穏やかな顔を浮かべる船波さん。壁から離れ、一歩近づいてみると、ぱちゃんと血だまりが跳ねた。私は気にせず、靴や靴下が血でまだら模様になり、それどころか髪からも血が滴り落ちているので気にせずに、気にかからず、船波さんに近づく。

 彼女の横にしゃがみこみ、膝が血に濡れた。

「船波さん、殺してよ」

 もう死んでいる。それが解っていても、どうしても解らなかった。

 彼女の身体を揺する度に、血だまりに波紋が広がる。

「私を、殺してよ」

 心に残してくれるはずだった人。

 それが今や、こんなのを、これほどのモノを見せられては、逆だ。立場が逆になってしまう。

「なんで、どうして……」

 私が忘れられない。忘れるなんてこと、出来やしない。

「なんでなのよっ!」

 ナイフを掴み、振り上げ下ろす。

 船波さんの身体が衝撃でわずかに跳ねたが何かが変わるなんてことはなく、それがまた無性に腹立たしかった。

「ふざけないでよっ! なんで、なんであんたの方がっ!」

 何度も何度も振り下ろす。その度に血が跳ね、顔につくが気にしない。

 感情的に、感傷的に、私は幾度も彼女の身体に突き付けた。

 その行為が、繰り返す度に、続けるほど、私の心に残るなんて考えず。

 私はこの時、初めて人を殺した。

 死んだ人を、殺したのだった。



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