十一話 意志箔弱
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どこをどう走ったかなんて覚えてない、なんてことはない。
だって、私には逃げ帰る場所なんてないんだから。逃げつく先なんてないのだから、無意識に向かうところなど存在しない。
だから、私が行き着く先は何処でもない、何もない場所だった。
物理的にないというわけではなく、ただ心情的に表現しただけで、そこに行き着いたのは偶然でしかない。それでも、自宅という選択肢ではなく、この場所を選んだのは習慣だったからかもしれない。
ふらふらと歩を進める。普段だったら堅く閉じられているはずの門が開いていた。鍵はどうしたのか、誰か侵入しているのではないか、そんなことを思考するだけの余裕は私にはなく、さ迷うように足を動かす。門を抜け、いつも通る道を歩いている。いつもだったら多くの人間が、生徒が歩き、声が聞こえる場所。私が逃げ込んだ場所は、学校だった。
下駄箱まで来るが、こちらのドアは開いていない。校門は閉め忘れてのかと思ったが、顔をあげた先、一階の廊下の窓が解き放たれているのを見て、誰かが侵入したのだろうと思った。
思っただけで、別にどうでもよかったが。
誘い込まれるように開けられたドアに近づきよじ登ると、靴を履いたまま廊下に降り立った。
着地の音が響く。嫌に長い、残響を感じさせた。廊下はシンッ……と、静寂に包まれていた。
肌寒さを覚える、寒気のする静けさ。気温ではなく、感情に起因する言い様のない寒さを感じる。それはまるでホラースポットに遊びに行き、恐怖を覚えるような感覚。
「………」
けれども私は、その時の私には、そういった生きるために必要な注意だとか恐怖が抜け落ちていた。どこか虚ろの瞳を携え、暗い光源のない廊下を歩いていく。誰かがいるだろうとは考えていたが、そこから先の思考が進まない。夜中になり始めた時刻とはいえ、人がいないはずの時間帯に忍び込んだ誰かがいるというのに、それがイコール何に繋がるのかを考えていなかった。
上履きとは違う革靴が廊下に硬い音を響かせる。侵入者がいた場合、この音で気づかれるだろうが、私はもはや侵入者のことなど頭の中になく、ただどこか、どこかに向かうことだけを考えていた。
私は今、何をしているのだろうか。
自分の感情さえ解らない状態になっていた。
来栖に裏切られていたことに憤ればいいのか悲しめばいいのか、
岬の狂った感情に恐れればいいのか怪我をさせたことを悔やめばいいのか。
杭田に言われた殺人の容疑など、考えている場合ではなかった。しかし、では何を考える場面なのかと聞かれれば、それに対し答えを持っていなかった。
ただ逃げただけ。
それも、決断のない逃亡。
何かを決めた結果の逃避ではなく、問題から目を逸らし考えることを放棄した結果。物事は何も変わらず、考えないことで終わらせようとしているだけ。
他人が解決してくれることを、終わらしてくれることを任せているだけ。
岬に言われて、自覚した。
他人にばかり求めて、自分からは何もしない。
世の中がみんな私に優しくしてくれるモノだと、勘違いしていた。
寂しいと思えば手を伸ばしてくれて、辛いと思ったら手を貸してくれて。
不満があれば誰かが手を出してくれて、不幸があれば誰かが手を掴んでくれると。
「……でも、そんなことはなかった」
ぽつりと、無意識に呟く。
ただ求めるだけの姿勢。私はずっと、自分からは何もしない癖に、求め続けたのだ。
あれが欲しいこれが欲しい、みんなが持ってる全部が欲しい、と。
慈愛や博愛で配る人もいるだろう。
それを損得勘定で交換する者もいるだろう。
けれど、一番大切なのは無償の愛でも利益でもなく、どちらでもなく、考えるまでもない、それ以前の行動だった。
求めるから与える。
与えるから求められる。
私は自分で求めておきながら、与える側のことを考えていなかった。
だからずっと、私は得られなかったのだ。
両親からは愛を与えられてきただろう。でも、私に与える側の気持ちが解らなかったから、気づかないまま得ていないと勘違いした。
他人からは愛を与えられなかっただろう。それは私が自分勝手に相手を求めたから。利益とまではいかないまでも、何もかもを対価なしに求めたから、誰もが卑しい私を拒んだ。
ふらりと、立ち止まる。
今更後悔する。顔はぐちゃぐちゃだ。涙に鼻水、汗にマイナスの感情が入り乱れ、きっと目も当てられないほど情けなく醜い顔になっているだろう。
たくさん泣いたし、逃げてきた。
それに加えて現実を見ず否定して、岬に怪我をさせてしまった。
「……最低だ、私」
「最低でもいいじゃないですか」
声が降ってきた。ただの声だったのならば気にすることはなかったのだが、その声を知っている私は、驚きと共に見上げる。先ほどまで周囲に誰もいなかったはずなのに、頭上から声がする。廊下を歩いていると思っていたが、思っているというより見えているのに見ていなかったのだが、私がいる場所は階段近く。ついこの間、一人の人間が死んだ場所。そこに、私以外の人の姿が。
「人間なんて、最低なくらいが丁度いいですよ」
「なん、で……」
そこい居たのは、もしかしたら今もっとも会いたくない、いや、もっとも会うべき人物かもしれない。
柔和でありながら怖気のする笑顔を浮かべ、窓から差し込む月明かりを背景に、彼女は佇む。
「なんで、ここに……」
「待っていたんですよ」
そう言って彼女は、一歩、階段を降りる。踏みしめ確かめるように、慎重ではなく優雅に、高まる感情に身体を震わしながら、一歩一歩、確実に、着実に、踏み出す。
その眼を怪しく光らせながら。
その身を妖しく慄かせながら。
その顔を悍ましく歪めながら。
「犯人は現場に戻る、って言いますから」
にっこりと、狂喜を孕んだ笑顔で言った。
「ね、叶宮さん?」
にっこりと、狂気を孕んだ声色で言った。
私はそんな彼女に、何を言えるわけでもなく、何が言えるわけでもなく、ただただ幼子のように震え怯え許しを請い懇願するように、彼女の名前を口にすることしか、できなかった。
そんな私を、彼女はどう見るだろう。どう映るだろう。
「ふ……船波、さん……」
私を待ち構えていた、船波七海には。
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