十話 怪刀乱麻
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何もない、何も見えない場所に私はいる。
真っ黒な闇の中、物音もなく、世界をただ暗いとしか見ることができない、そんな空間。
手を伸ばしても空を切るばかりで、掴むことも、触れることもできやしない。
――ここにいるのは誰?
思い切って声を出してみるけれど、吸い込まれるように音は消え、声は聞こえない。
心細く、不安になる。
私は今、どこにいるのだろう。
真っ暗だ。一寸先の道さえ見ることは叶わず、ただ地面があるのは、足の裏の感触による不確かな確認のお陰。風の流れも感じない場所に、私は一人、立っていた。
手を伸ばし、探ってみる。何か触れるか、何かに触れられるか、恐る恐る、恐々と。
一歩、二歩と、歩みも進めて。
躓かないか懸念するが、平らな地面の感触しかなく、ぶつかることもない。
最初は怯えながら、次第に怯えは恐怖に上書きされ、私はいつの間にか駆け出していた。
激しい息遣い。
慌てだしい足音。
頬を撫でる風。
それらすべてが、感じられなかった。
私自身が発している息遣いも足音も、まるで真綿に吸収された水のように、姿を見せない。脚を動かし、手を振りあげ、走ると考えているから私は動いているはずだと思っていたが、それを証明する手段が、ここにはなかった。頬を切るはずの風も感じられず、何もない。
何もないことを、知った。
それは私にとって、馴染み深いモノ。
私には、何もない。何もないから、誰の記憶にも残らない。
――嫌だっ!!
何もないのに、訴える。声を荒げて、大きな声を出しているつもりで。
響くことも伝わることもない私の声は、どこにもいない。
――違うっ! 私はここにいる!!
必死に、必死に。
苦しく、息苦しく。
私はみんなに、訴える。
ここにいる、ここにいる。
私はあなたの目の前にいる。
だからお願い、忘れないで。
思い出さなくてもいいから、忘れないで。
私を、殺さないで。
死にたくなんてなかった。
死んでいくなんて嫌だった。
だから私は、何としてでもみんなの記憶に残ろうと、入り込もうとしたのだ。
例えそれが、非道と呼ばれる手段だったとしても。
それで実際、本当に私が死んでしまっても。
命が消えることより、存在が消える方が嫌だった。
だから叫ぶ。大きな声で、大声で。
私はここにいると、訴えた。
けれど、私は、足場は、崩れ落ちた。
あとは真っ逆さま、暗闇の底に繋がる穴。
私はゆっくりと、落ちていく。
手を伸ばし、光などない、同じく暗闇に手を伸ばし、叫ぶ。
死にたくないと、消えたくないと。
訴えた。
「――いやっ!!」
「ごうっ!?」
視界にあるのは、蛍光灯。室内を照らす安っぽい蛍光灯が目に入った。
私の手が蛍光灯へ伸ばされている。何もない空間。けれど、そこには少し、温もりがあった。
「……え?」
乱れる呼吸を抑えながら、私は起き上がると、どうやらソファーに横になっていたらしい、そこは来栖の事務所だった。
「え……どういう、こと……」
「こちらの台詞だ……」
右手、ソファーの背もたれの方から声が聞こえた。覗き込むと、来栖が顔を抑えて蹲っている。変なところにいる。どうしてそんなところで蹲っているのだろう?
「何してるの?」
「殴ったのはお前だ」
涙目を浮かべながら、来栖が非難がましい視線を投げかけてきた。
私はもう一度状況を整理する。何故か私は事務所のソファーで横になっていた。それで来栖は殴られたと言うが、私は別に暴力を振るった覚えはないのだけれど。
「ぶつぶつとうなされているかと思ったら、急に拳を突き出すとはな。お前、寝相が悪すぎる」
どうやら、目覚めた瞬間に伸ばした手に、来栖がぶつかったらしい。温もりを感じたのは来栖への攻撃だったようだ。そこで、私は怖い、嫌な夢を見ていたのを思い出す。今はもう、輪郭さえあやふやになってしまったけれど、怖く嫌な夢だったのは覚えていた。身震いしてしまうほど、恐ろしい。
「ね、ねぇ。どうして私、ここで寝ているの?」
思い出したくなく、話題を逸らすために私は疑問を告げた。記憶があやふやで、来栖の事務所を出たまでは覚えているのだけど。
来栖は鼻を抑えながら言った。
「お前の悲鳴が聞こえてな。外に出たら、お前が倒れていた」
「私が、悲鳴……?」
なんで悲鳴なんか、とそこで。
思い出した。そうだ、そうだ。
私は、岬に出会って、それで――。
「あ、起きたー?」
思考が、分断される。声のする方へ顔を向ければ、そこには。
「おはよ、みゃーちゃん。お目覚めは如何かなー?」
「み、岬……」
いつもと同じく、朗らかな笑みを携えた岬が、羊羹を咀嚼しながらトイレと風呂場があるドアから出てくる岬が、いた。
一瞬、先ほどの岬との会話は夢だったんじゃないかと思ったが、そんな妄想を否定したのは、当の本人の岬自身だった。
「それじゃあ、続きを話そっか」
「つ、続き?」
「うんー」
岬はとことこと私に、ソファーまで来ると、ちょこんと隣に座る。
笑顔を浮かべて、いつも通りの、態度で。
「彼を殺したのは誰か、考えよう?」
そんなことを、言ったのだ。
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