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十話 怪刀乱麻


      φ      φ


 何もない、何も見えない場所に私はいる。

 真っ黒な闇の中、物音もなく、世界をただ暗いとしか見ることができない、そんな空間。

 手を伸ばしても空を切るばかりで、掴むことも、触れることもできやしない。

 ――ここにいるのは誰?

 思い切って声を出してみるけれど、吸い込まれるように音は消え、声は聞こえない。

 心細く、不安になる。

 私は今、どこにいるのだろう。

 真っ暗だ。一寸先の道さえ見ることは叶わず、ただ地面があるのは、足の裏の感触による不確かな確認のお陰。風の流れも感じない場所に、私は一人、立っていた。

 手を伸ばし、探ってみる。何か触れるか、何かに触れられるか、恐る恐る、恐々と。

 一歩、二歩と、歩みも進めて。

 躓かないか懸念するが、平らな地面の感触しかなく、ぶつかることもない。

 最初は怯えながら、次第に怯えは恐怖に上書きされ、私はいつの間にか駆け出していた。

 激しい息遣い。

 慌てだしい足音。

 頬を撫でる風。

 それらすべてが、感じられなかった。

 私自身が発している息遣いも足音も、まるで真綿に吸収された水のように、姿を見せない。脚を動かし、手を振りあげ、走ると考えているから私は動いているはずだと思っていたが、それを証明する手段が、ここにはなかった。頬を切るはずの風も感じられず、何もない。

 何もないことを、知った。

 それは私にとって、馴染み深いモノ。

 私には、何もない。何もないから、誰の記憶にも残らない。

 ――嫌だっ!!

 何もないのに、訴える。声を荒げて、大きな声を出しているつもりで。

 響くことも伝わることもない私の声は、どこにもいない。

 ――違うっ! 私はここにいる!!

 必死に、必死に。

 苦しく、息苦しく。

 私はみんなに、訴える。

 ここにいる、ここにいる。

 私はあなたの目の前にいる。

 だからお願い、忘れないで。

 思い出さなくてもいいから、忘れないで。

 私を、殺さないで。

 死にたくなんてなかった。

 死んでいくなんて嫌だった。

 だから私は、何としてでもみんなの記憶に残ろうと、入り込もうとしたのだ。

 例えそれが、非道と呼ばれる手段だったとしても。

 それで実際、本当に私が死んでしまっても。

 命が消えることより、存在が消える方が嫌だった。

 だから叫ぶ。大きな声で、大声で。

 私はここにいると、訴えた。

 けれど、私は、足場は、崩れ落ちた。

 あとは真っ逆さま、暗闇の底に繋がる穴。

 私はゆっくりと、落ちていく。

 手を伸ばし、光などない、同じく暗闇に手を伸ばし、叫ぶ。

 死にたくないと、消えたくないと。

 訴えた。

「――いやっ!!」

「ごうっ!?」

 視界にあるのは、蛍光灯。室内を照らす安っぽい蛍光灯が目に入った。

 私の手が蛍光灯へ伸ばされている。何もない空間。けれど、そこには少し、温もりがあった。

「……え?」

 乱れる呼吸を抑えながら、私は起き上がると、どうやらソファーに横になっていたらしい、そこは来栖の事務所だった。

「え……どういう、こと……」

「こちらの台詞だ……」

 右手、ソファーの背もたれの方から声が聞こえた。覗き込むと、来栖が顔を抑えて蹲っている。変なところにいる。どうしてそんなところで蹲っているのだろう?

「何してるの?」

「殴ったのはお前だ」

 涙目を浮かべながら、来栖が非難がましい視線を投げかけてきた。

 私はもう一度状況を整理する。何故か私は事務所のソファーで横になっていた。それで来栖は殴られたと言うが、私は別に暴力を振るった覚えはないのだけれど。

「ぶつぶつとうなされているかと思ったら、急に拳を突き出すとはな。お前、寝相が悪すぎる」

 どうやら、目覚めた瞬間に伸ばした手に、来栖がぶつかったらしい。温もりを感じたのは来栖への攻撃だったようだ。そこで、私は怖い、嫌な夢を見ていたのを思い出す。今はもう、輪郭さえあやふやになってしまったけれど、怖く嫌な夢だったのは覚えていた。身震いしてしまうほど、恐ろしい。

「ね、ねぇ。どうして私、ここで寝ているの?」

 思い出したくなく、話題を逸らすために私は疑問を告げた。記憶があやふやで、来栖の事務所を出たまでは覚えているのだけど。

 来栖は鼻を抑えながら言った。

「お前の悲鳴が聞こえてな。外に出たら、お前が倒れていた」

「私が、悲鳴……?」

 なんで悲鳴なんか、とそこで。

 思い出した。そうだ、そうだ。

 私は、岬に出会って、それで――。

「あ、起きたー?」

 思考が、分断される。声のする方へ顔を向ければ、そこには。

「おはよ、みゃーちゃん。お目覚めは如何かなー?」

「み、岬……」

 いつもと同じく、朗らかな笑みを携えた岬が、羊羹を咀嚼しながらトイレと風呂場があるドアから出てくる岬が、いた。

 一瞬、先ほどの岬との会話は夢だったんじゃないかと思ったが、そんな妄想を否定したのは、当の本人の岬自身だった。

「それじゃあ、続きを話そっか」

「つ、続き?」

「うんー」

 岬はとことこと私に、ソファーまで来ると、ちょこんと隣に座る。

 笑顔を浮かべて、いつも通りの、態度で。

「彼を殺したのは誰か、考えよう?」

 そんなことを、言ったのだ。


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