四話 心情確認 1-3
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帰り道。帰宅の途。
岬と別れ、我が家に向かって歩いていた。考えるのは恋愛の事。それも自分のではなく、他人の恋愛。相談されたことだけではなく、恋愛そのものについて考えていた。
恋とはなんだろう。誰かを愛することだろうか。
愛とはなんだろう。誰かに恋することだろうか。
好きという言葉だけで括るには、それはとても重くて大きい存在のような気がした。
人は言葉を簡単に口にする。
好きでもないのに好きと言え、嫌いでもないのに嫌いと言う。
殺す気もないのに殺すと言って、死ぬ気もないのに死ぬと言う。
本音と建て前。
本心に届かない言葉の数々。本音を隠した台詞の数々。
考えさせられる切っ掛けとなったのは岬の発言だ。それまでの私は、恋愛についてあまり考えることがなかった。好きになれば恋愛で、恋人ができれば恋愛だと思っていた。でもそれが、覆されはしないけど、それでも考えるくらいには思い悩む題材になったのだ。
岬の考えは異端なのだろうか。
好きだから奪って、奪ったら好きになる。
そんな簡単な理屈ではないと思うけど、同時に、感情に理屈は通用しないと思う自分もいる。
恋をするのは理屈じゃなく、感情だ。好き嫌いに決まった法則はなく、けれど王道はあって、それでも人それぞれの違った愛の形が存在する。
友情を愛と言ってもいいし、恋人は愛によって成り立つし、家族愛だって一つの形だ。
でも、私はその愛が何なのか、明確に説明しろと言われると、確かなことを言える自信がなかった。
誰かの心に残る、刻まれた思い出。
ちょっとロマンチックに言うなら、こんな感じだろうか。
思わず笑いそうになる。だって、私が求める一つの形が、それであるのだから。
誰かの心に、忘れられずに残りたい。
でも恋愛だと、私も誰かの思い出を残さなくてはならない。嫌じゃないけど、残したいと思えるほど好きになる人はいないのだ。残念なことに、寂しいことに。
ただ、気は楽である。恋愛について答えは出せなくても、相談についても答えを出す必要はないのだ。彼女が私に相談した内容は、決して答えを出す必要性があるものじゃない。
すでに恋人がいる相手なのだ。諦めるのも、失恋も恋のうちだろう。
私はそこで考えるを止め、もうすぐ家に着くので先にお風呂に入るか食事にしようか考えた、その時。その瞬間。
十字路を曲がり、電柱の暗がりに潜む猫がこちらを見ている。
街灯は頼りなく道を不鮮明にし、儚げな光源は点滅していた。
空には月だけが輝いて、垂れ幕がかかった舞台のように世界を覆う。
連なる家の窓から光が漏れ、道路を照らし導く。
ふと道の先を見ると、明かりが点いていた。
「え?」
雷鳴のように響く鼓動。忙しなく繰り返される動きではなく、一撃、一度、一回。その時に蠢いた感情の動き。私の心臓はただ一度、私に知らせてきた。
異常ではないけれど、異質であるものが目の前にあることを。
それは当たり前であるはずの光景に、ありえない景色を見た動悸。
「……まさか」
思わず駆け出してしまった。
だって、そんな、おかしい。
まだ、まだだ。今はまだ、誰もいない、それが私の日常だったはず。
たった数十メートルの距離に、普段とは違う鼓動に呼吸が正常に作動しない。
トクトクドクン、と。
走り出した代償か、それとも現実を突き付けられた動悸の結果か、不規則に、不連続に喋り出す心臓。
「はぁ、はぁ……」
辿り着いたのは玄関。明かりが灯った、私の家。
誰かがいる。
いつもはいない、私以外の住人が、今はいる。
何を焦って、いや焦っているのだろうか。焦っているというより、何か違う、もっと違う感情が私を突き動かしている。言葉に言い表すことはできるけど、その言葉を私は知らない。
それは果たして何を求めているのか、私自身も解っていない。
恐る恐る、ドアを開けた。
「ただい……ま……」
顔だけ覗かせ、様子を見る。靴があった。男物の上品な革靴と、女物の気品ある革靴。
予想は確信に変わり、確信は何かに変わった。
落ち着け、落ち着く。
軽く深呼吸をし、私は家に上がった。
普段は暗闇に満ちる我が家が、他の家と同じく人の気配と共に光で満ちている。
声が、声がする。人の声だけど、知らない声。テレビだ。誰かがテレビを見ている。
忍び足で居間のドアをそっと開けると、ソファーに腰かけた男がウィスキーを飲んでテレビを見ていた。テーブルの方には眼鏡をかけた女がパソコンを操作しているのが見える。
確信が現実に変わり、現実へ私は手を伸ばした。
「た、ただいま」
若干上擦った感じになったのが解る。緊張して、それだけじゃない感情も合わさって、なんだか変な気分だった。男と女が振り返り、私の顔を見て言った。
「あら、寝てたんじゃないの?」
女が言った。その瞬間、私は悟る。
動悸は消え、緊張は消滅し、何かが萎んだ。
ほら、やっぱり。
予想より確信より現実より私より、事実はこんな風に、訪れる。
無作法に、無遠慮に、私の心を踏み荒らす。
体温が下がった気がした。血の気が引くとは違う、でも似た現象が私の中で起こる。
「うん、友達とお茶してて」
何でもない風に、平然と平素を装い、私は口を動かす。頭で考えていることはまったく違う、事実は現実になり、現実は確信になり、確信が予想を裏切ったことを告げる、私の思考。
女の発言に続き、男が歯切れの悪い口調で聞いてきた。
「遅い時間まで遊ぶのはダメだぞ。……それで、その友達は、あれ、か?」
音が聞こえている。何かが決まった音が、私の心か脳か、どこかで聞こえた。
「あれ?」
何の疑問も持たず、私は聞き返した。何かを知りたいとさえ思っていない思考の中、何も見たくない感情の中、私はただ尋ねられたことを聞き返した。
会話だから、これは人と人の会話だから。
「だからその、女の子なんだろ、相手の子も。あまり遅い時間まで女の子同士でいるのは危険だぞ」
「大丈夫だよ、これくらいの時間は普通だから」
笑顔だ、ちゃんと浮かべている。声に出すまではいかないが、それでもちゃんと、形作っているはずだ。スマイルスマイル、笑顔は大事で、私は大丈夫。ほらね、ちゃんと笑顔を作ろうと思えば、ちゃんと作れるんだから。
テーブルに座った女が呆れた様子で苦笑した。
「お父さん、聞きたいことがあるなら聞いたらどうです」
「いやだって、女の子なんだろ?」
男の質問に、私は答えた。
「うん、だけど大丈夫だよ」
「そうか、女の子か……まぁうん、大丈夫ならいいんだ。なぁ母さん」
「はいはい」
相変わらず苦笑を浮かべる女。
何かに安心した様子の男。
あれ、この二人って、何だろう。
素朴な疑問が、今度こそ本当に、正しい疑問が浮かんだ。
あれ、私って、何だろう。
「じゃあ、部屋にいってるね」
これ以上ここに居たくなくて、私は逃げるように告げた。二人を残し、自室に向かう。誰もいない私の部屋。静寂が支配しているであろう、いつもだったら寂しさと切なさが込み上げてくるそこに、私は今、恋しさを抱いていた。
多分、私は決まったのだろう。この時に、この瞬間に、私がいないことも気にかけなかった男女を知った時に、決まったのだ。
駆け込むように部屋に入った私は、決心する。ぽつりと、声が、心から漏れた。
それは込み上げたというには不適切で、でも、それ以外にどう形容していいのか解らない感情の呟き。
「……いやだ」
離れていても、近くにいても、変わらぬ存在。それが、私だ。
だから私は誰の記憶にも残らず、そしてそれは、誰の心にも残っていないということは、つまり。
死んでいることと、何ら変わらないということ。
「私は……ここにいるんだ……」
弱々しく、力強い想いが胸に宿る。
世界から忘れられるなんて、冗談じゃない。
「だったら、忘れさせない」
歯を喰いしばり、言う。
拳を握り締め、言う。
何かが頬を伝った感触がした。ぽとりと、落ちた。
小さな水滴が、私の靴下に滲む。
「恋も愛もないなら」
カーテンが開かれた窓が見えた。
私の顔が映る。醜く滑稽な、私の顔が見えた。
「ずっと……居てやる」
闇を背景に佇む窓には、笑顔の私がいた。
壮絶、という言葉が似合いそうな、泣き笑いの顔が。
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