四話 心情確認 1-2
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家に帰ると明かりは消えていた。
いつも通りの光景、いつもと同じ風景。
誰もいない我が家に、私は帰ってくる。
「……ただい、ま」
返事はない。誰もいないのだから。
一戸建てのありふれた家。一階にはリビングと両親の寝室、風呂場がある。私は二階の自室へ向かった。部屋に入り、鞄を置いてベッドに倒れ込む。
真っ暗な室内。
無音の家屋。
誰もいない、何もいない、私の家。
両親は共働きで、帰ってくるのは深夜の遅い時間帯だ。
小学校を卒業する前からそんな生活が続いているので、もう慣れてしまった。交流なんてもの、最後にあったのはいつだっただろうか。正月に家族が集まることも、クリスマスに祝うことも、誕生日に互いの顔を見ることもなかった。
思い出は何もない。
心の残るようなモノも、記憶に残るようなことも、私の家には何もなかった。
虐待を受けているわけでもなく、ただ私は、両親の子供だからという理由でしかここにいない。
今でも思い出す、あの言葉。
―― あら、いたの ――
今でも忘れない、あの言葉。
―― ああ、いたのか ――
何気ない言葉。
なんて事のない台詞。
悪意も差別も侮蔑もなく、自然に紡がれた声。
例え悪意でも構わなかった。それならそれで、私を想ってくれている。
例え差別でも構わなかった。それならそれで、私を考えてくれている。
例え侮蔑でも構わなかった。それならそれで、私を認めてくれている。
だけど、あの人達には、口から出てきた言葉には、何もなかった。
それがどれだけ、――だったことか。
「……っ!」
頭が痛い。割れるような激しさはなく、鈍痛が広がっていく。慣れた痛みだ。考えれば、思えば、出てくる偏頭痛。
大きく深呼吸。
目を瞑る。
瞼を開ける。
そこには変わらぬ暗闇が広がっている。
「ただいま……」
誰に言うでもなく、強いて言うなら、自分に向けて。
私は私に、おかえりと心の中で呟く。
果たしてここが、私の帰るべきところなのかも、解らずに。
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翌日学校に行くと、隣に座る彼女は「よろしくお願いしますね」とだけ言ってきた。いつも挨拶するだけの仲とは違い、少しだけ近くなった間柄になっていた。何故私に相談したかは解らないけれど、それでも頼られて悪い気はしない。
ただ問題なのは、相談内容。
来栖にも頼んだが、あいつだけに任せるわけにはいかないだろう。少なくとも、全部任せて後は野となれ山となれでは、彼女は私が助言していると考えているわけであり、下手なことを言って拗らせるのもマズイ。
ここは面倒だが、少しでも意見を言わなくてはならない。この段階になって、やっと私の考えが出てきたが、ここで打ち止めだ。
来栖には言ってないが、私はまともな恋愛経験をしたことがない。昨日あの後、来栖の事務所を出て家に帰るまでの間に本屋に寄り、少女漫画を一冊買ってみた。読み切りの短編集で、恋愛についてどんなものかと思い手に取ってみたのだ。
参考になるかと言えば、難しいところだった。
出てくる登場人物は何故かみんな美形で、しかも金持ちが多かった。不思議なことに何の取り柄もない主人公のことを好きになり、また不可思議なことにその主人公は多くのイケメンからモテるのだ。理由は優しくしてくれたとか、特別な目で見ない本当の自分を見てくれたとあったが、あまり共感はできなかった。試しに少年漫画で恋愛が描かれている同じような本も購入したが、驚くほど胸が大きい少女達が冴えない男子に群がっているようにしか見えなかった。選らんだ本が悪かったのかもしれない。
悩んだあげく、私は数少ない、話ができる友人を頼ることにした。
「ん? どうしたのーみやちゃんがあたしに話しって珍しいねー!」
岬はハンバーガーを五つ頼み、シェイクを飲みながら言った。放課後、この間行った店とは違うジャンクフードのお店。ハンバーガーがワンコインで買え、学生に優しい店だ。だとしても、岬の頼んだ量は結構なモノで、来栖同様なぜこれだけ食べて太らないのか不思議である。
「いや、まぁちょっと聞きたいことがあってね」
「いいよいいよー! どんどん聞いて! じゃんじゃん答えりゅきゃら!」
もぐもぐと美味しそうにハンバーガーを頬張りながら言う。相談する相手を間違えたかと思ったが、一応聞いてみることにした。
「あのさ、岬は恋愛経験って、ある?」
「ありゅよー」
ハンバーガーを一口で食べる人を初めて見た。小さな口なのに、素直に凄いと感心してしまう。それにしても、岬にも恋愛経験があるとは知らなかった。あまりそういった事とは無縁そうに見える。まだまだ子供なイメージの方が強い岬に恋愛経験があるというのは、少なからずショックな事実だった。恋愛の分野に関しては同類だと思っていたのに、と考えたがそう思っておきながら相談する私も私だった。仕方ない、他に相談できそうな人間を私は知らないのだ。知らないというより、いないが正しいけれど。
若干の疎外感を味わいながら、私は尋ねる。
「じゃ、じゃあさ。例えば、好きな人に恋人がいる場合って、どうする?」
「ふぁ?」
直球過ぎただろうか。しかし遠回りに聞くにもどうやって聞けばいいのか解らない私は、こうやって聞くしかない。岬は行儀よく咀嚼し飲み込み、シェイクをずぞぞぞと吸い一息吐いて私を見た。
「え、みやちゃん略奪愛狙ってるの?」
「いや、私じゃない私じゃない。例えばの話よ」
「そっかーそうだよね! みやちゃんってそういうの興味なさそうだもんね!」
聞きようによっては失礼な気もしたが、岬の無邪気な顔を見ていると怒る気もなくなる。それよりも今は意見が欲しい。
「うん、それでさ、もしそうだったら、岬はどうする?」
「あたしー? うーん、難しいなー」
ストローを咥え、頬を膨らませる岬。一般的な、常識的な意見ならば身を引くといった答えが返ってくる。それくらいは私にも解っている。先ほど岬が言ったように、もし相手がいても関係なしに事を進めるならそれは略奪愛だ。褒められたモノじゃないし、認められるモノでもない。
だけど、褒められず認められないからといって、引き下がれるほど人間は出来ていない。
未経験の私が言うのもアレだが、それくらいの想像はついた。
誰かに恋している時、恋は盲目なんて言うが、そういうモノだと思う。
その人のことしか考えられなくて、その人のことを考える。
上手く整えばその人の幸せを考え、身を引くなんて選択もできるだろうけど、実際問題、幸せの定義は人それぞれだ。自分と一緒の方が幸せと判断すれば、自分の幸せを優先してしまえば奪うことに躊躇はなくなるだろう。
とまあそんな個人的かつ空想妄想の産物でしかない私の意見を、岬は経験者として、あくまでも恋愛経験なのだけど、どういった答えを返すのか興味があった。
岬は残りのシェイクを吸い切ると、徐に口を開く。
「時と場合に、寄るんじゃないかな?」
「ああ、うん……」
当たり障りのない、模範的な解答。
何の参考にもならない、つまらない答え。
失礼だが、私が思い浮かべたのはそういった落胆に類する感想だった。それくらいは解っている。今欲しいのは、明確な指針となる言葉だ。
「まぁ、そうよね」
「うん、だからあたしは、比べると思うな」
「比べる?」
「そう、比べるー」
エヘッ、とだらしない笑みを浮かべる岬。それはまるで、好きな人のことを思い浮かべたような、幸せに満ちた笑みだった。
「人間関係とか、世間体とか、そういうのを差し引いてでも一緒になるって覚悟があるなら、奪うんじゃないかな?」
奪う、と言った。
珍しく、岬にしては攻撃的な言葉だ。いつものほほんとして、おっとりした彼女からは想像がつかない選択。
「奪うって……相手に恋人がいても? その人が好きなのは自分じゃなくても、するってこと?」
「うん。だって、好きなんでしょ? 好きなのは、私なんだよ?」
「それは、そうかもしれないけど……」
何かが違うような気がする。
正しいことを言っているようにも思えるし、けれど決定的にずれている気がする。
好きだから奪う。
それは、果たして恋愛なのだろうか?
「でも、もし奪えたとしても、それっていいのかな? 相手が本当に好きなのは、別の人なんだよ?」
「なに言ってるのーみやちゃんってばー」
岬はおかしそうに笑い、言った。
「奪ったってことは、もうその人は私のことが好きってことなんだよ」
屈託のない、素敵な笑顔と共に。
 




