解決篇
「それで?」その人は警戒の眼差しで俺を見ながら言った。「話というのは何なんですか?」
俺は今、目の前にいる人と二人っきりで部屋の中にいる。三苗の考えが正しければ、この人が犯人のはずだ。
「単刀直入に言いましょう。ジェンキンスさんを殺害したのは、あなたですね?」
はっ、と息を飲む音が聞こえた。
俺を見つめるその目は大きく見開かれ、揺れている。
「何を根拠に一体、そんなことをおっしゃられるのでしょうか」
俺は言った。
「それを今から話そうと思います。僕としても絶対の自信があるわけではありません。ですから、おかしな点があったら指摘して頂きたいのです。素人の僕の推理なんか、どこまで当てになるか分かったものじゃありませんからね。よろしいでしょうか、浜野明美さん」
まあ、俺の推理じゃなくて三苗の推理だけど……。妹から電話して聞いた話なんですけど、なんてわざわざ言いたくもないので黙っておくことにする。
「……わかりました」彼女は重々しく答えた。
俺は息を深く吸った。そして三苗から聞いた推理を頭の中で反芻する。
「この事件の一番の謎は、犯人はいつ指紋を拭き取ったのか、というところです。ジェンキンスさんの絶叫、そして殴った際の打撃音が聞こえてから、我々はすぐさま階段を駆け上がりました。そしてドアが開いていたジェンキンスさんの部屋に飛び込むと既に犯人の姿はなかった。時間にしてみれば、ほんの五秒程です。五秒では自分の部屋に戻るのでいっぱいいっぱい、とても凶器から指紋を消し去る時間はありません。まずはこの謎に対する僕なりの解答をお話しようと思います」
彼女は疲れたように息をつき、先を促した。
俺も軽く咳払いをして、話を続ける。
「凶器はいつ拭き取られたのか――まず犯行のすぐ後は、先ほど申し上げました通り時間がありません。では警察が来るまでの間はどうか、と訊かれますと、これも南村が『ポットには誰にも触らせていない』と言っているので除外されます。とすると、残った可能性は一つしかありません。凶器が拭き取られたのは、犯行より前だった」
浜野さんは眉をひそめ、かぶりを振った。
「失礼ですけれど、おっしゃられている意味がわかりませんね。犯行前にせっせと凶器を拭いてどうなりますか、何の意味もありません。それならば、ポットには犯人の指紋が残っているはずでしょう」
「確かに、犯人にとってはそんなこと何の意味もありません。だから、ポットを拭いたのは犯人ではなかった、ということになります」
「ますます意味がわかりません。犯人でないなら一体誰がそんなことをするんですか」
「犯人以外にジェンキンスさんの部屋のポットをどうこう出来る人間は一人しかいません。すなわち、ジェンキンスさん自身ですよ」
「どうして彼がわざわざそんなことを――」
「ポットを拭く理由は何も指紋を消し去るためとは限らない、ということです。つまりですね、彼はただ単純に、誰の手垢がついているかも分からないようなポットから出るお湯なんか飲みたくなかったんですよ。だからジェンキンスさんはポットを丹念に拭いたのです。そしてジェンキンスさん自身も手袋を嵌めているため指紋は残らない。結果として、そのポットには誰の指紋もなかったわけですね」
「それはどうでしょう、彼がそこまで神経質な人だったかどうかは……」
「とぼけるのは無しにしましょう、浜野さん。ジェンキンスさんは極度の潔癖症だった、そうですね」
浜野さんの顔がいっそうこわばるのが分かった。そして彼女が青白い顔で投げやりに頷くのを確認し、俺は続けた。
「出会ったときは、どうして彼は手袋なんか嵌めているのだろうと思いましたよ。英国紳士というやつなのかな、なんて間抜けなことも考えたりはしましたが何のことはありませんでした、潔癖症だったからです。身なりからも清潔感が漂う人だったし、自分用の食器を持参していたのは今にして考えてみればそういうことだったわけですね」
「……その通りです、彼は潔癖症でした。ですからポットを拭いていたとしてもおかしなことはありません。……でも」浜野さんは顔をあげた。「もしそうだったとしても事件とは関係がないでしょう。ポットが拭かれたのが犯行前なら犯人の指紋は残っているはずですからね。結局は犯行後に指紋は拭き取られたんです」
「どうして凶器に犯人の指紋がなかったのか――その答えは『犯人が拭き取ったから』だと我々は当たり前のように考えていました。しかし、そこが間違いだったんです。残っているはずの新倉さんの指紋までなかったのだから指紋の拭き取りが行われたことは間違いなく事実です、それ故に『犯人の指紋がない理由』まで拭き取りによるものだと勘違いしてしまった。犯人の指紋が残っていなかったのは結局、指紋が拭き取られたからではなかったのです」
「もってまわった言い方はやめて結論を言っていただきたいですね」
「申し訳ありません、では僕の考えを言います。つまりですね、犯人は手袋をしていたから指紋は残らなかった。これが結論です」
浜野さんは頭痛をこらえるように顔をしかめると、ゆらゆらとかぶりを振った。
「それはおかしいでしょう、野辺山さん。これは明らかに衝動的犯行です。あらかじめ手袋をしていたというのなら、もっと慎重にことを運ぶのが普通ではありませんか?」
「その通りです。犯人はジェンキンスさんの部屋を訪ねた段階ではまだ殺意はなかった。言い争いでもしているうちにカッとなってその場にあったポットで殴りつけたのでしょう」
「それなら、手袋をして凶行に及んだというのはあり得ないのでは?」
「指紋が残っていなかった点から犯人が手袋をしていたのは間違いありません。犯人には最初殺意はなかった。しかし手袋は嵌めていた。そうなると、犯人はジェンキンスさん殺しとは別の理由で手袋をしていたことになります。手袋をするのは、何も指紋を残したくないときばかりではありませんからね」
そこまで言うと彼女は全てを諦めたように項垂れた。こちらが全て分かっている、ということを悟ったのかもしれない。
魂の全てを吐き出してしまうのではないかという大きなため息をつき、か細い声で「別の理由とは何ですか」と尋ねた。俺はポケットから携帯電話を取り出す。そしてデータフォルダからその画像データを引っ張り出した。
「あなたとジェンキンスさんは恋人だったんですよね」
「……どこで知ったのかは分かりませんが、その通りです」
「僕がそれを知ったのは、この画像を見たからですよ」
そう言って、俺は浜野さんに画像を見せた。
山本くんに頼んで送ってもらった、浜野さんとジェンキンスさんが仲睦ましげに寄り添って歩いている画像である。
「それは……」
「どうやら学校で出回っていたようですよ。まあ、それはさておき……」俺は咳払いした。「この写真のあなたは、薄手の長手袋をしていますね。これは僕の推測ですがね、浜野さん。あなたはプライベートでジェンキンスさんと会うときは、いつもこういったファッションだったのではないですか。あなたは今日、長手袋も含めたこの写真の格好でジェンキンスさんの部屋を訪ねたのではありませんか」
「…………」
浜野さんが黙ったままなので俺は続ける。
「まあ、それはとりあえず措いておきましょう。そこに関しては確たる根拠があるわけでもありませんしね。重要なのは、犯人が犯行とは別の理由で手袋をしてジェンキンスさんの部屋を訪ねた、という点です。この民宿内で見つかった手袋は新倉夫人が洗い物をするときに使うゴム手袋だけです。しかし、犯行とは別の理由でゴム手袋を洗い場から持ち出して、しかもそれを嵌めたままジェンキンスさんの部屋を訪ねる、というのは考えにくいので、ゴム手袋が使われた可能性は除外します。そうなると、他に手袋と呼べるような代物は見つかっていないので、犯人は犯行のときにしていた手袋を処分したということになります。警察が民宿内とその付近を徹底的に捜査しても見つかっていないぐらいだから、手袋が処分されたのはここから離れた場所になるわけですね」
浜野さんは尚も俯いたまま黙り込んだままだ。
俺は続けた。
「アリバイがないのは西原さん、山本くん、浜野さんの三人。事件が起こった後《星雲》から離れたのは、三人のうちであなただけです。そう、ジェンキンスさんを病院に運ぼうとしたときですよ。あなたはあのとき手袋を氾濫していた川に捨てたんですね。つまりあなたはジェンキンスさんを病院に連れて行く気などなかった。本当は、それを口実に手袋を処分しに行くことこそが目的だった。違いますか」
浜野さんは再びため息をついた。
長い沈黙の後、彼女は全てを認めた。
*
最近、浜野さんはジェンキンスさんとうまくいっていなかったそうだ。
理由は入試問題の流出の件だ。西原さんも含め、三人は疑心暗鬼になりぎすぎすしていたらしい。
浜野さんは今回の旅行をきっかけにジェンキンスさんとの関係を修復したかった。だから、仲が良かった頃によく着ていた服に身を包み、ジェンキンスさんの部屋を訪ねたのだ。ところが実際は、仲直りどころか余計に険悪な雰囲気になってしまった。それどころか、言い合ううちに入試問題を流出させたのはジェンキンスさんということが分かってしまった。反省するどころか居直ろうとするジェンキンスさんの態度にカッとなり、思わずその場にあるポットで彼を殴りつけてしまったとのことだ。
すぐに自分のやったことが恐ろしくなった浜野さんは一目散に自分の部屋に戻る。俺たちが二階に上がったのとはタッチの差だったらしい。俺たちがドタバタ騒ぐ音を聞いて浜野さんは輪にかけて恐ろしくなったそうだ。
しかし彼女は部屋に戻ると幾分落ち着きを取り戻した。そして気がついたのだ。自分が手袋を嵌めていた、ということに。最初こそ指紋を残さなくて済んだことに安堵したが、やがてこう考え始める。『もし手袋を持っているのが自分だけだったら、結局は自分が殴ったのだということが分かってしまうのではないか』と。浜野さんは、そのときはポットが拭かれたことを知らないので、『指紋がないということは手袋を持っている者が犯人だ』という流れになることを危惧したのも無理はないだろう。彼女は、そう思うと手袋だけは何としても処分しなければならない、窓から投げ捨てたりしただけでは絶対に見つかってしまうだろうと考えた。
まず服だけでも着替えよう。そう思い着替えを始めていたとき、ドアをノックする音がして俺の声が聞こえたのだそうだ。そのまま出るわけにもいかず、とりあえずは『恐怖で外に出られない』体をうちながら適当に受け答えをする。着替えが終わり、外に出るとジェンキンスさんを病院に連れて行くと申し出たのだ。もちろん実際は手袋を遠くに処分しに行くためである。浜野さんは英語科の仲間とよくここに遊びに来ていたため、橋は十中八九流れているだろうという踏んだらしい。また、病院まで行けたとしてもジェンキンスさんはもう助からないだろうと見越していたのだそうだ。
案の定川の氾濫によって流された橋を見ると、絶望のあまり心ここにあらずという演技をしながら外に出る。無論手袋を持ってである。そして川に手袋を流した。
それが浜野さんが行ったことの全て、だそうだ。




