(5)~雷雨は去ったものの、~
飯盛 双玄。この名前なら、知っている。三年前、名前以外・秘匿で話題になった、天才書道家だ。もちろん、”双玄”というのも本名ではないのだろう。3年前というと、俺がまだ12、3歳の頃だ。
あの人のおかげで、俺は今ここにいるんだ。
結局、謎の生徒と、彼をからかっていた生徒3人は停学1週間ということで話はついた。校長室を出るとき、今度は、謎の生徒、教師2人、晴花、俺の順に出た。
俺は部屋を出る直前、
「飯盛先生」
と呼んだ。その時言った”先生”は教師という意味で言ったのではない。
「ありがとうございました」
はっきりと言ったその声を聞いて、飯盛校長は全て知っているとも知らないとも見える表情で、
「どういたしまして、幹君」
とだけ言った。
久々に名字で呼ばれたのにも驚いたが、何よりも自分の名前を知っていたことに意表を突かれた。
部屋を出て、戸を閉めると、晴花が俺の顔を覗き込んだ。
「校長先生と知り合いなの?」
「……いや、どうだろうか」
「どうだろう、ってどういうことよ」
「本気でどうなのか分からないからどうだろう、と言ったんだ。もう訳が分からなくなってしまったじゃないか」
「私も分かんないわよ!」
晴花が俺を強く押す。正直痛かった。
「お前ら、いつも仲良しなことはいいが、そういうのは人前で見せるものじゃないぞ」
杉田先生ではない方の教師が笑いながら言う。いつも? この人は俺たちを知っている?
「仲良くありません」
……そうだ、この先生は俺のクラスの担任、相良先生だった! 自分のクラス担任まで忘れるなんて、俺の記憶力はおかしくなっている。
急に晴花が黙り込んだ。たまにあるけど、一体何なんだ?
俺が何か悪い事でもしたか? ……まあいい、今日は一つ、良いことを知ったから。
教室に帰る途中、俺は3年前のあの日のことを思い出していた。
~~
……雨が嫌いだった、あの頃(今も少々嫌いである)。家を出ることも嫌になり、しばらく中学校を休んだ時期もあった。ちょうど、梅雨の時期もあったのだろう。じめじめとした空気に、心まで湿っぽくなりそうだった。
そんなとき、家族が”書道”を勧めてきた。家でもできる、という理由からであった。
初めは字を書くぐらいで、何が書道だ、と思っていた。でも次第に、書を書くことには、精神力が要るということが感じられてきた。いい字が書けたときの喜びが、こんなに良いものだとは思わなかった。
ある日、書道の雑誌を読んでいると、1人の書道家の作品が、見開き1ページ分折りたたまれて大きく載せられていた。
書いてあった字は、”雨のち晴”という、聞けば何でもない一句だった。
しかし、書には”雨”という字と、”晴”という字が対照的に描かれていて、まるで絵画のような印象を受けた。”雨”なのに、踊るような字体。”晴”なのに、哀れみのある字体。
それまで雨が嫌いだった自分が、これまでの”雨”、”晴”の概念をひっくり返されたような気分だった。その後じっくり読んでみれば、
『雨で救われる人もいれば、晴で苦しめられる人もいる。日本人が持つプラスマイナスの原理を、書道という、一種の芸術で逆転させたかった』
この文が下に添えられていた。
これがきっかけで、俺は学校に行くことを決めた。遅れを取り戻しつつも、書道は続け、誰にも負けない精神力を身につけるため日々努力してきた。日々努力している。
俺を救ってくれた書道家は、たった1年で書道界から姿を消したものの、あの言葉は今も胸に響いている。
あの言葉が、今の俺を支えている。
一瞬でも、晴れ間を見せてくれたその人を、俺は今でも尊敬している。
その飯盛 双玄は、もしかしたらこの学校の校長のことかもしれない。校長先生の名前も思い出した。飯盛 荘一。言われてみれば、似ている気がしなくもない。
俺の勘違いでもいい。もし、あの人が双玄なら。もし、あの人も、俺に気づいていたら。
サインが欲しい……
~~
「もう、せっかくいい話だと思ったのに。サイン欲しいって……ばか!」
「また見られた。すごく恥ずかしい事見られた」
……雨が嫌いだった、サインが欲しい……。日記に綴った最初と最後をつなげると、なんとも意味不明な文になるが、俺はすでに教室に戻っていて、日記にものすごい速さでこの思い出を書いていたらしい。
晴花に「ばか!」と言われて頭を小突かれるまで、全くの無意識であった。
時々、いや頻繁にこの現象は起こっている。そして、なぜかそれまでの会話も知らぬうちに覚えている。……こういうことで俺は記憶力を無駄に使っているに違いない。
「ばか、あほ、まぬけ!」
晴花は涙を拭ってそう言った。そんなにいい話だったか。
「うん、お前はばかであほでまぬけだな!」
1人増えた。さっきの謎の生徒だ。明日から1週間、会わなくなるから、顔と名前だけ、一致させておこう。
「聞きそびれてたんだけど、お前の名前は?」
「ああ、そうか、覚えてないか……。オレは、金剛寺 ライタ。1週間後には覚えていてくれよ……」
悲しげな、寂しげな表情で、そう言った。こいつがライタか。何で名前がカタカナなのかなあ、と思って自己紹介を聞いていた。
そういえばそのとき、ノートに何か書いていて、顔は見ていなかった。
金剛寺 ライタ。
確か、日本人とオランダ人? のハーフとかなんとか。詳しいことは何だかんだで覚えていない。俺のばか、あほ、まぬけ!
瞳の色は黄色に近く、染めていないのに明るい栗毛の短髪。最近知った言葉でいうと、「異邦人」という言葉がよく合う。
第一印象は覚えても、名前を覚えなきゃいかんだろう、俺。
やっぱりその後1週間、彼は学校にはいなかった。この一件により、俺は晴花が気になっていたことすら、忘れてしまったのだった。
しかし、俺が以前より晴花を嫌悪することが無くなったのは、こうなっていなければ起こらなかった事態だ。まあ一応、あいつにはお礼を言っておこう。
時は過ぎ、五月の最後の日を迎えた。