(4)~気づけばそこは、○の目の中で~
おひさしぶりです。
怖い。怖い怖い怖い怖い。
だれか、なんとかしてくれ。
ま、まあ、待て。うぇいと。とりあえず落ち着こう。
ここはどこで、自分はなんだ? ――公立林高等学校。そして自分の名前は幹時雨。なんだ、と訊かれたら、言葉に詰まるくらい、自分でも自分がよく分かっていない。
今何時だ? ――12時半。昼休みの真っ最中だ。
今自分はどういう状況にある? ――追われている、そして逃げている。
いったい何に追われて、何から逃げている? ――怖いもの。本能で逃げ出したくなるもの。具体的には、黒髪を長くだらんと伸ばして、這いよってきそうな混沌に満ちた亡霊。……亡霊?
どうして追われている? ――――さぁ。皆目見当がつかない。こんな人に追われる覚えがない。
かつて友人がひと騒動を起こし、自分も巻き添えをくらった長い廊下を突っ走りながら、時雨はどこからともなく焦燥感に駆られていた。心臓の拍動も、走っているのとは無関係に速く脈を打っている。
某県立林高校の校舎の構造はいたって単純だ。三つ並んだ教室棟の間に、一階と二階でそれぞれ二つずつ渡り廊下がある。上空から見下ろすならば、ちょうど「日」を横にしたように見えるだろう。
”修理中”のテープが張り巡らせた突き当りを曲がり、奴の視界から消えようとする。すぐさま目に留まった教室に潜む。
しかしこの策もすぐに効かなくなるだろう。さっきそれをして、油断しきっていた友人が一人、奴の毒牙にかかった。甘く見てはいけないのだ。手弱女な相貌をしているからといって、けっして「弱」という言葉は奴には適用されていない。
どうしてそんな怪物に追われなければいけないのか。呼吸をある程度整え、酸素をしっかり吸い込んだ時雨は、改めて考えてみる。
・その一。異世界に飛び込んだ。
これは却下。ファンタジーには割と疎い。よってそういう短絡的な結論には至れない。そもそもこれは早々に消すべきだ。
・その二。奴が危ない薬にやられた。
これもなかろう。奴は普段であればそのくらいの分別はつくはず。でもよいこのみんなは、こういうときにはおまわりさんをよぼうね~?
・その三。奴が元々危ない人だった。
これは割とありそうな気がする……。根が「ぶっ飛びガール」な人だったからなぁ……。というわけで一時保留。
・その四。時雨が奴を変えてしまった。
……できることならそうでないことを祈りたいばかりだが。具体的に何をして変えてしまったのか、と訊かれると、身に覚えがないので、ひとまず中身は置いておく。
こんなところか。正直、どれも的外れな気もする。だいたい、現実味を帯びちゃあいない。非科学的な、〝きちがい〟じみた話なんて、晴花の「相手の心を読む力」だけで十分だ――――
「……こーこーにーいーたー?」
自分が、止まった。自分の見ている世界が、凍りついた。
奴だ。場所を変えようとして奴と鉢合わせてしまったのだ。黒味の茶髪を首のあたりで切りそろえて、一見清純そうに見えるが、その獣のような狩りの目がイメージのすべてを逆転させる。
……そう。彼女は〝獣〟だったのだ。「奥さまは魔女だったのです……」的なシチュエーションだったらどんなにか、この世界に感謝していたことだろう。
可愛らしい声に騙されてはいけない。愛くるしい相貌に見とれてはいけない。
奴は狼のように雄たけびを上げるのだ。不意に獲物を仕留める獅子の目つきに変わるのだ。
「がおー。こわいだろー?」
「ひい…………え?」
あれ、狼の雰囲気じゃない。ましてや獅子でもない。
「むー。先輩が直々にお迎えに上がりましたというのに、そのへんてこな顔はどうなのさー?」
どうなっている。彼女の言葉の使い方はどうなっている。
「いや、そんなことよりーっ。そんなに話したことないのに、逃げるとは失礼じゃないかー?」
……というか、今までよく知りもしない相手に、勝手に妄想を膨らませていた自分の頭はいったいどうなっている。ついに限界が来たか? 兆候は六月の初めあたりからあったのだが……。
しかし彼女のことは知っていた。公立林高等学校二年、森山あらし。書道部における、時雨の先輩にあたる人であった。