(3)~曇りも警報注意報に入れようか~
時雨側に切り替わります。
数学の授業は、鴻上の登校によって、空気が凍りつくことなく無事に終了した。詳しく言えば、それは杉田先生が、鴻上の登校で拍子抜けした。
というよりは、鴻上の登校で目が覚めたクラスの生徒が、好奇心に駆られ、授業中冴えてしまった、と言った方が正しい。
授業が終わった途端、彼らを筆頭に、群衆となって鴻上の周りに集まった。
そのせいで、隣に座る俺は身動きが取れない。取れません。助けてください。
荒れた海でマグロが引き上げられる感覚で(味わったことありません、マグロじゃないから)、俺はライタに救われた。その状態は……、まあ言葉では表せない。表したくない。
一応男として(いちおうって何だ!?)、棒のように引っ張られる俺って、何なんだ……。
体中だけでなく、心にも”傷”がつきました。俺、今度から自分のこと「もゃし」と呼ぼう。あくまで「もやし」じゃなく「もゃし」ですから。そういう点に微妙にプライド持ってますから!!
……誰に語っているんだ、俺は。……晴花がいるわけじゃ、ないのに。
ライタにとりあえず礼をして、それから晴花のクラスに行ってみよう。何となく、謝らなきゃいけない気がする。今を逃したら、もうこんな機会は無い気がする。
そんなことを考えて、ライタに
「こんなもゃしを助けてくれてありがとう、俺は一生、君を忘れるよ」
「色々と突っ込みたいんだが……ひとつ言わせてもらうなら、もゃ……何て言った?」
様々な謎を彼に投げかけ、俺はクラスを出ようとした。ライタは、まだ気になっているようだったが。
”出よう”として、俺はライタとは違うものに引き止められた。
なんというか、殺気? いや、執着? ……何か黒いものに背中をがっしり掴まれている感覚。
黒いものだと思ったのは、掴まれているところから、殺気や執念、嫉妬などが入り混じった感情が流れ込んできたからだ。
「ちょっと待ってくれ」
最初と違って声が高くなっていたのに、それが鴻上だと分かったのは、何故だ。
「この休み時間だけでいい。幹君、僕と話をしないか?」
ゆっくり振り返ると、すでに彼の周りに群衆はいない。
時間で言えば、たった1,2分の出来事だった。そうも簡単に群衆は消えるものなのか?
「あ、ああ。分かった。分かったが、できるだけ、話は簡潔に、早く済ませてもらいたい。今しなきゃいけないことを、次の授業に遅れぬように、済ませたいからな」
異様な雰囲気に負け、彼の話を聞こうと自分の席に座った。
「佐久さん、のこと?」
酢酸? 一瞬、本当に聞き間違えた。彼は人を名字で呼ぶようだ。
それにしても、なぜ晴花を。
「ああ、少し気になることがあって」
如何せん、彼の読みは正しかったので、正直に言う。
「そっか……。佐久さんは、まだ……」
俯く鴻上。やはり最初の低いのから声色が変わっている。印象も、まるで違う。
「知り合い、なのか?」
その質問に、鴻上は少し驚いたように見えた。
「……そのうち分かるよ。僕は佐久さんを、素敵な人だな、と思ってただけで」
素敵な人? 少々疑問が残る。その続きを、鴻上は言ってはくれなかった。代わりに、
「うん、話せて良かったよ。用事があったのにすまなかったね」
こんな締め言葉が発せられた。まだ何も話せてなくないか? とはいえ、俺の用事の方を考えて、話をまとめてくれたらしいので、
「いや、こちらこそ、ありがとう」
礼だけを言って、俺はクラスを走り出た。
「彼女のために、何ができるのか。考えたことはあるのかな、幹君」
その声は、俺には聞こえなかった。
思いつきで晴花のクラス・一組に向かったものの、正直何を言って謝ればいいのか、そもそもどうして謝るのか、むしろクラスに入るという行為が、腑に落ちない。
他人の”なわばり”に勝手に踏み込む、という感じがして、いつもの晴花のように、いつの間にかクラスの空気に溶け込むというような高等な技術など、俺には到底できないのであった。
そうこうしていると、あっという間に一年一組に着いた。というかすぐ隣だから「あっという間」なのは当たり前なのだが。
これって、前の扉から入るべきなのか!? 存在を薄くして潜入するために、後ろの扉から……
「おお、時雨。珍しく自分から彼女の方に行こうとしてるのか?」
背後からした声は、親しみのある、野太い声だった。
「相良先生・・・ですか」
二組のクラス担任、相良 史彦。言いやすい名前、といっては失礼か。
「もう入学して2か月経つのに、担任の名前をうろ覚え、か。なんか寂しいな。
……さっき一組で授業してきたが、佐久は保健室だったぞ。気分が優れないとかで」
「えっ、そうなんですか」
言葉を失った。風邪をひいたことも、見たことなかったのに。
しかもこのタイミングで、保健室だと……!? 完全に俺の責任じゃないか。事態は思ったより深刻かつ重大なようだ……
「次の授業、ホームルームですよね」
「ああ、そろそろ文化祭の話もしないとな」
急に話を変えても動じない。この先生は、何かに気づいているのか。これから俺が言う、何かに。
しかし、俺は下を向いたままで、先生の表情を窺うことはできない。
どっちにしても、だ。俺の申告することは、変わらない。
「俺、次の授業、遅れるどころか、”さぼる”かもしれません」
「・・・この場合、”さぼる”じゃなくて”やすむ”だろう?」
「はい。では次の授業、”やすみ”ます」
「断言したか。たった2か月だけど、お前は”人”だってよく分かったよ」
はっはっは、と高笑いしながら先生と俺は対極へ向かう。
俺が、”人”ってどういうことなのか。はっきりはしなかったが、俺はあの先生の持つクラスで良かったと、改めて思った。
「廊下はなるべく走るなよー!」
職業柄、言わなければならないことを、明らかに棒読みで叫んだ相良先生のクラスで。
一年一組から一年四組までが、この校舎の2階に、1階には五、六組がある。保健室は、その六組の隣にある。階段を下りてすぐだ。
何で、こんなに息切れが激しいのだろう。
何で、こんなに必死に駆け下りているのだろう。
何で、こんなに心が苦しいのだろう。
1階に着くと、もう目の前に保健室のプレートが見える。
入って、会って、話すんだ。あの時、何て言ったのか、よく聞こえなかったんだ。俺には、俺自身の心が、よく分からないんだ。
こんな真面目なこと、言えるのかな。
あくまで俺は、”笑い”を。
あくまで俺は、”晴れ”を。
求め続けなくちゃいけないんだ。昔、決めたじゃないか。
「俺は、お前の晴れが見たいんだ」
「……え? し、時雨!?」
「ん、あ……!!」
つい保健室の戸を開けてその言葉を口に出してしまった。”つい”でここまでできるか、俺!?
目の前には、黒髪を背中まで下ろし、ヘアゴムをくわえて(さっきの拍子に落とした)寝床に座る同級生らしき少女の姿。う~ん、どうしてだろう。晴花の声がしたのは。
「何で、時雨がここに……。てか、授業始まっ」
「は、晴花なのか!?」
俺は自分でもわかるくらい、目を見開いた。おいおい、こんなに髪伸ばしてたのか!? いやそれよりもまず、本当に晴花なのか!? この子が?
「うん、親の呼び名をずっと聞き間違えていなければ」
「そうか……聞き間違えていたんだな」
「なぜにそうなるかっ」
この突っ込みは、間違いなく晴花だな。こんなんで分かる俺って……。
「しかし、なんでお前の髪の毛が大量に生えている?」
「いや、前から生えてたからね。変な育毛剤とか使ってないからね」
そういえば、いつもは後ろである程度まとめて、肩までで収まってたような。あまり髪型を気にしてないからなぁ。
「それより、さっきの言葉は何?」
さっきの言葉? ……ああ。
「……えと、俺何て言ったっけ」
「自分で覚えてないの!?」
「雰囲気は覚えてるさ。一字一句間違えず言えるかが、問題なんだ」
「そっちの問題!?」
実際は、嫌にはっきり覚えている。だが、改めて同じことを言うとなるとなあ……
そうして考えるフリをしていると、晴花がため息をついて肩をすくめた。
「時雨の嘘って、分かりやすすぎて何か突っ込むのも面倒だわ」
「な、何だと……!!」
と、それっぽい驚きをしてみる。まあ、これも晴花から見れば、ぎこちないんだろうけど。
「お願いだから、もう一度、私に言って」
そんな真剣な眼差しで俺を見るなぁ! 俺がすごく大人げなく見えるじゃないかぁ。
なぜかその眼差しに、一瞬でも「言っちまおうぜ」という気分になってしまったので、
「承知致した。拙者が一寸前に申したことを貴殿に改めて伝達申し上げさせていただく」
いつの時代か分からない話し方になったのだった。
「あ、うん。どうぞ」
どうやら、これにはついていけなかったようだ。
「……俺はお前に、悲しい顔をされたくない」
「違う。……もっと、しっくりくる事言ってた」
う……。そっくりそのままリピートしろと、そう言うのか。言ってから相当後悔してるんですけど。
「お前の晴れが、見たいと」
「晴れって、何?」
ま、まだ追及してくるか。もうこんなに頑張ることは、二度としないぞ。
「……笑顔、かな」
「――――――――!!」
俺が言った瞬間に、寝床のカーテンを閉められた。
え、何この状況? 俺、すべった? それとも失笑? どっちも同じか。
「……しい」
「え?」
今のこの状況で椎茸? 違うよな。
「嬉しい……の」
「ほ?」
謝りに来たのに、感謝されてしまった。やっぱり俺は晴花が分かりません。
「俺、謝りに来たんだけどさ、怒ってるわけじゃないのか?」
「え、何を謝るのよ?」
「なん……だと」
じゃあ何で、あのタイミングで保健室に? 疑問がまた浮かぶ。
「もしかして時雨、自分のせいだと思ってここに来たの? ……間違ってはいないかもしれないけど、謝られるようなことじゃないから。あの時言ったことが、あまりにも恥ずかしくて、それで教室じゃなくて、こっちに」
「……そうか」
ん? 疑問が解決したとたんにまた疑問が浮かぶ。
「俺のせいではあるのか? あと、チャイムのせいで、まともに聞こえなかったんだが」
「はぁ……、やっぱり聞こえてなかったか」
晴花はまたため息をつく。でもさっきとは違う感じがした。
「俺も言ったんだから、晴花もその内容を言うべきじゃないのか?」
「い、嫌よ。ほんとに言いたくない」
「なぜに?」
「その理由も、言えない」
「なぜに?」
「その理由の理由も言えない。ついでにそのまた理由も、言えません」
くっ、先を越されたか。
こっちの心は見え見えなのに、向こうのは分からないからなあ。不公平すぎるなあ。
「何か、納得いかない」
「そう? 私はすごく爽快だけど!」
カーテンを開けて、背伸びをし、立ち上がる。
「せめて、ヒントだけでも……」
情けなく食い下がるも、
「知りたければ、私の心を読んでみなさい」
無理なようなので、諦めることにした。
さっきまで何であんなに必死だったのか、さっぱり自分でも分からないまま。
ふと見ると、開いたままのノートが晴花が座っていたベッドの枕元に置いてあった。
「それ、お前も、日記書いたのか?」
すると慌てて晴花がノートをわしゃわしゃと雑に閉じながら、
「う、うん! そんなとこ!」
かなり焦っているようだったので、(晴花のように)それ以上追及はしなかったが、ぐしゃぐしゃにしたせいでちぎれたノートの一片がこちらに飛んできたので。
「きなのです?」
拾って読み上げるのは、当然ですよね。でも、その後すぐに、
「ひ、ひゃあぁぁ! 見ないでぇ!」
顔面に渾身の一撃を食らうのでした。
ひらがな五文字しか読めなかったんで、ノートの中身を知らないも同然なのに。いつもは人のを読むのに。
……あ、これを”走馬灯”っていうのかな。
小さなころの思い出が流れてきている。
一つ、大事なことをここで思い出した。
ゆっくりと倒れゆく俺。
頭が床に思いきり当たる俺。
ちょうど戻ってきた保健の先生。
先生、患者が1人、増えました。