【短編小説】桜と聖女
短編小説【桜と聖女】
生まれた時から聖女だった。何も知らぬその心は、白無垢よりはるかに白くて、無垢だったのだ。白いワンピースに白い帽子、生まれた時から色素の無い白い髪。不健康には見えない、純粋に白い肌。白くない物など、その瞳しかない。
人々は彼女の人当たりの良さと、その美しさに惹かれ、彼女の周りには常に人がいた。いつも明るい雰囲気が、彼女を取り巻くように漂っていたのだ。
「ごきげんよう」
そう言って、微笑みながらスカートの端をヒラリとあげる彼女の仕草一つに、皆が心打たれる。
「また明日」
口を開けば零れ落ちる優雅な言の葉が、彼女に明日も会える事を、皆に確信させた。その口から溢れ出る、キラリと輝く優雅な宝石を何と形容しようか。
「美しい」「可愛らしい」「素敵」
そんな、使い古された先人の遺産等では決して形容する事は出来ないのだ。まさしく聖女といった彼女の姿は、老若男女誰をも虜にし、そしてその魅力で、何者をも魅了していた。
しかしそんなある日、唐突に彼女は皆の前から姿を消した。「また明日」の言葉は確かに聞かなかったし、「ごきげんよう」という響きが街に響かないのは、それこそ当然の事なのかもしれない。
街に住む人々は、そのあまりにも突然過ぎる衝撃に愕然とし、恐ろしいまでの虚無感に襲われた。彼女は嵐のように、生活の全てを、その精神をかっさらって消えてしまったのである。
どうしようもない空白を、心の中に作り出した彼らは、さながら貰い手のない古びた人形のよう。何にも変えようのない重大な何かは、いくら願っても帰ってくる事はない。人形たちはただ、貰い手が見つかるまで時間を浪費し続けるのだ。
ある時、一人の老人は呟いた。「恋」という呪文を。その甘美な響きは、心を失った人形たちでさえ虜にする程魅力的なものだった。無くなったはずの心の奥底が、震える。幻惑されるような感覚に、悶える。しかし
「彼女を拐ったのは、まさしく『恋』だ」
甘美な言葉に酔いしれていた彼らにぶつけられた、一続きの言葉には、酔いしれるべきはずだった言葉の、変わり果てた姿。幻滅という激しい洗礼を受けた人形たちは、ようやくにして主人を手に入れたのである。
大地から生える家々から、人が産まれる。集まったそれらは散会し、何かを探し始める。主人である「怒り」は彼らの様相を凶悪な物に塗り替え、「恋」を探す彼らに、本来持つべきではないあまりにも強力な力を与えていた。
「隠れても無駄だ」
「聖女を帰せ」
「殺してやる」
口々に叫びながら、自らの故郷を破壊し尽くす彼らからは、もはや狂気しか感じられない。血も何も飛び散っていないのにも関わらず、凄惨な光景が広がっているような、そんな妙な錯覚。
「いた」
ボソリと呟いた男の元に人形たちが寄ってくる。男は鍬や鋤、鎌や鉈といった農具を、女子供でさえ鋏や鈿といった鋭利な物を手に、眼には期待と狂気を爛々と輝かせていた。彼らの目の前に倒れ込む、齢二十を超えたであろうかという程度の男。
その後の光景は言うまでもない。人形たちが糸を切ったように、その活き活きとした姿から一変し、破壊された家へと肩を下げて帰った跡には、季節外れの赤い桜が咲いていた。
それから間もなくである。聖女がその街へと帰ってきたのは。変わり果てた姿の聖女からは、命を感じさせない強い死気が発せられ、それまでとは逆に、村人達を寄せ付けない様子を見せていた。
痩せて窶れた顔と、潤いを失って鳥の巣のような髪。かつての純真無垢な姿は、もはや何処にも見当たらない。白とは程遠い黒に染められたその「もの」は、既に聖女ではなかったのだ。
桜舞い散る丘で、聖女の遺体が見つかったのは、それから数日後の話である。桜の樹から吊り下げられた彼女は、何もない「白」だったという。人形たちが待ち望んだ、聖女の帰還であった。
人形は言う。
「桜よ、私の心を染めておくれ。貴方のような美しい色に」
彼女は聖女という名の人形から、少女という名の人間に昇華した。