婚約破棄された公爵令嬢ですが、王太子殿下のいない国のほうが栄えるようです
アリシア・フォン・ローゼンベルク! 貴様との婚約を破棄する!」
王宮の大広間に、王太子エドワードの怒声が響き渡った。
数百人の貴族が見守るなか、彼は一人の少女を腕に抱いていた。
金色の髪に、澄んだ青い瞳。愛らしい顔立ちをした少女は、男の腕に身を寄せながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
男の名はエドワード・フォン・アルベルト。
アルベルト王国の第一王子であり、次期国王と目される人物だった。
そして、婚約破棄を宣告された少女は、アリシア・フォン・ローゼンベルク。
王国随一の大貴族、ローゼンベルク公爵家の長女である。
「……理由をお聞かせいただけますか、殿下」
アリシアは静かに尋ねた。
その声に震えはない。
涙もなければ、怒りに顔を歪めることもなかった。
ただ、目の前の男を冷静に見つめている。
それが気に入らなかったのか、エドワードはさらに声を荒らげた。
「理由だと? とぼけるな! 貴様が私の愛するマリアをいじめていたことは、すでに調べがついている!」
「いじめ、ですか?」
「そうだ! マリアに嫌がらせをし、彼女の評判を落とそうと画策した! さらには、私に近づくなと脅迫したそうではないか!」
エドワードの腕のなかで、マリアが震えるふりをした。
「殿下……もういいのです。わたくし、アリシア様を恨んだりしておりませんから……」
「なんと心優しい女性なのだ! それに比べて、アリシア! 貴様は恥を知れ!」
大広間にざわめきが広がる。
アリシアはマリアを見た。
マリア・ベルンシュタイン。
男爵家の養女として社交界に現れ、半年足らずで王太子の寵愛を勝ち取った少女だ。
その裏で何が行われていたのか。
アリシアはすべて知っていた。
マリアが自分の名前を使って使用人に金を渡し、偽の証言を集めていたことも。
自分に届くはずの手紙を盗ませ、王太子に誤解させていたことも。
そして、王太子の愛を得るために、彼の周囲にいる人間を次々と遠ざけていたことも。
しかし、アリシアは反論しなかった。
「殿下。わたくしとの婚約を破棄なさるということで、間違いございませんね?」
「当然だ! 貴様のような女に王妃が務まるものか!」
「承知いたしました」
あまりにもあっさりとした返答に、エドワードは一瞬、言葉を失った。
「な、なんだと?」
「婚約破棄をお受けいたします、と申し上げたのです」
アリシアは優雅に一礼した。
「それでは、失礼いたします」
「待て!」
エドワードが声を張り上げる。
「まだ話は終わっていない! 貴様には相応の罰を与えるつもりだ! ローゼンベルク公爵家の財産も、貴様が王太子妃になるために使った費用も、すべて返還させる!」
その瞬間。
大広間の隅で、ローゼンベルク公爵がゆっくりと立ち上がった。
「殿下。それは、どういう意味でございましょうか」
低く、重い声だった。
エドワードは顔をしかめた。
「これは王家と公爵家の問題だ。口を挟まないでいただきたい」
「ほう。娘との婚約を一方的に破棄したうえ、我が家の財産まで取り上げると?」
「当然だ! 王太子妃にふさわしくない娘を育てた責任がある!」
公爵はしばらくエドワードを見つめたあと、深々と息を吐いた。
「……なるほど。承知いたしました」
そして、懐から一通の書類を取り出した。
「では、こちらも予定どおり進めることにいたしましょう」
「なんだ、それは?」
「王家との契約に関する書類でございます」
公爵が書類を執事に渡す。
執事はそれを受け取り、国王の前へと進み出た。
そこに記されていたのは、王家とローゼンベルク公爵家との間で結ばれた、数十年にわたる経済協定の内容だった。
エドワードはまだ気づいていなかった。
自分が今、何を失おうとしているのかを。
※
そもそも、アリシアとエドワードの婚約は、二人が幼いころに決められたものだった。
ローゼンベルク公爵家は、王国最大の穀倉地帯を有する大貴族である。
広大な農地に加え、王国各地の街道、運河、倉庫、金融機関にまで影響力を持っていた。
一方、王家は長年の戦争と放漫財政によって、国庫が危機的な状況に陥っていた。
王家が国を維持するためには、公爵家の資金と経営能力が必要だった。
そのため、王家は公爵家に婚姻を申し入れた。
公爵家はそれを受け入れた。
ただし、条件があった。
王家が公爵家の資金援助を受ける代わりに、一定の権利と義務を契約で定めること。
婚約者が王族側の都合で一方的に婚約を破棄した場合、協定に基づく支援の継続義務を見直すこと。
そして、王家が契約に違反した場合、公爵家は事前通知を経て支援を停止できること。
これは王国の財政が破綻しかけていた時代に、当時の国王が自ら署名した正式な協定だった。
アリシアは、その契約を幼いころから知っていた。
なぜなら、彼女は単なる公爵令嬢ではなかったからだ。
幼いころから父に連れられ、領地の運営を学んできた。
税収の計算、農作物の収穫予測、商人との契約、公共事業の採算管理。
十歳になるころには、父の執務室で帳簿を読み、十五歳になるころには、領地の一部を任されるほどになっていた。
もちろん、王太子妃になるための教育も受けていた。
礼儀作法、外国語、歴史、外交、法律。
王妃に必要とされる知識を、彼女は一つずつ身につけていった。
エドワードを支えるために。
王国をより豊かにするために。
だが、肝心のエドワードは、その努力を理解していなかった。
彼にとってアリシアは、いつも小言を言うつまらない女だった。
「殿下、その支出には根拠がございません」
「殿下、その条約では隣国に不利な条件を押しつけられます」
「殿下、国庫の残高を確認してから予算を決定なさってください」
何かをするたびに注意される。
何かを決めるたびに反対される。
エドワードにとって、アリシアは自分の自由を奪う存在でしかなかった。
そんな彼の前に現れたのが、マリアだった。
彼女はいつもエドワードを褒めた。
「殿下は素晴らしいお考えをお持ちです!」
「殿下なら、きっと何でも成し遂げられます!」
「アリシア様は殿下のお気持ちを理解していらっしゃらないのですね……」
耳に心地よい言葉。
自分を否定しない態度。
エドワードは瞬く間に彼女へとのめり込んでいった。
そして、アリシアの忠告をすべて、嫉妬による嫌がらせだと信じるようになったのである。
もっとも、アリシアはそのころには、すでに見切りをつけていた。
エドワードは、王になるべき人物ではない。
彼女はそう判断していた。
それでも、婚約者である以上、最後まで支えようとは思っていた。
だが、今回の婚約破棄によって、その義務はなくなった。
それだけのことだった。
※
「陛下。こちらをご確認ください」
公爵の言葉に、国王は書類を受け取った。
そして、内容を読み進めるうちに、その顔から血の気が引いていった。
「……これは」
「王家と我が家との経済協定でございます。婚約破棄に伴い、協定の再検討を申し入れます」
「待て、公爵。再検討とは……」
「契約に従い、まずは新規融資を停止いたします。既存の事業についても、契約更新時に条件を見直します。なお、我が家が運営する倉庫や輸送網につきましては、王家との契約に基づいておりますので、協定終了後の利用条件を改めて協議させていただきます」
国王の額に汗が浮かんだ。
それは単なる資金援助の停止ではなかった。
王国の食料流通の相当部分が、公爵家の輸送網に依存している。
地方の穀物を王都へ運ぶための倉庫も、いくつもの街道の整備も、公爵家の出資によって維持されていた。
王家の借入金の一部も、公爵家が保証人となっている。
公爵家が協定の見直しを始めれば、王国の財政は大きく揺らぐ。
「公爵! それは困る! 国民の生活にも影響が出るのだぞ!」
国王の叫びに、公爵は眉一つ動かさなかった。
「ですから、既存の契約は一方的に破棄いたしません。契約に定められた手続きに従って見直すだけでございます。王家が新たな条件に合意なさるのであれば、今後も取引を継続することは可能です」
「ならば、婚約破棄を取り消せばよいではないか!」
思わず口にした国王に、公爵は冷たい視線を向けた。
「陛下。婚約は、商取引のように都合よく取り消せるものではございません」
「……っ」
「それに、殿下は先ほど、大勢の貴族の前で娘を侮辱なさいました。あのような人物を娘の夫として迎えるつもりは、もはやございません」
国王は言葉を失った。
その隣で、エドワードが怒鳴った。
「ふざけるな! たかが金のことで王家に逆らうつもりか!」
公爵はゆっくりとエドワードを振り返った。
「殿下。たかが金、とおっしゃいましたな」
「そうだ!」
「では、王家におかれましては、我が家の資金援助がなくとも何ら問題はないということでよろしいでしょうか?」
「当たり前だ! 王国は王家のものだ! 貴様らがいなくとも、国は成り立つ!」
その言葉を聞いた瞬間、公爵は小さくうなずいた。
「かしこまりました。では、そのお言葉を議事録に記載していただきましょう」
大広間の貴族たちは、誰もが息をのんでいた。
エドワードは、ようやく自分が何を言ったのかを理解したらしい。
「……いや、今のは言葉の綾だ!」
「殿下。先ほどのお言葉は、ここにいる全員が聞いております」
公爵は淡々と続けた。
「それでは、我が家は王家に対する特別な支援を終了する方向で手続きを進めます。もちろん、国民生活に重大な支障が生じないよう、必要な猶予期間は設けます。しかし、今後は他の取引先と同じ条件でお付き合いいたしましょう」
国王は椅子に崩れ落ちた。
王家の財政を立て直すために、公爵家がどれほどの支援をしてきたか。
彼は誰よりも理解していた。
それを、息子は一瞬で台無しにしてしまったのである。
※
「待ちなさい、アリシア!」
大広間を出ようとしたアリシアを、マリアが呼び止めた。
アリシアが振り返ると、マリアはエドワードの腕から離れ、勝ち誇った顔で近づいてきた。
「あなた、これで終わりだと思っているの?」
「……何のお話でしょうか」
「公爵家の力があったから、あなたは王太子妃になれると思っていたのでしょう? でも、もう婚約は破棄されたのよ。あなたはただの行き遅れの令嬢。いずれ、誰からも相手にされなくなるわ」
アリシアは静かに彼女を見つめた。
「マリア様。ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何よ?」
「あなたは、王太子妃になったあと、何をなさるおつもりだったのですか?」
「決まっているでしょう? 殿下を支えて、幸せな王国をつくるのよ!」
「具体的には?」
「え?」
「財政再建の方法は? 食料価格が高騰した場合の対策は? 隣国との貿易交渉について、どのような方針をお持ちですか?」
マリアは口を開いたまま固まった。
「そ、それは……殿下が考えてくださるわ!」
「なるほど」
アリシアは微笑んだ。
「それでは、殿下が判断を誤った場合、どのように支えるおつもりですか?」
「そんなこと、殿下が間違えるはずないでしょう!」
その返答に、アリシアはほんの少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
それ以上、言うことはなかった。
彼女は再び歩き始めた。
背後からマリアの甲高い声が響く。
「逃げるの!? 悔しくないの!?」
アリシアは振り返らなかった。
悔しいか、と聞かれれば、少しは悔しい。
自分が長年努力してきたことが、何も理解されなかったのだから。
だが、それ以上に思うことがあった。
――これで、ようやく自由になれる。
王太子妃になるために、自分の時間を捧げる必要はない。
無能な男を支えるために、夜遅くまで書類を確認する必要もない。
自分の能力を、理解する気もない人間のために使う必要もない。
アリシアは初めて、自分自身の人生を考えることができた。
※
婚約破棄から三か月後。
王都では、異変が次々と起きていた。
まず、王家が計画していた新しい宮殿の建設が中止された。
次に、王太子の主導で進められていた大規模な祝祭が縮小された。
さらに、王家が借り入れを申し込んでいた複数の金融機関が、融資条件の見直しを要求した。
ローゼンベルク公爵家が特別な保証を取り下げたためである。
国王は慌てて他の大貴族に支援を求めたが、反応は芳しくなかった。
誰もが、王家の先行きを疑い始めていたのだ。
そもそも、ローゼンベルク公爵家は王国最大の大貴族である。
その公爵家を公然と侮辱し、婚約破棄を宣言した王太子。
しかも、その理由は真偽の定かでない女性の訴えだった。
貴族たちは、次は自分たちが切り捨てられるのではないかと考え始めていた。
王家への信頼は、急速に失われていった。
一方、アリシアは父の領地へ戻っていた。
そして、彼女はそこで新しい事業を始めた。
農地の改良。
運河の整備。
農民への低利融資。
商人たちが安心して取引できる新しい市場の建設。
さらに、身分にかかわらず、能力のある者が学べる実務学校を設立した。
これまで、彼女は王太子妃になるための仕事に追われ、自分の考えを実現する時間を持てなかった。
しかし今は違う。
自分の判断で、自分の責任で、物事を進められる。
アリシアの改革は、驚くほどの成果を上げた。
収穫量は増え、輸送費は下がり、領民の収入は安定した。
新しい市場には各地から商人が集まり、領地の税収も増加した。
さらに、学校で学んだ平民の若者たちが商会や役所で活躍するようになった。
領地は目に見えて豊かになっていった。
「お嬢様。王都から使者が参りました」
ある日の午後、執事が報告した。
アリシアは書類から顔を上げた。
「王都から?」
「はい。国王陛下の名代として、財務大臣が面会を求めております」
「用件は?」
「公爵家に対する特別支援の再開について、協議したいとのことでございます」
アリシアはしばらく考えたあと、微笑んだ。
「お父様にお伝えください。契約に基づく協議であれば、いつでもお受けいたします、と」
「かしこまりました」
執事が退出する。
アリシアは再び書類に目を落とした。
王家は、ようやく現実を理解したらしい。
だが、もう以前と同じ関係に戻ることはない。
彼女はそれを、少しも残念には思わなかった。
※
半年後。
王宮では、国王主催の臨時会議が開かれていた。
議題は、王国の財政危機への対策。
財務大臣が厳しい表情で報告する。
「現状のままでは、来年度の予算を維持することが困難です。ローゼンベルク公爵家との取引条件を再交渉する必要がございます」
「条件なら、こちらから提示すればよいではないか!」
エドワードが声を上げた。
「彼らは王国の貴族だ。国王の命令に従う義務がある!」
財務大臣は疲れたように目を閉じた。
「殿下。ローゼンベルク公爵家は、契約に従って行動しております。王家が一方的に命令できるものではございません」
「ならば、命令できるように法を変えればよい!」
「そのような法案は、貴族院で否決されるでしょう」
「なぜだ!」
「他の貴族たちも、王家の一方的な介入を恐れているからです」
エドワードは顔を真っ赤にした。
「ならば、ローゼンベルク公爵を反逆罪で処罰すればよい!」
会議室が静まり返った。
国王がゆっくりと口を開いた。
「……エドワード。お前は、自分が何を言っているのか理解しているのか」
「もちろんです、父上!」
「ローゼンベルク公爵家を敵に回せば、王国の財政は完全に破綻する」
「だから、先に取り上げてしまえばよいのです!」
国王は息子を見つめた。
そこにあったのは、怒りだけではなかった。
深い失望だった。
「お前は、まだ分からぬのか」
「何がです!」
「王とは、命令すれば国が動くと思っているのか?」
エドワードは答えられなかった。
「国を支えているのは王家だけではない。貴族も、商人も、農民も、職人もいる。彼らの信頼を失えば、王冠など何の役にも立たぬ」
「ですが、私は王太子です!」
「そうだ。だからこそ、学ばねばならなかった」
国王の声は静かだった。
「お前は、その機会を自ら捨てたのだ」
エドワードは唇をかみしめた。
そして、彼は最後の望みを口にした。
「……マリアはどうなのです。彼女は私を理解してくれます。彼女と結婚すれば、きっとすべてうまくいきます!」
その場にいた者たちは、誰も答えなかった。
誰もが知っていたからだ。
マリアには、財政を立て直す知識も、外交を担う能力も、貴族たちをまとめる人望もない。
彼女にできるのは、エドワードを褒めることだけだった。
そして、褒め言葉だけでは国は動かない。
※
そのころ、王都の別邸では、マリアが鏡の前で怒りに震えていた。
「どうして、こんなことになるのよ!」
彼女の目の前には、山のような請求書が積まれていた。
王太子に気に入られて以来、マリアは贅沢な暮らしを続けていた。
高価なドレス、宝石、専属の侍女、頻繁に開かれる茶会。
それらの費用の多くは、王家の負担だった。
しかし、財政危機によって支出が削減されると、彼女の生活も一変した。
新しいドレスは届かない。
宝石商は支払いを求めてくる。
侍女たちも、給金の遅れに不満を漏らし始めた。
「殿下にお願いすればいいじゃない!」
マリアは侍女に怒鳴った。
「王太子殿下にお伝えください! わたくしの生活費を元に戻すように、と!」
しかし、戻ってきた返事は冷たいものだった。
王家には、もはや自由に使える金がほとんど残っていない。
そのうえ、マリアが王太子妃になることに反対する声が、貴族の間で広がっていた。
彼女には王太子妃としての教育が足りず、後ろ盾となる有力貴族もいない。
何より、彼女がアリシアを陥れるために偽の証言を集めていたという噂が広がっていた。
実際、彼女に金を渡されて証言をした元使用人の一人が、良心の呵責に耐えかねて真実を告白したのだ。
その証言は、複数の手紙や金銭の記録によって裏づけられていた。
マリアは必死に否定した。
だが、彼女を信じる者は少なかった。
「……アリシアのせいよ」
彼女は鏡をにらんだ。
「全部、あの女のせいだわ!」
しかし、現実は残酷だった。
アリシアは王都から遠く離れた領地で、人々から感謝されながら暮らしている。
その一方で、マリアは王太子の寵愛以外に何も持っていなかった。
そして、その寵愛すら、今では以前ほど確かなものではなくなっていた。
※
婚約破棄から一年。
アリシアの領地は、王国でも有数の繁栄を誇るようになっていた。
農業生産は増加し、交易も活発になった。
領内の学校からは優秀な人材が育ち、周辺の領主たちも彼女の改革を参考にするようになった。
アリシア自身も、各地の商人や領主から一目置かれる存在となっていた。
そんなある日。
彼女の執務室に、一通の書簡が届いた。
差出人は、国王だった。
内容は、王太子エドワードの廃嫡と、王家からの正式な謝罪についてだった。
エドワードは、度重なる失政と貴族たちの信頼喪失を理由に、王位継承権を剥奪されることになったという。
また、マリアについても、王太子妃候補としての扱いを取り消され、王宮から退去することが決まったらしい。
アリシアは書簡を読み終えると、静かに机へ置いた。
「……そうですか」
それだけだった。
喜びも、怒りも、特に湧かなかった。
かつての婚約者が王太子でなくなったところで、彼女の人生には何の影響もない。
彼女はすでに、自分の居場所を見つけていた。
その日の夕方、父が執務室を訪れた。
「アリシア。国王陛下から、お前に縁談の打診があったぞ」
「縁談ですか?」
「ああ。隣国の公爵家からだ。先方は、お前の領地経営と商業政策を高く評価しているらしい」
アリシアは少し驚いた。
「わたくしの仕事を?」
「そうだ。どうやら、相手はお前を王太子妃ではなく、一人の人間として見ているようだな」
父は楽しそうに笑った。
「もちろん、断っても構わん。お前が望まぬ結婚をする必要はない」
アリシアは窓の外を見た。
夕日に照らされた街では、商人たちが店を閉め、子供たちが家路を急いでいた。
新しく整備された道を、荷馬車が静かに通り過ぎていく。
かつて王太子妃になるために努力していたころ、彼女はいつも未来を義務として考えていた。
王家を支えなければならない。
国を守らなければならない。
王太子を立派な国王にしなければならない。
けれど、今は違う。
自分が何をしたいのか。
どんな人生を歩みたいのか。
それを、自分で決めていいのだ。
「お父様」
「なんだ?」
「一度、お会いしてみようと思います」
父はうれしそうに目を細めた。
「そうか。では、先方に返事をしておこう」
「ただし、条件がございます」
「条件?」
アリシアは微笑んだ。
「わたくしの仕事を続けることを認めていただくこと。それから、結婚したからといって、領地の運営に口出しをなさらないこと」
「ははは! 相変わらずだな、お前は」
父は豪快に笑った。
「だが、それでいい。お前はお前らしく生きればいいのだ」
アリシアはうなずいた。
そして、再び机に向かった。
まだ終わっていない仕事がある。
新しい学校の建設計画。
次の収穫期に向けた農地の整備。
隣領との交易協定。
やるべきことは山ほどあった。
かつての婚約者が何をしていようと、もう関係ない。
彼女の未来は、彼女自身の手のなかにあるのだから。
※
さらに数年後。
アルベルト王国は、かつての繁栄を取り戻すことができずにいた。
国王は財政再建に奔走したが、失われた信頼を取り戻すには長い年月が必要だった。
廃嫡されたエドワードは、王都から離れた領地で暮らしていた。
彼は何度も自分の失敗を悔やんだ。
アリシアが隣にいてくれれば。
彼女の忠告を聞いていれば。
あの夜、婚約破棄などしなければ。
そう思うこともあった。
しかし、時間は戻らない。
彼が失ったのは、婚約者だけではなかった。
自分を支えてくれるはずだった人材。
貴族たちの信頼。
国を動かすための資金。
そして、自らの未来。
すべてを、自分の愚かな判断で手放したのだ。
一方、アリシアは隣国の公爵と結婚し、領地経営を続けていた。
夫は彼女の能力を尊重し、彼女が仕事に打ち込むことを喜んだ。
二人は互いの考えを率直に話し合い、困難な問題にも協力して取り組んだ。
やがて、アリシアの領地経営の手法は周辺諸国にも広がり、彼女は優れた政治家として名を知られるようになった。
ある春の日。
アリシアは領地の学校を訪れていた。
子供たちが元気よく挨拶をし、教師たちが笑顔で迎えてくれる。
校庭の片隅には、彼女が幼いころから好きだった花が咲いていた。
「奥様。そろそろ次の視察へ向かいませんと」
執事に促され、アリシアはうなずいた。
「そうですね。では、参りましょう」
彼女は最後にもう一度、学校を振り返った。
ここには、未来がある。
身分に関係なく、学ぶ機会がある。
努力した者が報われる道がある。
自分が望んでいたものが、ここにはあった。
かつて彼女は、王妃になることこそが自分の使命だと思っていた。
だが、婚約破棄によって、その道は閉ざされた。
そして、彼女は知ったのだ。
閉ざされた扉の向こうに、もっと広い世界があることを。
「……人生というものは、分からないものですね」
アリシアは小さく笑った。
婚約破棄された日のことを、今でも覚えている。
大勢の貴族たちの前で侮辱され、一方的に捨てられた日のことを。
もし、あの日に戻れるのなら。
彼女はきっと、同じように答えるだろう。
――承知いたしました。
そして、迷うことなく、その場を去る。
なぜなら。
彼女を捨てた男が失ったものは、彼女という婚約者だった。
だが、彼女が手に入れたものは、自分自身の人生だったのだから。
そして、その人生は。
王太子妃という肩書きよりも、ずっと豊かで、ずっと自由なものだった。




