米強盗 :約3000文字
始まりは、ほんの些細な違和感だった。胸の奥に、針の先ほどの小さな引っかかりが生まれた。次いで、冷たく小さな嫌な予感がじわりと広がっていった。
踵を返すほどでもなければ、足を止めるほどでもない。だが確かに、背骨をなぞられるような、そんな微細なざわつきが。
「……おい」
しかし、その予感は見事に的中してしまった。
夜、スーパーからの帰り道。街灯はまばらで、ひっそりとした住宅街。前方から歩いてきた男が、なぜかおれの進行方向へと身を寄せてきたのだ。
おれはすっと右側へ寄った。すると、男も同じように右へ寄った。左へ寄ると、男もまた左へ。
妙だなと思いつつ、おれはそのまま歩き続けた。やがて距離が縮まり、すれ違うかというところで男はぴたりと足を止めた。そして、ポケットから何かを取り出した。
「よこせ……」
ナイフだ――。少し離れた外灯の光を受けて、刃が冷たく光った。
おれは反射的にスーパーのビニール袋を胸へ引き寄せ、両腕で抱え込んだ。
「か、金はない……」
おれは唾を飲み込み、どうにか声を絞り出した。
「そいつだよ……さっさとよこせ」
男はナイフの先で、くいっと指し示した。
だが、おれは鞄など持っていない。となると、財布のことか。おれはゆっくりとポケットへ手を伸ばした。
「その袋をよこしな」
「……これ?」
「そうだ。買ったんだろ? 米をよ」
「え、米強盗!?」
思わず声が裏返った。
米強盗――そんな馬鹿な……。いや、確かに最近、米の価格は異常に高騰していた。ノーブランド米ですら以前の四倍近い値段。銘柄米に至っては一万円を軽く超えている。しかも店頭では品薄ときている。
原因は政府の減反政策だの、農家の高齢化だの、異常気象による収穫減だの、いろいろと言われている。また、市場に出回る量を絞って価格を吊り上げているなどという陰謀めいた噂まであった。
そこへ転売屋が群がり、ネットでは米の高額転売が横行。さらに、精米前の倉庫から盗む米泥棒まで現れたというニュースもあった。
そう考えると、米を狙う強盗が出ても不思議ではないのかもしれないが……。
「そんなに大事に抱えてよお」
男はナイフをひらひらと振りながら、どこか楽しげに言った。
「いや、盾にしようと思っただけですけど……」
「ブランド米か? 産地はどこだ? 新潟か?」
男は袖口で口元を拭い、じっと袋を見つめた。その視線は、路上に立つ売春婦を値踏みする客のそれに近かった。
「いや、普通のブレンド米ですけど……」
「ブレンド米か……まあ、仕方ねえ。年代は?」
「まあ、古いとは思いますけど……」
「ちっ。まあいい……。あっ、まさか外国産米じゃねえよな……?」
「いや、普通に国産です」
「いよしっ! いいぞ……。で、精米時期は? いつだ?」
「さあ……たぶん、今年じゃないですかね」
「ああ……。で、で、何キロだ? まさか四キロじゃねえだろうなあ。五キロに見せかけて売りやがって、せこいんだよ……」
「いや、違いますけど……」
「じゃ、じゃあ十キロか? いや、まさか二キロってことはねえよな、おい! あんなの一人暮らしのジジイしか買わねえぞ!」
「いや、五キロですけど」
「いよおおおし!」
男は拳を握りしめ、高々と掲げた。
「なんか、楽しそうですね……」
そんなに好きなら普通に店で買えばいいものを。
いくら金がないにしても、まったく手が出ない値段というわけではあるまい。確かにタダで手に入るに越したことはないが、犯罪に走るほどのことなのか。もっとも、強盗をやる人間に後先考える頭を期待するほうが間違っているのかもしれない。
そんな相手に話し合いなど無意味だろう。刺されてはたまらない。
おれは観念し、袋ごと男に差し出した。
男はそれを受け取ると、慎重な手つきで地面へ置き、膝をついた。そしてクリスマスプレゼントを前にした子供のようにわくわくした手つきで袋を開き、ガサガサと中身を取り出した。
「米だあ……いい……かわいい……」
男は恍惚とした声を漏らし、米袋にナイフを突き立てた。
ざっと乾いた音がして、切り口から白い粒が滝のようにこぼれ落ちた。
「お、と、と……」
男は慌てて片手を差し出し、落ちてくる米を受け止めた。指の隙間からいくつか粒がこぼれ、アスファルトへ転がった。
受け止めた米を顔の前へ持ち上げると、男は鼻をぷっくりと膨らませ、深く息を吸い込んだ。
目を細め、にんまりと笑った。その表情は、炊き立ての湯気を前にしたときのようにうっとりとしていた。
それから米を包んだ手に頬をすりすりとこすりつけ、「おお……」と小さく息を漏らした。まるで恵みに触れているかのようだ。
そして次の瞬間、男は手の中の生米を一気に口へ放り込んだ。
――ボリ、ガリ、ボリボリ……。
「うめえ、うめえよ……日本人はやっぱり米だよなあ……」
ぼりぼりと硬い咀嚼音が夜道に響く。ごくんと飲み込むと、男は感嘆の息を吐いた。顔はやや上へ向いており、その視線の先を追うと、丸い街灯があった。
満月に見立てているのかもしれない。男は恍惚とした表情で、片手にナイフを握ったまま両手を小さくゆっくりと振り始めた。頭の中で、ぽんぽこぽんぽん、なんて音楽が流れているのかもしれない。
やがて、はっと目を瞬かせて視線を落とした。アスファルトに何粒か米が落ちていることに気づいたらしい。男は少し照れたように頭を掻いた。
顔を地面すれすれまで近づけ、唇で吸い上げた。取り切れない粒は舌先で丁寧に舐め取っていく。その仕草は奇怪でありながら、どこか神聖さも漂わせていた。
「……おっ」
男は小さく呟き、口角を上げた。視線の先、排水溝の脇に小さな水溜まりができている。この間の雨の残りか、それとも誰かの小便か、街灯の光を受けてかすかにきらめいていた。
男は袋から米をひとつかみ取ると、水溜まりへ落とした。ぱらぱらと白い粒が水の中に広がっていく。
そしてそのまま顔を近づけ、水ごと米を吸い上げた。
「ああ、最高だあ……やっぱ国産米じゃないとなあ……」
顔を上げた男の口の端には、水を吸った米粒がいくつかこびりついていた。男は再び袋へ手を突っ込み、米を口に掻き込んだ。鼻をすすりながら「うめえうめえ」と呟き、生米を貪り続けるその姿を見ていると、なぜか目頭が熱くなった。
備蓄米も放出したにもかかわらず、米の価格は下がらず、高騰は止まらなかった。国民の不満は日増しに大きくなっていき、批判にさらされた政府は、あるときバイオ技術を用いた新たな品種を市場へ投入した。
当初は『バイオ米』『プラスチック米』『ナナヒカリ』『波動米』『おぼろげ』『あきれこまり』『のりかず43』などと散々な名前で揶揄されたが、人々は喉元過ぎればという国民性を遺憾なく発揮し、徐々にそれを受け入れていった。
おれはもともと麺派で、米を買うことはほとんどない。今回は、たまにはカレーでも作るかと思って手を出しただけだ。だが、依存性があるという噂は本当なのかもしれない。
米を貪り続ける男を背に、おれは静かにその場を離れ、家路についた。
アパートへ帰り着き、キッチンの棚を開けた。中を覗き込むと、ほっと息を吐いた。
「やっぱり、パスタだよな」
外国産だが、今や国産が無条件に信用できる時代でもない。おれはパスタの袋を開け、そのままかじりついた。
――がりっ。
……ああ、歯に食い込む硬さ。口内に刺さる感覚がたまらない……。
――バリ、ボリ、バリ……。
噛み砕く音が部屋に響く。おれは奏でた。ああ、最高の讃美歌だ。
目を閉じて両手を上げ、口の中に広がる恵みの味を鼻でゆっくりと味わう。
最高だ――。
深く息を吐いたそのときだった。窓の向こうから、しとしとと雨音が聞こえてきた。
おれは、はっと目を開けた。慌てて鍋を掴み、窓を開けて外へ突き出した。
――カン、カン、タン、カン。
金属を打つ澄んだ音が、夜の雨の中に響く。
やがて、よその家々からも同じ音が重なり始めた。
――カン、カン、タン、タン、タタン、カンカン。
乾きが満たされていくその響きに耳を澄ませながら、おれはそっと目を細めた。




